第四回 今 笠地蔵"Re:F×××"

 恋だった。


 しのつく雨がシャッターの下りたお店の軒下にわたしを追いやって、すぐさま空よりもくらいグレーでコンクリートを塗りつぶしていった。湿度と、アスファルトのニオイと、倦怠感につつまれながら、できあがった境界線をなんとなく眺める。


 わたしの門出はほとんどが雨だ。入学式とか、はじめてのバイトに行く日とか、あと七五三も雨だったな。待ちに待った成人式ももちろんで、なにが晴れ着だよってみんなで言って。


 名前が美雨だからだ、ってよくからかわれた。でもそれって、同じ歳の雨女や雨男たち、雨属性のみんなの力が強いだけじゃない? 名前だけで世代のトップランナーに祭り上げないで欲しい。


 だけど、雨も好きだ。


 雨が好き、なんて大それたことは言わない。だって遠足とか運動会とか、屋外イベントは絶対に晴れたほうがいいし。でもあの時めちゃ雨降ったよねとか、ズブ濡れの雨上がりに虹が出たなんていう動画のコマーシャルみたいな青春も、必要なんだろうなと思う。逃げられない天候様おてんとさまの気まぐれに一喜一憂するのがイヤなだけ。


 あと当然、この名前で"雨が好き"って思わないのはダサい、って感覚も少なからずありはする。雨を好きにさせられたんだとしたら。だとしたら、親に感謝だ。


 とかなんとか。いつのまにか視界に、足が二本あった。

 なぜか、棒が一本あったとさの絵描き歌って、なにができあがったんだっけってなって。6月6日に雨がザーザーふってくるのしか憶えてない。あと、梅雨の雨がザーザー降るかよ、というパパの声と。


 その人の6月6日の部分はあかく染まった富士山で隠れていた。カッパかな? カッパじゃないよ、ポンチョだよ。あれ? どっちだ?


 墨汁にひたした筆をどぽんと置き、そこから棒が一本、二本、黒のスキニー書き上げて(筆だから、書き下ろしてあとでひっくり返すんだと思うけど)朱墨で紅富士あざやかに。細い脚に開くカッパ。


 からかさおばけ……? が頭をよぎる、ろうとした、その、瞬間だった。


 雨ガッパの上にあまりにも、なんていう、美しい、ええと、うん、美しい、顔。語彙が消失してしまった。頑張ってみる。墨の濃淡で描いたような、ギリシャ彫刻の、水もしたたた、だめだ、息が詰まって、わたしの顔が、彼のカッパよりも、赤い。


 倒れ込みそうになったわたしをシャッターが雷みたいな音を立てて受けとめてくれた。それにびっくりして正気を取り戻せた。もし目の前にいるのがからかさおばけだったら、シャッターに恋をしてたかもだ。


 美しい顔が、ゆっくり、わたしとその人との境界線を、越えてくる。濃淡に薄墨うすずみがかかり、紅富士からこれまたゆっくり、にゅうっと6月が出てきた。わたしの震える9月がそれを掴む。つめたい手。でも、あたたかい手。


 全身から火が出そう。そう思いつつ宇宙戦艦が宇宙空間で態勢をととのえるが如くあちこちからその火を出して、彼の手を支えに身体を揺すって立ちあがった。パパの趣味が、わたしの乙女を蹂躙しているのを感じながら。


 そんなしょうもないものを感じている間に、しめった手が、繊細そうな指が、離れていってしまう。固まったまま見送るしかなかった。滅びゆく地球のために宇宙戦艦に乗り込む恋人を見送、あ、こんなことを考えている場合じゃないんだ。ジブリの主人公みたいに自己紹介しそうになって、すんでのところで呑み込んで、カバンを発狂したときのドラえもんみたいにまさぐった。






 "Re:F×××リフレイン






 都会では自殺する若者が増えている。


 あの歌が流行はやってもう50年以上も経つのか、っていうパパの口癖を耳にしながら、靴をはく。相変わらず独り言がデカい。構って欲しいんだろうな。


 傘がない


 そういうタイトルの歌らしい。傘がないだけで自殺するなんて、と現代にしてみれば当たり前のことで死んじゃう世の中のことは想像もつかない。


 それが50年しかさかのぼらない話なんだ……って、じゃあパパもその時代のことなんて知らないんじゃん、と眉間にシワを寄せながらいってきますを言った。


 傘がない


 わけじゃない。でももうほとんどの人は持ち歩かなくなってしまった。Unbawlerっていう、空気の層をつくって雨から身を守る機械ができたからだ。


 両耳のうしろにひっかける、イヤホンとヘッドホンのあいだくらいの発信機をつけてスイッチを入れると、頭の上に浮いた浅めのボウル型の本体が風の膜をつくってくれる。


 よっぽど強い雨風じゃない限り、傘よりも断然楽で、足の方まで濡れなくてすむ。そもそもUnbawlerでダメな風雨は傘でもびしょびしょになっちゃうだろうし。


 補聴器とは相性が悪いらしく、一緒にはつけられないけど、うちのお婆ちゃんは足が悪くなったお陰で車椅子用を使えるようになった。そう言ったパパにお婆ちゃんは「お陰様の意味がわかってるのかい?」と孫の手を突き刺してた。もちろん、実際の孫わたしの手も出た。


 まだあの手の感触が残ってる、ような気がする。孫の手じゃないよ、彼の手。あのあと、わたしはカバンから出したUnbawlerを彼に献上した。まさにそういう表現が最適だったろう。


 こんなに返さないといけないものないし、という打算がなかった、といえば嘘になる。や、打算しかなかった。と思う。だからといって連絡先を訊いたわけでもなく、とんでもないことをしたなといまはびっくりまでしている。


 だからこれは、恋なんだと思う。


 不思議そうにUnbawlerを見つめていた彼に、消え去りそうな声で「こうやってつけます」と顔から火を吹きながら言って、後ろに回ろうとした。もし回れてたら、その火ですぐに髪が乾いたろうな。


 びっくりして背後にまわらせてくれなかった(いま考えればそりゃそうだ)ので、わたしがつけてみせた。風の膜を張り、雨のなかへと踏み出す。境界線がそこだけまあるく突き出したかのように、わたしには雨がかからない。もちろんくるりと回った。そして、きょとんとする顔も、美しかった。


 おそらく


 カッパのフードをかぶったり、傘を差すことによって、そのお美しい御尊顔を隠してほしくない、という欲動がそうさせたのだろう。いま考えても恥ずかしいことこのうえない。くるりと回ったこともだ。


 でも……もったいないじゃない?


 お婆ちゃんが足を怪我したのは、自転車の傘差し運転の人にぶつかられたからだった。相手が保険にも入ってなくて大変なことになってるらしい。


 なぜ自転車に乗るのに傘を差すのかという、ニュースについてたコメントに「雨具で乗るのがダサい」とあって、絶句した。


 ルールもまともに守れない大人の方が絶対にダサい。お前が雨具着てようが傘差してようが、誰も「カッコイイ…」なんて思わねえよ、とどこが絶句なのかわかんないくらいにまくしたてていた。言葉づかいは気をつけなさい、とこぼすパパにもちょっとあたっちゃった。


 なぁんて自己評価の高い御仁なのかしら。傘差してたらモテるかも知れなくて、雨具だとそのルックスに横槍が入ると思ってるってことだよね? あれ? じゃあ自己評価は低いのか。当落線上を自覚してるってこと? なんの?


 いつのまにか白眼をむいてた。文句なしの男前だったら、何してても何着ててもカッコイイもんね。誰が、いや何がその人に、そう言わしめたんだろう。カッパ着てるヤツはダサい的なことをマックで隣に座った女子校生が言ってたのかな。


 家を出る。雨は降っていなかった。が、色濃く塗りつぶされた地面が朝までの降雨をクチバシっている。Unbawlerなしで出かけるのは心許ないけど、人に貸してきたなんて言えないし。


 昨日、Unbawlerを彼に押しつけ雨の中をコンビニまで走った。せ、青春だ、と思ってしまった。額の汗を手の甲にしつつペットボトルで清流の水を呷り、架かる虹を見あげれば完璧だったと思う。でも虹もなければ店内に入るには濡れ過ぎていたしで、ハンカチで赤い顔を隠すのが精一杯だった。


 あまり使われることのなくなったであろう共用のビニール傘を手に、彼のぬくもりをにぎにぎしながら顔をゆるませて歩いた。小糠雨こぬかあめにはこれ以上わたしを湿らせる力もなく、持ってるのも億劫で、もう古かったんだろうな、骨が一本折れてたし、高架下に暮らしてるおじさんにプレゼントして帰ってきた。困ってそうだったので、置いてきただけなんだけど。


 曇る空を仰ぎ、玄関ポーチのタイル部分と濡れたアスファルトの境界線をまたぐ。好きな野球選手が登板の際、塁と塁の間の線を踏まないっていうのを知ってから、なんとなく意識するようになってしまった。ゲン担ぎなんて、意識したらおしまいだ。永久にわたしを縛る枷になる。しなかったときだけ、気になって気になって気が気じゃない。


 地面に目をむけた。ちょっとでも踏みたくないのだ。何かある。何だろう。もうあげてしまった足が落としどころを探してゆらゆらと彷徨さまよい、変な姿勢で境界線を踏みつけた。ゲンの悪さがさっそく発揮され、たたらを踏みもんどりうって倒れそうになる、のを、どうなったのかわかんないけど、酔拳の達人みたいに身体をねじりねじって耐えてみせた。どぅおおと叫びながら。


 革の手袋だった。ひねった腰をおさえながらつまみあげる。金具のついた、あずき色? のおしゃれな女性用。それなりに新しい。片方だけ。


 誰かが道に落としていったのかな。よく落とし物が道の端や、侵入禁止のポールの上に置かれてたりする見えない親切に遭遇するけど、大事なものって通って来た道すがらを探すから、そのまま置いとくのが一番なのではというのが個人の感想です。


 でも外とウチとの境界線に指をかけられててもな、というのが頭をよぎって、それを拾い、手首の部分をつまんで広げ、ぎりぎりアスファルト側に立てて置いた。ふしゃん、と倒れる。ま、しょうがないか。家に侵蝕はしてないのでヨシとする。


 帰宅した。手袋はなかった。落とし主が現れたのか、誰かが持っていったのか、とりあえずよかった。


 わけでもなく。


 ハンガーが置いてあった。

 や、落ちてた、のか。ウチで使っているものではなさそう。クリーニング屋さんの針金やプラスチックの簡易ハンガーではなく、肩が形崩れしにくい型の、三角形の底辺部分にはパンツやスカートを挟み込めるタイプのしっかりしたやつ。


 たまたま落ちたなんてある?


 映画や舞台の衣装さんが、ハンガーラックごと運んでたとか? で、道の真ん中に落っことしたのを、誰かが端っこに寄せておいた? 腕を組み、眉間にはシワ、首が一周回っちゃうんじゃないかってくらいにひねって、


「ん~~~~~?」


 と高い音を出した。なんだろう。せめてウチの敷地内には入れないで欲しかったな。ひろいあげる、のもなんだかはばかられたので、足ですすすと敷地外へと押し出した。


 朝。ハンガーはぬいぐるみになっていた。そんなわけない。ハンガーの三角形の中に小さめのぬいぐるみが鎮座していた。魔法陣に召喚されたにしては反対向きの三角が足りない。


 しゃがみこんでソイツを見る。ほっそい目のほっそいうさぎのぬいぐるみだった。見ようによってはカワイイ。むむむとにらめっこをし、可能性を試案してみる。


 昨日と同じく、首が一周回ったあたりで、Unbawlerを渡した彼の顔が浮かんだ。ぼっと熱くなる。お返しの……プレゼント……? な、わけないか。けど、そうだとしたらと仮定してみたら、心臓が"トクン……"と跳ねた。ねこが餌をもらったお返しに蝉の死骸をもってくる、みたいなお話しを思い出して。


 でもま、違うよね。ゴミが捨ててあったり、産業廃棄物の不法投棄場所って、捨てていいトコロってなっちゃうのか、そういうのが集まってくるっていうし。落とし物も、同じところに集めとこう、的な感覚になってくるのかも知れない。どっちにしろ迷惑な話だ。


 いや、迷惑、なのだ。袖笠雨そでがさあめの中を走って帰ってくると体温計が置かれていた。水銀計と電子のと二本。お箸のように並べて置いてある。次の朝、水銀計だけがなくなっていて、夜は延長コードになっていた。


 気持ちの悪いわらしべ長者が、長者じゃないか、わらしべが、まって、なに? わらしべって。しべ……しべ? なんでもいいけど、誰かが何かを、もしかしたら誰かと誰かが何かを、している。周りを見るのも怖くなって家に駆けこんだ。アホみたいな顔してリビングでテレビと新聞を両方見ていたパパを睨みつけて部屋にこもる。


 次の日、鉄アレイが置いてあった。見てないフリをして家を出る。境界線を踏んでしまったかはわからない。夜はすこし遅くなるので不安もあるが、一緒に晴れ着を着た晴子ハルコとお酒を飲む約束をしていたし、この話も聞いてもらおうと家の前だけ白眼をむいて駅前へと急ぐ。


 酩酊された。晴子はパパが好きなドリフの人の酔っぱらいのような千鳥足で、時折こみあげてくるものと格闘しては、実際の鳥みたいな顔になってる。わたしの頭には、お酒の飲み方はゆっくり覚えろというパパの声がこだましていた。まだゆっくり飲めてない証拠だろう。


 晴子が道の端で四つん這いになった。四足動物の出産シーンかよってなりながら背中をさする。居酒屋さんのトイレで、静かに(そして汚さずに)飲んだものをお返ししていたので、出すものがなくって辛そうだ。「よーし、よし」と出産シーンさながらにわたしが言うので、笑いも堪えてはいる。


 ふいにタオルが出てきた。タオルだと思った。「あ、ありがとうございます」と普段なら出そうな声を、お酒の甘みがとろけさせている。じっと見つめている時間。雨がつくった境界線を眺めていたあの時間。


 縫われてない。だから雑巾ではない。方程式。でも雑巾みたいなタオル。だった。じゅうぶんに汚れていたからだ。差し出された手をたどる、視線は酔っ払い運転でなかなか目的地にたどりつかない。


 眼。白濁したまるの中に、真っ黒いまるが空いただけの、眼があった。ひとつ眼。こちらを見ている。ただ、目があうわけでもない。それ以外は黒。粘つく長髪と、ゴワついた髭ですべてが覆われていて、顔の造りもよくわからない。


 素面シラフだったら「ひっ」と言っていただろう。キリンジラフだったら? 視覚情報に脳が追いつかない。だまし絵ブラフを見てるみたいだ。


 傘を差してる。ビニール傘。どこかで見たことがある骨の折れた傘。柄をもつ指も骨ばっていて墨の濃淡のように黒い。服も差し出されたタオルかそれ以上に汚れていた。わたしは必死に、雨、降ってたっけ? と考えている。ある種の防衛本能なのかな。


 強烈な臭いが、空模様からわたしの意識を引き戻した。光より音が遅れてくるのと同じ、映像を認識する速度がお酒で覚醒されていたのかもしれない。し寄せてくる臭気の圧。う、と呑み込んだ色々を、晴子が受け止めたのかってくらいの震えを感じた。出産は一瞬で。すごい音がした。


 その人はすこしだけ笑っ(たように見え)て、タオルを地面にぬさっと落とすと、身体をくねらせて立ちあがった。のに、傘だけは垂直に持ちあがる。


 モノクロームは色の見える臭気をまとい、ちいさいくねりを繰り返す奇妙な歩き方で遠ざかっていった。からかさおばけを手に載せて、からからと笑うその背中。頭の後ろにもうひとつの眼がある、あるわけがないのに。わたしを視ている。凝視している。


 暗闇が粘つく髪から侵入し、光と影を入れ替えながら真っ黒に身体を塗りつぶしていった。動かない傘だけが、ずっと、ずっとそこに


「コワッ」と晴子が胎盤を吐き出した。なわけもなく。親友の声(音?)に安堵が世界をUndoさせる。同時に全身が震え出し、わたしも四つん這いになってもどした。なんだよこの狛犬は。鼻水も涙も出て、阿も吽もなかった。ふーふーいいながら晴子がわたしを見ている。めちゃくちゃ怖いけど、心配してくれているんだと思う。


 自販機で買った水と持ってたハンカチとティッシュを駆使し、震えながらすすいだりぬぐったり、晴子を家まで送ったりでもうぐったりだった。


 それでも、道ゆく人のわたし側のどこかに、あの眼があるように感じられて、視線をむけることさえできず、あかるい道あかるい路と選んでいたらまた遠回りになって。


 家の前に着いた頃にはわたしが一番不審者なんじゃないかってくらいに変な歩き方になっていた。それだよそれ、とあの人の眼が壁に道路に電信柱についてる。はず。だから見ない。下を向いて歩く。身体がくねらないように。


 家に着いた。置いてあった。それはUnbawlerだった。風を出すボウル状の部分が、白眼をむいてこちらをみている。観ている。見ている。


「あ」


 声が出た。狛犬の阿。


「あぁっ!」


 わたしは走っていた。顔にちろちろと雨がかかりはじめる。霧雨きりさめ煙雨えんうになり、もう靄だかなんだかよくわからない。異界への門がひらいて、此岸と彼岸の境界線がなくなっているのかも知れない。境界線自体をつくりたくてひっ掴んできたUnbawlerをつけようとした。が、もし


 もしスイッチが入らなかったらと考えると手が震えて、いや、震えていた手が攣りそうになって、動かせなかった。微振動を起こす自分の手にノイズが混じって、墨の濃淡で描いたタオルを持つ手が割って入る。やっとのことでUnbawlerをたすきがけのかばんにねじこみ、震える左手で暴れる右腕を抑えて、一心に紅富士から出て来た6月を、そのぬくもりを思い出す。


 高架下。蛍光灯の音がしなくなったな、というパパの声が木霊したのを耳が憶えている。それがわたしの一番最初の記憶。二人だった。三歳の追憶。雨が降っていて、パパとここで雨宿りしたんだった。


 広めにとってある歩道の端が生活用品と思しきゴミの類で仕切られていて、その中に大きな段ボールが横たわっている。まるで棺桶。お供え物のように置いてあるビニール傘。わたしが、置いた、傘だ。あの日は雨の雫が地面を濡らし、血だまり、じゃ、なかったはず。記憶がさかのぼって変換される。両脚がすくむ。雨足はつよくなり、襟あしに鳥肌が立つ。


 飽和した湿気が質量をもってしよせ、眼も耳も、鼻も、外界から遮断される。雨が高架下を孤立させた。嘘寒さがあの日の軒下の彼を、そしてわたしのはじめての記憶を侵蝕していく。


 めが、目が、眼が、わたしを視ている。天井から、その角から、コンクリートの壁の太いネジが埋め込まれた部分から。そして段ボールの隙間か


 棺桶の扉がひらいた。全面が開くんじゃないのか。長い棺の半分だけが湿度を圧しのける、その音が視える。眼だけが持ち上がった、と錯覚するほど、奇怪な動きで身体が出現する。どこか悪い部分ところがあるのかも知れない。視線を避けるために視界を芒洋ぼやけさせて、増えた情報量がそう感じさせた。


「やっときた」


 傾いた顔の半分というか、ほとんどを隠していた髪を墨炭の指が掻き上げ、両眼が現れる。よかった、ちゃんとかおがあった。動画を逆再生させたみたいな声からは不思議と年齢を感じなかった。


「ありがとうね」


 顎をしゃくったように見える。眼が見られないので実際にそうだったかは判らなかったがおそらく傘のことだろう。


 え


 と思ったが言葉が掠れて口の外にまで出なかった。


「ちょうどよかったよ。こわれてるから、どっかですてても」


 ゼンマイ仕掛けのように首が反対側に傾いた。


背徳うしろめたくないもんね」


 あ


 喉にあった空気が動いただけで音にもならない。


「おかえしー」


 し、がファミコンのカセットにさわっちゃったときみたいに同じ音でずっとのびてる。にやにや笑うパパがそれを抜き口をすぼめて息を吹きかける。


「よろこんで、もらえたかな」


 お


 の口のまま、もう何も出てこなかった。おかえし。おかえしってなんだろう、なんのだろう。すべての音を吞み込み轟々と高架の上をはしっていく電車と同じ速度で、粘つく塊になった言葉たちとその意味が駆け抜けていって、思考が追いつかない。声はおそいのに。すべての単語が耳にまとわりついて反響までしてるのに。傘の、に、決まっているのに。


 振動が残っている。毛穴という毛穴に埋め込まれて、身体から出ていってくれない。それ以外はすべてが停止している。


 う


「うあたし」


 W-atashiと零れ落ちた。誰のことだろう。わたしにもそれが誰だかわからない。


「そんな」

「つもりで」


 誰だかわからないわたしと誰だかわかってないわたしが会話している。また電車が近づいてきた、いや、この振動は、わたしが、わたしの歯がガチガチいっているだけだ、と思う。ふたりのわたしの、歯と歯が。がががが。


「そんなわけ」「ないでしょ」


 空間に横たわっていた両眼それぞれから声がした。


「よかったら」「どうぞ」

「こういってたんだから」


 髭に埋もれた口が出しゃばってくる。


「おじょうひんに」「そだてても」「らったん」

「だ」「ねおや」「ごさん」「にかんし」「ゃだ」


 もうどこがしゃべっているのかも判らない。高架に反響しているのか耳がおかしくなっているのか。視線がレーザーのようにわたしの四肢を、顔を、意識を、断ち斬っていく。ほんのすこしでも押されたら、ばらばらになってしまうだろう。


 棺桶に浸かったままの身体がまた持ち上がった。どんどん大きくなってしまうのではないかと右足が半歩下がる。よかった、身体はばらばらにならなかった。


「だけどね」


 鞄を前で抱えて全身に力が入る。そのままの姿勢。動かない。何も言わない。動けない。何も言えない。眼を、視てしまいそうになる。無理やりに引き剝がす。泳ぐ視線。赤いものが目に入る。あれはなんだろう。


「や」


 わたしはぎゅっと目を瞑る。

 思考。思案。思慮。逡巡。を感じた。


「いいや」


 諦観もう、というより、達観 ま、に近い"いいや"。

 目だけがあく。どういうことだろう、と考える。


「じぶんもさ、人のいらないもの押しつけられたら、やでしょ」


 何の話をしているんだろう。革の手袋、ハンガー、ぬいぐるみ、体温計、延長コード、鉄アレイ。死んでいった仲間たちみたいにわたしの頭を通り過ぎていった。


「もっていってもらっても、いいかな?」


 傘。のことだと思う。何かを言おうとして、たくさんの言い訳がまだ生きてる仲間たちのように背中を押してくる。ああ、わたしはいつもこんな御託に生かされてきたんだと、その押してくる手に悪寒と嫌悪感を覚えた。


 思考。思案。思慮。逡巡。


 何も口にしないことを決めて、寝そべる傘を拾うために一歩と勇気を出した。つもりだった。震えに震え冷えに冷えていた両脚はわたしのじゃないみたいに動かなかった。身体はそこへ向かおうとしていたのでただただ世界がかしいでいく。スローモーション。決死のかお。大地から聖剣を抜くように、なんとか足を引き剥がす。傘にぐじゃと靴がのり、じゃぐと滑った。たたらを踏み、境界線を踏む。赤い。棺桶の中にあの6月6日があの6月6日が


 わたしは酔拳の達人なのかも知れない。いまは実際に酔ってもいるだろうし。聖剣によって封印されていた能力が覚醒したのか、スローモーションから解き放たれ、尋常ではない(脳内)速度で身体をねじりねじって態勢を立て直し、傘を拾って前に突き出しながら棺桶からの距離をとった。


 ああああああ


 顔面が崩壊する。絶叫と絶句。絶望と拒絶。恐怖と、怒りと、混乱と、畏怖。マシンガンを連射しているように、突き出した傘が震えている。あ、あ、とあとを次ぐ言葉が出ない。


 わたしの視線がぬめりを感じる。両眼が嘗めるようにその先へと運ばれ、自分が収まっている棺桶の中をぐにゃりと観た。


「ああ」


 墨炭の手を入れ


「これか」


 真っ赤なきのこが出てきた。どろんと力なく抜け殻のような重さをたたえて。それを片手で棺桶から引き抜いて、眼の高さまで上げたのだ。人外だ。すべての言葉と音と声と息とが口から喉に詰まり、わたしは尻餅をついた。真っ黒な毛に覆われた両眼とならんで、彼の美しい顔が力なくたたずんでいる。クリムトの「接吻」か、ゴヤの「我が子を食らうサトゥルヌス」か。


 いつのまにかわたしの視点は移動している。わたしの背後から、このエロスとタナトスを描いた芸術を見上げている。わたしもその一部で、顔は見えないのに慄く姿がうまく表現されているとか批評家に言われるのだ。


 でちゃ、目の前に彼が投げ捨てられた。全身の関節がひしゃげてその視線と同じく望洋とあちらこちらを向いている。生気がない。そして、厚みが足りない。なんだろう。捻じまがった背中には裂け目があり、傷を入れたアロエの葉肉のように濃度の高い粘液が滲み出ていて


「なかみはしんだよ」


 意シキをうしないそうになったトコロをそのこえがひきとめた。ナニをいっているのかはわからない。てれびのしけんデンパのような音がのうみそを木黄ギっている。かが、カが、力がはいらない。


「にんげんをきてたんだね。ぼくもはじめてみたよ。あちらには、たかいぶんめいがあるんだねえ」


 カミをかきあげながら、ゆっくりとした口ちょうではなしテイル。イキがすえるけど口土けない。ノウがのうがさんき、さんけ、のうさんき


「かっぱだよかっぱ。かっぱがはいってたんだ」


「かっぱがにんげんをきて。あそびにでもでてきたんだろうね」


「きみのわたしたきかいをつかったから、さらがかわいちゃったんだろうな。ぬらすためにあめのひにでてきたのに、おもしろがってるうちにいしきがなくなったとか、そういうのだろうね」


「ぼくのなかまも、ねっちゅうしょうでよくそうなってる。いきかえるー


 というか、しななかったってだけのひとはおおいよ。ひとには、ああ、かっぱにもだろうけど、ひつようなものと、ひつようじゃないものがあるからね。なんでもかんでもほどこそうとしたら、どうなるか」


「ようく、かんがえよう。ね」









 ベッドで目を覚ました。部屋が白い。もう明るいのだ。まだ毛穴には電車の振動が詰まっていて、脳みそにはテレビの試験電波が、薄く、細く、横切っている。ような気がする。


 雨音が聞こえた。宿雨しゅくうになったのか。「あめ」と口がささやく。五感なかなか立ち上がらない。異物感に身をよじる。鞄を抱えたまま寝ていた。中にはUnbawlerが入っていた。


 物質が身体に事実を突きつけてくる。記憶が脳の中で疼く。昨日? の映像が、試験電波のノイズを織り込みながら頭をよぎって、「ああ、」と喉がつぶやいた。


 わたしが、一匹の、一頭の、ひとりの? 河童を、死なせてしまった。ということか。


 おさらがかわいて、河童が、死ぬ。彼の抜け殻から同じ恰好の河童がぬるりと出ている。


 このイメージの河童で、あってるのかな。かっぱ? 河童かな、カッパじゃないよ、河童だよ? その河童が彼の中に入っていて? それが本体で? その彼・河童がわたしに手を差し伸べ、カッパから出てきた6月で、わたしは?


 浮かんできた"?"が顔全体を取り囲み、たてがみのようになった。河童そのものは見てないけど、あそこにいた彼の抜け殻が、その質感が、否定材料を押しのけて余りある。


 これじゃ芥川龍之介の「河童」にでてくる精神病患者第二十三号じゃないか。頭をふる。膨大な"?"が落ちる。手が汚れていた。彼のぬくもりを、墨炭の指が抜け殻の彼へと描き替える。吐き気をもよおした。自分がどうやって帰ってきたのかを考えたからだ。口元に持ってこようとした手が汚れているのであわわとなる。鼻で大きく息を吸う。身の毛がよだつ。


 あれに、運ばれた。のか。


 見た目や動きは怖かったが、話し方や声音は落ち着いていて異様な感じはなかった。ただ、どうしても、あの臭いの圧と墨炭の指が受けつけられない。頭を抱えようにも手が汚い。服を手繰たぐって身を縮こまらせた。


 どうせなら、そのままあそこに倒しておいてくれればよかったのに。重い身体を運ばなくてすんだんだし、雨にも濡れなかったろうし。


 窓にはカーテンがかかっていなかった。外には傘の花もなく、陶器や漆器を想わせる色褪せた街並みに陰雨が紗をかけ、遠くはまるで見えない。白い部屋の真ん中に傘が横たわっている。まるで中身の抜けた彼だ。いや、身を竦ませているわたしだ。いったいだれだ。ちがう。いったいここは






 終






 オトギバナシ ノ ショートショート"今昔ortギバナsh"は昔 と 今 それぞれつづっています。


 よろしければ笠地蔵の 昔「"Case the Jizo."」 を。


https://x.gd/MY5we




 ショートショートに殺されても仕方ないくらいの文字数になってしまいました。ここまで辿り着いて下さった方ほんとうにありがとうございます。最初、さわやかな話にするつもりだったんですが、気がついたらホラーテイストになってたという。信じられへん。


 いちばん怖いのは自覚のない人間や学ばない人で、そういうの吹聴するのもこういうタイプだったりするのかしらなんて。主人公に奥行だそうとしたつもりが少女の輪郭がいやにぼやけたままになりました。でも結局お話としては、それにそぐうキャラクターになってくれたのではと。境界線の物語でもありますもんね、笠地蔵って。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

今昔ortギバナSh 高見つかさ @bakuretsukasa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ