つま先立ちの恋

鳥尾巻

染まり愛

 私の恋は単純で、想った分だけ相手にも返してもらえるものだと思ってた。当時20歳だった私には8歳年上の恋人がすごく大人に見えて、つま先立ちの恋をしていた。精一杯の背伸びなんて見透かされていたのに。


「出ていくの?」

「うん」

「君の夢が叶うことを願ってる」

 泣きそうな私とは対照的に、彼の黒縁眼鏡の奥の瞳は柔らかく細められ、私の門出を心から祝っているように見えた。

 本当は未来まで独占してほしかった、なんて言葉を飲み込んだ。家族は厳しい祖母以外に縁遠く、誰からも愛されないと思い込んでいた私を初めて受け入れてくれた人だった。彼の愛し方は大らかで、嫉妬や束縛のない優しさは逆に私を不安にさせた。


 だから自分から手を放した。二人でいても突き放されているようで寂しかった。きっと一人になっても同じだと思った。


 大学で染織を専攻していた私は、祖母が亡くなったのを機に彼女の遺した家に独りで住み始めた。都会に住む友人達は交通の便の悪さを心配していたけれど、私にとっては集中できる環境がありがたかった。祖母が丹精していた小さな庭と、古めかしい平屋の家屋は子供の頃からお気に入りの場所だった。

 

 早朝、まだ露の残る草を踏み分け、草木染の材料を探す。草花だけではなく、樹木や実なども使える。そこかしこに生えている馴染みのある草木でも工夫次第で美しい色を見せてくれる。染めるには新鮮なものがいいので、その日の朝に採取することにしている。

 媒染剤や素材の種類によって色は変わる。花びら以外なら、出る色は想像や見た目とは違う。植物の奥底に眠る色の力は染めてみるまでは分からない。じっくりと時間をかけて変わりゆく色を見ながら、人の心も表に出る時は違う色になるのかもしれないとぼんやり考えた。


 彼とは伝統刺繍のワークショップで出会った。師匠である老先生の手伝いで来ていた彼は、細かい針仕事が苦手な私に丁寧に教えてくれた。卒業制作で糸を染めて作品を作ろうと考えていた私に様々なアドバイスをしてくれた。

 追いかけたのは私の方だ。完成までの助言が欲しいと口実を作り、工房にも何度か足を運んだ。


「僕がいつも考えてるのは、色形が美しいだけでなく、そこにメッセージや物語性があるかどうかってことなんだ。作家性以前に伝統を知ることと教養を身に着けることが大切なんだって師匠が言ってたよ」

 関係が深まり二人で暮らすようになってから、彼はよくそんなことを言っていた。

「若い頃は、周りを唸らせるようなものを作ろうって意気込んでたけど、たくさん学んで自分の内面を充実させることの方が重要なんだと今は思う」

 そうして「学びは一生だよ」と、私にはよく分からない本を読む。そんな時は少し寂しかったけど、ページをめくる音と、文字を追う彼の横顔が好きだった。

 静的かと思えば好奇心旺盛に各地を飛び回る。私も彼に連れられてたくさんの場所を訪れた。彼と過ごした時間はどれも宝物のようで、今もキラキラと私の心の中で輝いている。


 私はあの時の彼と同じ歳になった。作家として少しずつ収入も得られるようになり、一人で過ごす時間は穏やかだ。縁側に腰かけて祖母が愛した庭を眺めながら、手間をかけて染めた糸を紡ぎ、布地に針を入れる。祖母は厳しい人ではあったけれど、私が独りでも幸せを作れるように、遠くを見据えた愛とこの家を遺してくれたのだ。


『孤独は若者には苦痛だが、成熟した人間にとっては甘美なものだ』


 彼の真似をして読んだ誰かの本にそう書いてあった。まだ成熟には程遠いけれど、今なら彼の言っていたことも少しは分かる。彼の言葉は今の私を染めている。その愛は遠回りで分かりにくかったけれど、時間をかけて完成に近づくものなのだ。

 それがわかるまで、もっと一緒にいれば良かった。糸を紡ぐように、彼と自分の人生をり合わせていけば良かった。


「君は愛されてるんだよ」

「不器用でも君のやり方で」

「君が幸せならそれでいい」


 そうだね。彼の言葉を思い出しながら、ひと針ずつ刺し進めていく。翳る手元からふと目を上げると、西の空が茜から緩やかに紫根しこんの色に染まり始めていた。


 もしもこの先、彼と私の糸が再び交わることがあるのなら伝えたいことがある。


 私はあなたといて幸せでした。


 あなたは、幸せでしたか?

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