ワンちゃんのワンチャン

高樫玲琉〈たかがしれいる〉

第1話

「グスン……ヒック……うっ……うっ……」

少女は泣いていた。

愛犬を大切そうに、しっかりと抱き締めて(だきしめて)。

「さあ、もう、離してあげなさい」

少女の気持ちを汲み取ったのか、母親も、悲しそうな顔をしながら、少女の肩に手を置いて優しく、声をかけた。

「嫌!ペスと離れたくない!」

少女が頑なに(かたくなに)言い放った。

「そう言わずに、な?何時までも(いつまでも)このままでは、別れが辛くなるだけだよ」

父親も母親と、同様の言葉を述べた。

「嫌ったら嫌!」

少女は言う事を聞かなかった。

二〇二五年一月五日。

この家の飼い犬が、亡くなった。

名前はペス。

雌(めす)である。

ペスは仔犬の頃から、少女と一緒だった。

少女はよく、元気にペスと一緒に遊んだ。

少女が成長して行くにつれて、ペスも育って行った。

学校の先生や、親に叱られて落ち込んだ時は、ペスがそっと、側にいてくれた。

そのペスが今日、息を引き取ったのだ。

「ほら、遅刻しちゃうわ、ご飯食べて、仕度(したく)して、学校に行って来なさい」

母親が、言葉を変えて、少女の説得を試みた(こころみた)が、効果は無かった。

「嫌だ、休む、ペスとずっと一緒にいる!」

聞き分けの無い少女に、言って聞かせるように、父親が言った。

「それならペスが、天国に行けなくてもいいのか

な?」

少女は答えに詰まり、黙ってしまった。

「頑張って、学校に通う方が、ペスも喜ぶんじゃないかな?」

父親の言葉を聞いて、少女は、素直に応じた。

「うん」

すると、少女が父親に言った。

「じゃあ、帰るまで、ペス、このままにしておいてくれる?お墓の中に入れるの、やってあげたいから」

父親は、快く(こころよく)答えた。

「ああ、分かった、約束しよう」

二人は指切りを交わした。

嬉しそうに少女は、父親に抱きついて言った。

「ありがとう、パパ大好き」

父親も優しく応じた。

「パパもだ」

母親が、同じ言葉を繰り返すように、言った。

「分かったら、涙を拭いて、ご飯を食べて、仕度して、行きなさい」

明るい声で、少女から返事が返って来た。

「はーい」

身支度を整え、朝食を済ませて、学校へ行く用意をすると、挨拶をして、少女は出かけて行った。

「行って来まーす」

両親も、挨拶を返して、その姿を見送った。

チャイムが鳴って、生徒は下校する時間になった。

互いに挨拶を交わしながら、登校した時に来た道を

、今度は反対に進んで行く。

少女もその一人だった。

今日の授業で習った事を、思い返しながら、息を切らして、ペスの元へと、家路(いえじ)を急いでいた。

その授業は、道徳だった。

「起立ー(きりーつ)、気を付けー、礼ー、着席ー(ちゃくせーき)」

担任の教師が現れると、日直のかけた号令に従って、生徒達は挨拶をした。

それが済むと、担任は黒板に板書を行なった。

黒板には、

〝九十九神〟

と、白い文字で書かれていた。

「これを読める人はいますか?」

担任がそう、生徒達に話しかけるが、手を挙げる者はいなかった。

「これは〝つくもがみ〟と読みます」

答えを教えると、担任は続けた。

「九十九神とは、長い年月を経て、神様や魂が宿ったとされる、道具の事です」

そして、担任は聞いた。

「みんなは、昔から大切にしている物は、ありますか?」

クリスマスに買って貰った兎(うさぎ)の縫いぐるみや、お小遣いを貯めて(ためて)買った、ロボットのプラモデルなど、生徒達は答えて行った。

少女はペスの事を考えながら、ぼんやりと、授業を聞いていた。

(魂か……本当にそんな事あったらいいのに)

もし、そうだったら、またペスと一緒にいられるのに、と、少女は思った。

(あ、でも、宿る物なんて、家にあったかな?)

そう思った瞬間、少女の脳裏に、ふと、ある記憶が蘇った。

それは、今から五年前、少女が五歳の、誕生日の時の事。

両親にハッピーバースデーを歌われて、少女はケーキの上に乗っている、蝋燭(ろうそく)の火を吹き消した。

「誕生日、おめでとう」

拍手と共に、祝いの言葉が少女に、贈られた。

父親が、電気を点けて、暗かったリビングが明るくなった。

「ありがとう、パパ、ママ」

美味しそう(おいしそう)な、ワンホールのケーキを目の前にして、少女は聞いた。

「ケーキ食べていい?」

誕生日が来ると、少女が聞く、いつもの質問だ。

母親が答えた。

「その前に、パパとママから、プレゼントがあるわ」

プレゼントと聞いて、少女は、更にテンションが上がり、立ち上がった。

「え、何、何!?」

宥め(なだめ)るように、父親が言った。

「まあ、座って」

少女は、父親の言う事に従い、座り直した。

「ほうら」

そう言って父親は、ピンクのリボンでラッピングされた、黄色い、大きな袋状の包みを、手渡した。

「わぁー、開けていい?」

少女が、両親に聞いた。

「ああ、いいよ」

父親が答えた。

「どうぞ」

母親も、続いた。

包みを開けてみると、中には、人形が入っていた。

人形は、少女が抱っこ出来るくらいの、大きさだった。

「わぁーい」

人形を抱き締めて、少女は二度目のお礼を言った。

「ありがとう、パパ、ママ」

それから、三人はケーキを食べた。

少女は、回想を終えた。

(もしかして……!)

「ーーーと、言う訳で、物は大切に使いましょう、皆さん、分かりましたね」

担任の言葉に、生徒達は元気良く、返事をした。

「はぁーい」

我に返ると、いつの間にか、家の前に来ていた。

「ただいま」

挨拶を行って、家の中に駆け込んだ。

ドアを急いで閉めようとした時、担任の教師が言った言葉が、少女の脳裏を過(よ)ぎった。

(ーーーと、言う訳で、物は大切に使いましょう、皆さん、分かりましたね)

少女は両手を使って、ドアをそっと閉めた。

「お帰り」

キッチンで夕飯を作っている、母親の出迎えを聞きながら、階段を駆け上がって行った。

自分の部屋に着くと、少女はランドセルを、いつもより優しく、中に置いて、ドアを閉めた。

玄関に降りて、サンダルを履くと、その音に母親が気づいた。

「何処行くの?」

そう、少女に声をかけた。

「物置き」

と、少女は短く答えた。

物置きは、家を出て、すぐ右隣りにある。

玄関を出る時、持ち出した、下駄箱の上に置いてある、観葉植物の植木鉢の下に隠してある鍵を、鍵穴に挿して、暗証番号に数字を合わせ、錠前を外した。

鍵を、七分丈(しちぶたけ)の、ズボンのポケットの中にしまうと、少女は、引き戸を開けた。

物置きの中には、色んな荷物が、棚に陳列(ちんれつ)されていた。

(人形、人形っと)

少女は目的の物を探し始めた。

工具箱、調理器具、掃除道具、アルバム、古新聞に雑誌、本、玩具(おもちゃ)、乳児用衣類、様々な物が見つかった。

(人形は、何処かしら?)

少女は思いながら、入れ物を、元あった場所に戻した。

そして、此処か(ここか)あそこかと、考えうる、ありとあらゆる場所を探した。

しかし、それらしき物は見当たらなかった。

それでも、少女はめげずに探し続けた。

右端の棚、真ん中の棚、左端の棚と、探して行った。

だが、やっぱり、見つからなかった。

「っくしゅん」

少女が、くしゃみをした。

埃(ほこり)にやられてしまったようだ。

けれども、少女は諦めていなかった。

(また、明日だな)

ただ、今日中に見つけたかった、少女は少し、ガッカリした。

探した後を片づけ終えると、少女は物置きを出ようとした、その時だった。

〈ワン!〉

と、声がした。

ポテっと音も、聞こえた。

後ろを振り返ると、あるものが落ちていた。

それを見た、少女はこう言った。

「ーーーあった」

少女は、落ちた物を拾い上げた。

それは、少女が探していた人形だった。

少女は人形を強く抱き締めた。

そして、家に戻ると、母親に訊ねた(たずねた)。

「ママ、ペスは?」

母親は答えた。

「心配しなくても大丈夫よ、庭に寝かせたままにしてあるわ、毛布を掛けてるけどね」

気になっていた少女は、それを聞いて、安心したように言った。

「そう、よかった」

と、母親は、少女が人形を持っている事に、気づいた。

「あら」

と、声を出すと、更にこう続けた。

「懐かしいの持ってるわね」

訊ねるように、母親は言った。

「覚えてる?美衣(みい)が五歳の誕生日の時に、パパとママがこれをプレゼントしたの」

美衣は頷いて、正直に言った。

「うん、忘れてたけど、学校で思い出したの、チョコレートケーキ、美味しかった(おいしかった)」

それに付け加えるように、母親は言った。

「そうそう、口の周りにたっぷり付けて、食べてたわね」

更に話した。

「パパに、口にお髭(ひげ)がついてるぞって言われて、そしたら、美衣がパパと一緒だねって言って、みんなで笑ったのよね」

母親は続けた。

「ママに口をふかれながら、食べたのよ、ところで、どうして、そのお人形、出して来たの?」

不思議そうに、母親が聞いた。

鋭い(するどい)質問に、美衣は答えに詰まってしまった。

九十九神の話をしても、信じて貰えないだろう。

美衣は悩んだ。

急いで、頭を回転させて、苦し紛れ(くるしまぎれ)に、こう答えた。

「ちょっと、懐かしくなって、出してみただけ」

そして、許しを乞うように、母親に訊ねた。

「持ってていい?」

母親は答えた。

「勿論よ」

優しい声が、帰って来た。

美衣はホッとして、安堵の溜め息をついた。

「よかった」

嬉しくなって、また、人形を抱き締めた。

「さあ、分かったら、おやつにするから、手を洗って頂戴(ちょうだい)」

母親が言った。

「はーい」

明るい声で返事をすると、美衣は聞いた。

「今日のおやつ、何?」

母親は言った。

「ドーナツよ」

聞いた、美衣は喜んだ。

「やった!」

手を洗って、食卓の椅子に腰掛けると、母親がドーナツを三つ乗せた、皿を差し出した。

「じゃーん、さあ、召し上がれ」

歓喜の声を上げると、美衣は挨拶をした。

「いただきます」

そして、ドーナツに齧り(かじり)ついた。

甘みが口いっぱいに、広がった。

「んー、美味しい」

美衣は喜んだ。

「それ、食べたら、パパが帰って来る前に、宿題、やっちゃいなさいね」

母親の言葉に、美衣は、弾んだ声で、返事をした。

「はーい」

美衣は黙々と、ドーナツを食べた。

ドーナツが無くなると、残ったのは、皿だけになった。

美衣は挨拶をした。

「ごちそうさまでした」

席を立つと、美衣はシンクに向かい、食べ終わった皿を、母親に手渡した。

そして、人形を持つと、二階に上がり、自分の部屋へと向かった。

ベッドの枕元に、人形を置いて、美衣は宿題を始めた。

今日の宿題は、漢字の書き取りだった。

「ーーーふう」

書き終えると、美衣は鉛筆を置いた。

美衣は腕が、疲れていた。

壁掛け時計を見やると、五時になろうとしていた。

美衣が、宿題を始めてから、二時間が経とうとしていた。

大きく伸びをすると、何気(なにげ)に、机の上についてる本棚に、目が行った。

そして、ある本が視界に入った。

それは、〝スーホの白い馬〟だった。

小さい頃読んで貰った気がするが、話の内容までは覚えていなかった。

なんとなく、話の内容が気になり、手に取って読んでみた。

スーホという少年が、白い馬と出会い、共に暮らして行くうちに、心の繋がりが生まれ、育まれ(はぐくまれ)て行く話だ。

(なんか、私とペスみたい)

話に登場するキャラクターと、作られて行く関係性に、自分とペスを重ね合わせて、美衣はそう、思った。

美衣は物語に夢中になって、一気に最後まで、読み進めて行った。

読み終わると、物語の内容に涙ぐんで、本を閉じると、大事そうに、ギュッと抱き締めた。

熱くなった目頭(めがしら)から、一粒の雫が、美衣の頬を滑り落ちた。

「美衣ー、ご飯よー」

下の階から、母親が呼ぶ声がした。

指で涙を拭って(ぬぐって)、張った声で返事を返した。

「はぁーい」

本を本棚に戻し、部屋を出ようとした美衣は、人形を忘れる所だった事に気がつき、人形を持って、改めて部屋を出た。

キッチンに降りると、父親がもう帰って来ていて、

先に席に着いていた。

「パパ、お帰りなさい」

美衣が出迎えの言葉を述べると、父親も言葉を返した。

「ただいま」

父親が席を立つと、二人は抱き合った。

いつものやり取りである。

「なかなか、降りて来なかったけど、どうしたの?何かあった?」

母親が心配そうに、声をかけた。

「宿題してたら、いつの間にか寝ちゃってて、残りをやってたから、すっかり遅くなっちゃったの」

美衣が、キッチンに来るのに、時間がかかった理由をそう、説明した。

「そう?ならいいんだけど」

スンナリと、母親は納得した。

「お、懐かしいもの、持ってるな、美衣」

視線を人形に向けて、父親が言った。

「懐かしくなって、物置きから、出して来たんですって」

母親が、美衣が、学校から帰って来た時のやり取りの、事情を説明した。

「ペスの事、この子と一緒に、お見送りしようと思って」

人形を抱き締めて、美衣が言った。

「そうか、じゃあ、三人じゃなくて、四人でお見送りだな」

父親が言った。

それを聞いた美衣は、元気な声で頷いた。

「うん!」

二人の会話に、母親が割り込んだ。

「さあ、そうと決まったら、お見送りの前にまず、夕飯よ」

二人で声を揃えて、返事をした。

「はーい」

手を合わせて、挨拶を述べると、夕飯を食べ始めた。

「いただきまーす」

ーーーーーーーーー

「ごちそうさまでした」

食べ終えると、手を合わせて挨拶をした。

「ふーっ、食った、食った」

腹を擦って(さすって)、父親が言った。

「お腹いっぱい」

同じく、腹を擦って、美衣も言った。

「美味しかった?」

母親が訊ねた。

「うん!」

元気な声が、美衣から返って来た。

「ああ」

と、父親も返事をした。

「ふふ、よかったわ、それじゃ片付けてね」

嬉しそうに笑うと、母親が言った。

『はーい』

二人で返事をすると、母親の指示に従った。

席を立つと、バランス良く重ねた、食器を運んで行き、シンクに置いてある、水を溜めてあったボウルの中に入れた。

父親もと母親も、自分の食べた分を片付けた。

「そろそろ、行こうよ」

美衣が言った。

「そうね、いつまでも、あのままじゃ可哀想だものね」

母親が美衣に賛同した。

「そうだな、じゃあ着替えて来るから、ちょっと待ってな」

そう言うと、父親は座り直した、席を立ち、キッチンを出て行った。

「十二歳ぐらいだったかしらね」

母親が言った。

「え?」

美衣が聞いた。

「ペスの事よ」

母親が答えた。

「そうなんだ」

軽く驚いたような声を出して、美衣は言った。

十二歳は、人間で言う所の、八十九歳に当たる。

「私と一緒の年齢(とし)だと思ってた」

しみじみと、母親は言った。

「もう、そんなになるのね」

美衣も、穏やかな声で言った。

「そっかあ、長生きだったんだね」

続けて、噛み締めるように、母親が言った。

「そう考えたら、大きくなったわね、美衣もペスも」

と、話していると、間に割り込む、声があった。

「ああ、ペスも美衣も、昔はあんなに小さかったのにな」

父親だった。

トレーナーに、ズボンを着用していた。

「お待たせ」

父親が言った。

「それ、何?」

美衣が、父親の持ってる本のような物を、指さして訊ねた。

「アルバムだよ、思い出して、書庫にあったのを持って来たんだ」

美衣は、アルバムに興味を持った。

「見せて、見せて」

と、父親にせがんだ。

「ほら」

と、父親は、アルバムを美衣に、手渡した。

美衣は、アルバムを開いた。

「わあ、ペスがいっぱい、載ってる」

嬉しそうに、美衣が声を上げた。

アルバムの写真には、ペスの様々な姿や光景が、写し出されていた。

ボールで、一生懸命遊んでる、ペスの写真。

「美衣も写ってるわよ」

母親が言った。

おやつのショートケーキを、頬につけて、ペスと一緒に写ってる写真。

「へー、これがペス、こんなに小さかったんだ」

美衣の言葉を聞いて、母親も言った。

「今、思うと、すっかり大人になって、見る影も無かったわね」

初めてのトイレの写真。

初めての散歩の写真。

初めての留守番で、ご褒美を貰った写真。

初めてのお泊りの写真。

初めての公園の砂場で、泥だらけになって、美衣と遊んだ写真。

初めての海で、美衣の泳ぐ練習に付き合ったり、貝殻を拾ったりした写真。

そして、ペスが初めて、家に来た時の写真。

色んなペスが写っていた。

どんな写真も生き生きとしていて、今にも動き出しそうだった。

ペスは人懐っこい犬だったので、ケンカする事も無かった。

「それにしても、懐かしいな」

父親が言った。

「ねえ」

母親も同意を述べた。

二人の脳裏に、記憶が蘇った。

それは、まだ美衣が、母親の胎内にいた時の事。

身重だった母親は、掃除機かけを簡単に済ますと、

ちょっと休憩とばかりに、ファッション誌を読み始めた。

記事に並んだ、文字の羅列を目で追う。

パラリパラリと、ゆっくりページが捲られて(めくられて)行った。

母親は、夢中になって、ファッション誌を一気に読んだ。

読み終えると、時間が気になり、時計を見た。

午後六時になろうとしていた。

掃除機かけから、三時間が経つ所であった。

夕飯の仕度をしようと、重い腰を上げようとした時だった。

「ただいま」

と、元気のいい、男性の声がして、玄関のドアが閉まる音が聞こえた。

テーブルに手をついて、ゆっくりと立ち上がり、リビングから出て、出迎えた。

美衣の父親が、帰って来たのだ。

「お帰り」

そう、母親が告げると、父親は嬉しそうに、こう言った。

「頼まれた物、買って来たよ、それから今日は、お土産があるよ」

父親の言葉にキョトンとして、母親が訊ねた(たずねた)。

「お土産?」

食材の入った、スーパーの袋を、玄関の上がり口に置くと、声で効果音をつけて、その〝お土産〟を両手で、抱き上げて見せた。

「じゃーん」

それは、一匹の小犬だった。

雪のように、純白の体毛を纏った(まとった)、綺麗な小犬だ。

「どうしたの、それ」

軽く驚いてから、不思議そうに母親は訊ねた。

「スーパーの入り口に、飼い主募集の貼り紙があったのを、たまたま見つけたんだ、君が犬を欲しがっていたのを思い出してね、募集先のお宅も、そう遠くなかったから、行って貰って来た」

経緯(いきさつ)を丁寧に、説明するように、父親は答えた。

「まあ、そうなの」

明るい表情で、目を輝かせながら、母親は小犬を見た。

小犬と目があった。

二人(?)は、お互いを、じっと見つめ合った。

それに気がついた父親は、クスリと笑って言った。

「抱っこしてみるかい?」

父親の言葉を聞いて、母親は弾んだ声で、聞き返した。

「え、いいの?」

父親は答えた。

「勿論、ほら」

そう言って父親は、母親に小犬を手渡した。

「ほうら、ワンちゃんおいで、いい子でちゅねー」

赤ん坊をあやすように、甘く声をかけながら、母親は小犬を抱き上げた。

父親は、靴を脱いで、玄関に上がり、買い物袋を持つと、母親と会話をしながら、歩き始めた。

「もう、夕飯、食べちゃった?」

父親が聞いた。

「ううん、ごめんなさい、これから作ろうと思ってた所なの」

申し訳無さそうに、母親は答えた。

「それなら、よかった、今日、スーパーで弁当の特売、やってたから買って来たんだ」

父親の言葉を聞いて、母親はホッとした。

「まあ、そうなの、あ」

しかし、すぐに、心配そうにこんな声を、上げた。

「そう言えば、この子のご飯はどうするの?」

心配いらないと言う風に、父親は答えた。

「大丈夫、ちゃんと買ってあるよ」

それを聞くと、母親は安心した。

そして、キッチンに着くと、こう言った。

「ちょっと待って、すぐにお皿出すわね」

それを聞いた父親が言った。

「それも大丈夫」

と、買い物袋から、受け皿を二つ、取り出して見せた。

「あらまあ、用意のいいこと」

感心したように、母親が言った。

「まあね」

と、父親が返した。

すると、父親は買い物袋から、ミルクを取り出した。

「それ、どうするの?」

不思議そうに、母親が訊ねた。

「いや、温めた方が良いかなと思ってね、お腹壊さないように」

それを聞いた、母親が言った。

「だったら、私がやるわ、何もかも任せてばかりじゃ、悪いもの」

父親は言葉を返した。

「そう?じゃあ、鍋を出すから、ミルクを入れて、温めてくれる?」

母親は、敬礼の真似事(まねごと)をして、言った。

「了解」

父親が、シンクの上にある棚から、小鍋を取り出して、母親に手渡した。

母親は、小鍋を受け取ると、テーブルに置いてあった、ミルクを入れて、IHクッキングヒーターにかけた。

ミルクが温まっている間、二人に自由な時間が出来た。

二人は食卓の椅子に、腰掛けた。

「この後、どうしよう」

母親が言った。

父親が返した。

「テレビでも見ようか」

父親の誘うような言葉に、母親は応えた(こたえた)。

「そうね」

父親は席を立ち、リビングに移動すると、テレビを点けて、戻った。

〝衛星アニメ劇場〟が始まっていた。

胎教(たいきょう)に良いかも知れないからと、チャンネルを合わせておいてあった。

やっていた内容は、〝フランダースの犬〟だった。

「そう言えば、この子の名前、どうするの?」

テレビを見ながら、母親は言った。

「そうだな、何が良いかな?」

同じく、テレビを見ながら、父親もぼんやり考えた。

すると、声がした。

「おいで、パトラッシュ」

テレビに映っていた、アニメの少年の、声だった。

父親は、母親に顔を向けて提案した。

「〝ペス〟はどう?」

不思議そうに、母親も父親に顔を向けて聞いた。

「何で〝ペス〟?」

父親が答えた。

「今、やってた〝パトラッシュ〟から取って、〝ペス〟」

それを聞いた、母親は言った。

「今の、テレビでやってた、犬の名前で決めたの?安易ねー」

消極的に、父親は返した。

「ダメ、かな」

すると、笑って、母親は言った。

「いいんじゃない、可愛らしくて」

それを聞いて、父親はホッとした。

「よ、よかった」

安心していると、ガタガタと、音が聞こえた。

二人して、音の鳴る方を見ると、小鍋の蓋が踊っていた。

「いけない、すっかり忘れてたわ」

慌てて席を立とうとする母親を、父親が止めた。

「ああ、いいよ、俺がやるから」

そう言って、母親を座らせると、父親は立ち上がり、IHクッキングヒーターのスイッチを切った。

鍋掴みを使って、鍋を持つと、シンクで蓋を開けて、ミルクを受け皿に入れた。

「じゃあ、私はドッグフードを開けて、入れるわね」

母親が言った。

「分かった、気をつけてね」

母親は立ち上がり、屈んで、買い物袋から、ドッグフードを取り出すと、封を開けた。

「よいしょっと」

気合いを入れるように、そう言うと、再び屈んで、受け皿に、ドッグフードを入れた。

ペスのご飯の、仕度が整うと、二人は席に戻った。

すると、ペスがやって来て、ドッグフードを食べ始めた。

「ミルクはまだ熱いから、舐めちゃ(なめちゃ)ダメよ」

ミルクにも舌をつけたが、熱かったらしく、キャンと、鳴いて、一歩後ろに退いた。

「ああ、もう、だから言ったのに」

母親が言った。

すると、ペスはドッグフードの方を食べ進めた。

それを見ていると、グウウウウウと言う音が、どちらからともなく、聞こえた。

それを聞いた夫婦は、可笑しくなって、笑い出した。

「クスクス……あははは」

一頻り(ひとしきり)笑い切ると、二人も、スーパーのレンジで温められていたが、すっかり冷めてしまった、弁当を食べた。

ペスも、二人が牛乳を飲む様子を見せると、なんとかミルクも、ドッグフードに続いて、たいらげた。

そんな様子を見て、母親は言った。

「これから宜しく(よろしく)ね、ペス」

父親も、母親の言葉を繰り返すように、言った。

「ああ、そうだな、宜しくな」

こうして、一つの家庭に新たな家族が、増えた。

ペスが当時、二歳の頃の事だった。

ーーーーー

「へーえ、そんな事があったんだ」

美衣が、感心して言った。

「ああ、美衣もペスも、その頃はこんなだったのに、今では、見違えるくらい、成長したもんなあ」

手で、身長の高さを示しながら、父親が言った。

「本当、大きくなったわよねえ」

感動を噛み締めるように、母親が言った。

「まったくだ、なあ」

母親にそう言うと、父親は美衣の頭をクシャクシャと、撫でた。

「ちょっと、もう、止めてよ」

言葉とは、裏腹に、嬉しそうに美衣が言った。

「さて」

と手を叩いて、話を戻すように、母親が言った。

「思い出話は、このぐらいにして、ペスをお墓に入れて、お別れしましょう」

気がついたように、父親が言った。

「おっと、そうだった」

美衣が素直に、返事をした。

「はーい」

今朝、見た、蟠り(わだかまり)のようなものは、無いようだ。

それを見た、夫婦二人は、顔を見合わせて、ホッとした。

裏庭に繋がる、勝手口からサンダルを、つっかけて、三人がペスの元に、やって来た。

父親は、穴を掘るためのシャベルを、美衣は、段ボールで作った、墓標と人形ををそれぞれ、持参していた。

墓標はさっき、漢字の書き取りの宿題をした後で、美衣が、有り合わせの材料で、作ったものである。

すぐに穴の中に埋めるのは、可哀想(かわいそう)なので、三人でそれぞれ、別れの言葉を言う事になった。

母親が、重石(おもし)で乗せていた、石をどかして、毛布を取った。

安らかに眠ったままの、ペスの姿が顕(あらわ)になった。

三人は、それぞれ、ペスに近づいて、声をかけた。

最初は父親からだった。

「えっと、いつも、家族を楽しませてくれて、ありがとな」

次に母親だった。

「貴方(あなた)のおかげで、家族がホッコリ出来たわ、今までお疲れ様」

最後は、美衣だった。

「貴方と過ごせて、パパもママも私も、幸せだったわ、ありがとう、ゆっくり休んでね」

先程の二人同様、美衣がペスから離れると、父親が言った。

「よし、それじゃ、埋めるぞ」

母親と美衣が頷いたのを確認すると、父親も頷いて、地面に穴を掘った。

楕円(だえん)形の穴が出来上がると、ペスを中に入れ、土をかけた。

そして、最後に美衣が、墓標を立てた。

五角形に切り取った、段ボールに〝ペス〟と名前が書いてあった。

三人で手を合わせ終えた。

「よし、じゃ、行くか」

父親が言った。

「うん」

美衣が返事した。

「ええ」

母親もそれに続いた。

「どうだ?昔みたいに、また、三人で風呂に入らないか?」

歩きながら、父親が提案した。

そして、勝手口のドアを開けた。

家の中に入りながら、母親が賛成した。

「いいわね、久々に入りましょうか」

美衣も母親に続いた。

「入る、入る」

父親が入ったのを最後に、ドアは閉まった。

入浴を済ますと、父親と美衣は、学校や会社に行く準備、母親は朝ご飯の用意と、それぞれの仕度をして、寝た。

美衣は人形を枕元に置いて、眠っていた。

明かりの消えた、美衣の部屋の窓が、ホンノリ光って、中に女性が現れた。

女性は暗い色のトンガリ帽子に、同色のローブを来ていた。

女性は、美衣の枕元に置いてある、人形を見るなり、こう言った。

「おやおや、可哀想に、今、動かしてあげる」

そして、掌を上に向けると、一瞬で木で出来た、杖が現れた。

「アブラカタブラ」

そう、呪文を唱え、杖を人形に翳す(かざす)と、人形はたちまち、人間の少女に変身した。

「ペスよ、目覚めなさい」

魔法使いが声を掛けると、少女は目を開けた。

少女は手を握ったり、開いたりしながら、自分の状態を確かめた。

(動いてる、私……生きてるんだわ)

ペスは驚いた。

喜んだ。

そして、実感した。

燥ぐ(はしゃぐ)ペスに、魔法使いは言った。

「よくお聞き、これから三十六時間、お前を人間として、生活を送らせる、その間に良い行ないをすれば、お前は完全な人間になれる」

弾んだ声で、ペスは言った。

「本当ですか!?」

但し(ただし)、と、魔法使いは続けた。

「その間は、正体を誰一人として、知られてはいけないよ、もし、バレたら、魔法の効果は無くなって、お前はずっと人形のままだからね、覚えておいで」

真剣な顔と声で、ペスは頷き、返事をした。

「はい」

最後にこう言い残して、魔法使いは消えた。

「この姿の時は、金徳玲奈と名乗りな、歳は五歳だ、そして、もし、人間になりたくなったら、アブラカタブラと、唱えるんだよ、魔法の効き目は二十四時間、それを過ぎても、人形に戻ってしまうからね、後、人形に戻ったら、水に入っている間は人間になれないから、気をつけるんだよ、それじゃあ」

明くる日の土曜日。

従姉妹(いとこ)の美宇が遊びに来た。

子供達の世話を、父親達に預け、母親二人は外食へと、出かけて行った。

「お部屋で遊ぼ」

美衣の誘いに、美宇は快く(こころよく)返事をした。

「うん」

年は美衣より、五つ下である。

美衣の部屋は、入り口から入ってすぐ脇に、大きな本棚があり、正面に、学習机が置いてある。

ベッドはその真ん中だ。

「わあ、お人形さんだ」

枕元に置いてある人形を見て、美宇は飛びつくように、抱きついた。

「可愛い、これ頂戴(ちょうだい)」

美宇が言った。

「ごめんね、それは大切な物だから、あげられないの」

そう言って、美衣は断った。

すると、美宇はムッとして言った。

「やだ、これがいい」

宥めるように、美衣は言った。

「美宇ちゃんのお家には、お人形が沢山(たくさん)あるでしょう?」

美宇は頑な(かたくな)になって、聞かなかった。

「やだ、美宇ちゃんのだもん」

それでも美衣は、美宇の説得を続けた。

「お願いだから、その人形を取らないで」

美宇は頑として、断り続けた。

「やだやだ、美宇ちゃんの」

美衣は言った。

「ダメ、返して」

ついに、美衣の語気が荒くなった。

「いーやーだー」

美宇は、美衣の言う事を聞かなかった。

「返してって言ってるでしょ」

美衣はそう言って、人形を、奪い取るように、力いっぱい引っ張った。

美宇も人形を取られまいと、持っている腕に力を込めて、離さなかった。

「持ーってーかなーいでー」

美衣が言った。

「いーやーだー」

美宇が返した。

二つの力が人形を引っ張って、離さなかった、その時。

「アオーン」

犬の鳴き声が、聞こえた。

「うわっ」

美衣が声を上げた。

「きゃっ」

美宇も、声を出した。

二人は思わず、人形を離した。

人形が、床に落ちた。

美衣が拾おうとするより先に、美宇が奪い取った。

そして、部屋の窓を開けた。

「!?何する気!?」

美衣が訊ねた(たずねた)が、美宇は聞く耳を持たなかった。

「何よ、こんな物、えいっ」

そう言うと、怒りに任せ、人形を窓から放り投げた。

「ああっ」

美衣は駆け寄り、窓から、下を覗き(のぞき)込んだ。

人形は、偶然にも、下を通りかかった、軽トラックの荷台に落ちた。

そのまま、軽トラックは、走り去って言ってしまった。

美衣は追いかけようと、急いで外に出たが、軽トラックは、もう、遥か彼方(かなた)だった。

家の外で、美衣は膝から崩れ落ち、途方に暮れた。

二筋の涙が、美衣の頬を滑り落ちた。

ーーーーー

「あれ?」

軽トラックの荷台を覗き込んで、少年はそう言うと、父親に報告した。

「父ちゃん、知らない女の子が、荷台で寝てるよ?」

思いも寄らない、息子の言葉に、少年の父親は驚いて言った。

「何だって?」

息子に言われて、荷台を見ると、確かに女の子が寝

ていた。

女の子は、青い水玉の入った、白のワンピースを着ていた。

「はて、何処で乗って来たのかな?」

腕を組んで、唸りながら、少年の父親は考えた。

しかし、心当たりは一つも無かった。

「取り敢えず、起こしてみたら?」

少年が言った。

「そうだな」

父親が賛成した。

スウスウと、気持ち良さそうに寝ているペスを、少年の父親は、揺すって起こした。

「もし、お嬢さん、もしもし」

肩に手を置いて、二、三回、優しく揺さぶった。

「ん……」

気のない声がして、ペスは二つの瞼を重たそうに、開けた。

「こんにちは、お目覚めかな?」

ペスの顔を覗き込んで、少年の父親が言った。

(私……二階から落ちて……そうだ)

これまでの経緯を思い出すと、ペスは訊ねた。

「此処は何処ですか?」

ペスの問いに、少年の父親は答えた。

「宮城県の仙台市だよ」

その言葉を聞いて、ペスは思った。

(宮城県……東京から随分、離れてしまった)

家族旅行で、その地理を経験済みだったペスは、その距離を容易に想像出来た。

「歳は?」

健太の父親が訊ねた。

「五歳です」

ペスは答えた。

「お嬢さんは何処の子かな?」

そう聞かれて、ペスは困ってしまった。

「えっと……」

戸惑っていると、痺れを切らしたように、健太が言った。

「何だ、お前、自分の家なのに分からないのかよ」

乱暴な言い方をする健太を、父親が窘めた。

「こら、健太」

父親の静止も聞かず、健太は更に言った。

「父ちゃん、こいつ、相手にしない方がいいよ、だって変だもん」

健太の言葉を聞いて、父親は更に叱った。

「止めろと言ってるだろ……ったく、お嬢さんのお名前は?」

聞かれてペスは、瞬時に魔法使いに言われた事を、思い出して、言った。

「金徳玲奈です」

それを聞いた父親は言った。

「金徳?聞いた事無いな」

聞き慣れない苗字に、心当たりが無いでいると、

健太がせがんだ。

「ねえ、こんな奴、交番に預けちゃってさ、俺と遊ぼうよ、父ちゃん」

甘える健太に、父親は溜め息が出た。

「しょうの無い奴だ、父ちゃんは、管理人さんと話があるから、健太、玲奈ちゃんと遊んでなさい」

それを聞いた健太は、父親に文句を言った。

「えー、女の子とキャッチボールしても、面白くないもん」

キャッチボールと聞いて、ペス、いや、玲奈が食いついた。

「キャッチボール?やるやる!」

父親は健太を、けしかけた。

「ほら、あんなに、遊びたがってるぞ」

健太は声を出して、むくれた。

「むー……」

そんな健太を見て、父親は必殺技を繰り出した。

「五百円で、どうだ?」

健太が反応した。

「はー……分かったよ」

条件を呑むと、健太は荷台から、グローブとボールを取り出した。

「ほらよ」

そう言って、二つあるグローブのうち一つを、玲奈に放り投げた。

「わっとと」

なんとか、キャッチすると、健太は玲奈に言った。

「おら、行くぞ」

玲奈は訊ねた。

「何処に?」

健太が返した。

「いいから、ついて来い」

着いたのは、空き地だった。

「此処でやるの?」

面倒臭そうに、健太は答えた。

「ああ、そうだよ、おら、構えろ、始めるぞ」

二人は空き地の両端に立つと、それぞれ構えた。

「行くぞ」

健太が声を張った。

「いいよ」

玲奈が返事をすると、健太がボールを投げた。

ボールは弧を描いて(えがいて)飛び、玲奈はそれをなんとか、グローブに収めた。

「うわっとと」

それを見た健太が、声をかけた。

「ナイスキャッチ!次、お前だぞー」

そう言われて、玲奈が返した。

「分かったー、行くよー」

構えた健太から声が、返って来た。

玲奈は固く目を閉じ、ボールを思い切り、投げた。

ボールは健太の頭上を高く越え、隣りの家の排水溝に、落ちた。

そして、流水がやって来て、押し流してしまった。

「バカヤロー、何処投げてんだよ!」

ボールの行方を見た、健太が声を荒らげた。

叱られたと思った玲奈は、落ち込んだ。

「罰として、お前が探して来い、んで、見つけるまで戻って来るな」

健太はそう言うと、空き地の土管に寝そべって、昼寝を始めた。

玲奈はボールを探しに、空き地を後にした。

トボトボと、玲奈は知らない町を彷徨った(さまよった)。

「はあ……」

叱られた事を思い出して、玲奈は溜め息が出た。

(何処に行ったのかしら)

そう思いながら、ぼんやりと歩いていると、カン、と足下で音がした。

「ん?」

見ると、マンホールの上に乗っていた。

(これだ……!)

玲奈は瞬時に閃いた。

玲奈はマンホールの蓋(ふた)を開ける為に、持ち上げようとした。

しかし、その重さに、非力な少女の力では、敵わなかった(かなわなかった)。

(ダメか……)

玲奈はまた、溜め息をついた。

(あの魔法使いさんのように、魔法が使えたらな)

そう思った時だった。

(おいで……おいで……)

声がした。

玲奈は驚き、辺りを見回すが、誰もいない。

(困ってるんだろう、おいで)

声がそう言ったかと思うと、マンホールの蓋が開いた。

(さあ……入っておいで)

玲奈は言った。

「貴方は誰ですか?何処にいるんです?」

しかし、低いしわがれた声は、それきり聞こえなくなった。

玲奈は試しに、マンホールの中を覗き込んだ。

中は、真っ暗だった。

(よし)

玲奈は、心を決めた。

唾をごくりと飲み込むと、マンホールの中へと、入って行った。

暗い中、玲奈は、恐る恐る道を進んだ。

手探りで、壁を見つけると、それをつたって歩いた。

途中、疲れたら、健太の事を思い出し、ボールを取り戻す為と、自分に言い聞かせて、足を動かした。

気分転換に歌も歌った。

十曲ぐらい歌っただろうか。

道の向こうに、白い穴が見えた。

出口だ。

早る気持ちを押さえて、玲奈はまた、歌いながら、一歩ずつ歩いて行った。

そして。

「やっと出られた」

言葉が口をついて出ると、玲奈は道になってる足場から降りて、マンホールを抜け出した。

そこには、一面の森が広がっていた。

「わあ」

玲奈は目を見開いた。

(こんな場所があったんだ)

森の広さに驚いていると、玲奈は本来の目的を思い出し、ボールを探した。

「おーい、出してくれ」

ボールを探して歩いていると、若い男の声が聞こえた。

振り向くと、竈門があった。

「此処を開けてくれ」

玲奈が竈門の蓋を開けると、色んな形のパンが飛び出して来た。

お礼を言われると、玲奈は丁重に受け止め、ボールの行方を聞いた。

パン達は知らないと答えた。

お礼を言って、パン達と別れると、玲奈はまた暫く、森の中を探して歩いた。

「重いよー、助けてー」

今度は少年のような声が聞こえ、振り向くと、沢山の実がついた、林檎の木があった。

「早く揺すって、落としてよー」

玲奈は揺すって、林檎を木から落とした。

玲奈は竈門のパンと同じように、林檎の木からのお礼を受け止め、ボールの行方を聞いたが、分からないと言った。

林檎の木とも別れて、引き続き、ボールを探して歩いていると、一件の家に辿り着いた。

迷わず、玲奈はドアをノックした。

「すいませーん、どなたかいらっしゃいませんか」

玲奈がそう、声を掛けると、家の中から声が聞こえた。

「はいよ、ちょっと待っとくれ」

緊張しながら、待っていると、ゆっくりドアが開いて、出迎えたのは、初老ぐらいの女性だった。

「おや、こんな辺鄙(へんぴ)な所にお客とは、珍しいね、まあ、いい、お入りなさい」

そう言って、女性は玲奈を、中に招き入れた。

「それで、ご用は何かね?」

ティーカップに紅茶を注ぎながら、女性は聞いた。

「ボールを探してるんです、この森へ繋がる道の中の、何処かに落としてしまったみたいで」

玲奈の前に、紅茶を差し出しながら、女性は言った。

「さあ、座って飲むといい」

女性の言葉に、玲奈は従った。

「そうかい、それは困ったねえ」

紅茶を啜る玲奈を見ながら、女性は言った。

「美味しい」

味の感想が、玲奈の口をついて出た。

女性はにっこり笑って言った。

「それはよかった、ところで」

と、女性は前置きをして言った。

「探してるボールってのは、これの事かい?」

女性がエプロンのポケットから、白くて丸い物を取り出して、玲奈に見せた。

「そのボール!」

玲奈は思わず、立ち上がった。

「返してあげてもいいが、一つ願いを聞いて貰えんかねえ」

玲奈は訊ねた。

「何をすればいいんですか?」

女性は答えた。

「そんなに難しい事じゃないよ、暫くの間、私の寝床を直し、羽布団を振るって、羽毛を散りばめさせればいいだけさ」

引き続き、不安そうに、玲奈が訊ねた。

「暫くって、どのくらいですか?」

女性も、引き続き、答えた。

「そうだねえ、最低でも一週間は、働いて貰うようかねえ」

玲奈は驚いて、声をあげた。

「そんなに!?」

それから、女性に頼み込んだ。

「なんとか、一時間に縮められませんか?待っている人がいるんです」

女性は言った。

「大丈夫、あちらの時間の流れは、こちらの時間流れより、何倍も遅い」

女性は説明した。

「そうだねえ、こちらが一日だと、あちらでは一時間くらいかねえ」

それを聞いて、玲奈はホッとした。

「それなら」

女性が訊ねた。

「引き受けてくれるかい?」

玲奈は、はきはきと言った。

「はい、宜しくお願いします、えっと、」

女性の名を知らない玲奈は、言葉に詰まった。

女性が、続きを話すように言った。

「ホレおばさんでいいよ」

玲奈も女性の呼び名を口にした。

「ホレおばさん」

それから一週間、玲奈は沢山、布団を振るって、いっぱいの羽毛を、部屋中に散りばめさせた。

そして、その翌朝。

玲奈は言った。

「ホレおばさん、私、そろそろ帰らないと」

ホレおばさんが言った。

「おや、そうかい、もう、そんな日になったのかい、日にちが経つのは、早いねえ」

しみじみそう言うと、玲奈に言った。

「ちょっと、待っとくれ」

すると、ホレおばさんは席を立ち、キッチンへ向かったかと思うと、何かを抱えて戻って来た。

その手に持っていたのは、お菓子の山だった。

「そんなに沢山、どうするんですか?」

玲奈が訊ねた。

「決まってるじゃないか、お前へのご褒美だよ」

ホレおばさんが言った。

「よく、働いてくれたね、おかげで助かったよ、さあ、受け取っておくれ」

玲奈は遠慮した。

「そんな、こんなに沢山、貰えません」

それを聞いて、ホレおばさんは、こう返した。

「それじゃ、あたしの気が済まないんだよ、あたしからの、ほんの気持ちだと思って、さあ」

そう言われて、玲奈は気が変わった。

「そう言う事なら」

玲奈の言葉を聞いた、ホレおばさんは、嬉しそうに玲奈の体中に、沢山のお菓子を貼り付けた。

ボールも返して、ホレおばさんは言った。

「外に出たら、自分の行きたい場所をイメージして、〝アブラカタブラ〟と、唱えてごらん、そうすれば、そこに行けるよ」

玲奈が応えた。

「分かりました、ありがとう、お世話になりました、さようなら」

一礼して、玲奈は家の外に出た。

健太の家が分からなかったので、乗っていたトラックをイメージして、呪文を唱えた。

「アブラカタブラ」

玲奈の姿が消えた。

足下に感触を感じて、目を開けると、トラックの荷台にいた。

「よかった」

玲奈がホッとしていると、トラックが停まってる家のドアが開いて、健太が現れた。

その手には、グローブを填めて降り、更にボールも持っていた。

鼻歌を歌い、ボールを片手で弄びながら、健太がこちらに近づいて来た。

しかし、玲奈の存在に気づかず、側を通り過ぎようとした。

玲奈は声をかけた。

「健太君」

健太が振り向いた。

「あ?ああ、なんだ、誰かと思ったら、お前か、何しに来た?」

厳しい声で、健太は聞いた。

「これ、取って来た」

玲奈はそう言って、ボールを差し出した。

「なんだよ、そんな事の為にわざわざ来たのか」

くだらなそうに、健太は言った。

そして、それより、と更に続けた。

「どうしたんだよ、その沢山のお菓子」

聞かれて玲奈は、これまでの経緯を話すと、健太は訝った。

「嘘つけよ」

玲奈が返した。

「本当なの」

健太は言った。

「じゃあ、連れてけよ」

玲奈が承知した。

「分かった」

玲奈は健太の腕を掴むと、目を閉じて、呪文を唱えた。

「アブラカタブラ」

二人の姿が消えた。

足が地面に着く感じがして、二人が目を開けると、壮大な森の中にいた。

「ね、本当だったでしょ?」

ポカンと口を開けている健太に、玲奈は言った。

健太は言った。

「これは夢だ」

そして、自分の頬を抓った(つねった)。

「痛てっ」

呻いていると、若い男の声が聞こえた。

「おーい、出してくれ」

健太は反応し、辺りを見回した。

玲奈はクスッと笑って、言った。

「竈門を開ければいいわ」

健太は嫌そうな顔をして、言った。

「何で俺がそんな事しなきゃなんねえんだよ」

玲奈が言った。

「そう言わずに、開けてあげて」

健太が言葉を返した。

「だったら、お前が開けろよ」

玲奈も返した。

「いいよ」

玲奈は竈門を開けた。

沢山のパンが飛び出して来た。

玲奈はまた、パン達に礼を言われた。

次に行くからと、パン達に別れを告げ、玲奈達は歩き出した。

暫く森を進んでいると、幼い子供の声が聞こえた。

「重いよー、助けてー」

玲奈は健太に言った。

「その林檎の木を揺すって、実を落としてあげて」

健太はまた、文句を口にした。

「何で俺がそんな事しなきゃなんねえんだよ」

玲奈が言った。

「そう言わずに、揺すってあげて」

健太が返した。

「だったら、お前がやれよ」

玲奈も健太に返した。

「いいよ」

玲奈は、林檎の木を揺すった。

沢山の林檎が落ちた。

玲奈は林檎の木にも、礼を言われた。

次に行くと、玲奈はまた言い、林檎の木とも別れ、歩を進めた。

林檎の木から、数メートル程歩いただろうか。

玲奈は足を止めた。

そこには、一件の家があった。

「着いたよ」

玲奈が健太に言った。

「此処にその、ホレおばさんとかいう人が、住んでいるのか」

玲奈が言葉で頷いた。

「そうよ」

玲奈は前に進み出て、ドアをノックした。

「はいよ、ちょっと待っておくれ」

中から声がして、少し待つと、ドアが開いて、ホレおばさんが出て来た。

「おや、玲奈じゃないか、用事があるのは、後ろの子かね?」

玲奈は頷いて言った。

「健太君て言います、暫くの間、ホレおばさんのお世話になりたいそうで、連れて来ました」

健太が言った。

「取り敢えず、中に入れてよ、おばさん」

それを聞いた、ホレおばさんは、言葉を述べた。

「おやおや、世話になる身分としては、随分な態度だね、まあ、いい、立ち話もなんだから、中にお入り」

ホレおばさんは、二人を中に招き入れた。

淹れた紅茶を差し出すと、健太が話しかけた。

「早く、お菓子をくれよ」

玲奈が言った。

「それにはお仕事をしなきゃ」

ホレおばさんが頷いて、喋った。

「玲奈の言う通りさ、褒美を得るには、うちで働いて貰わないとね」

健太が言った。

「働くとか、いいからさ、お菓子をくれって」

ホレおばさんの声色が変わった。

「何だって?」

健太が続けた。

「俺は、働く為に来たんじゃないの、お菓子を貰う為に来たの、おばさん、子供なら誰にでも、お菓子をくれるんだろ?早くくれよ」

それを聞いた、ホレおばさんは怒りが湧いた。

外の天気が暗転し、雷が轟いた。

「まあ、あつかましい、働きもせずに褒美だけ強請ろうなんて、褒美の代わりに罰をくれてやる」

健太が、たじろいだ。

「な、何だよ、ただお菓子くれって言っただけじゃないか、そんな怒らなくてもいいだろ」

ホレおばさんの怒りが爆発した。

「アブラカタ、」

呪文を唱え始めた時だった。

「待って下さい」

そう声がかかった。

二人は、声がした方を見た。

止めたのは、玲奈だった。

「健太君が、失礼な事を言って、ごめんなさい、罰なら、代わりに私が受けます、だからどうか、健太君を許して下さい」

ホレおばさんが言った。

「本当にいいのかい?」

玲奈が返した。

「はい」

ホレおばさんは、深呼吸をして、怒りを鎮めた。

「じゃあ、罰として、玲奈は五年、此処に残ってあたしの仕事を手伝う事」

玲奈は返事をした。

「はい」

聞くと、ホレおばさんは、次に健太を見た。

「もう、此処に用は無いだろ、あたしの気が変わらないうちに、とっとと帰りな」

健太は、恐る恐る、言った。

「帰れと言われても、帰り方が分からないんですけど」

ホレおばさんは溜め息をつくと、健太に言った。

「目を閉じな」

健太は、言う通りにした。

「アブラカタブラ」

ホレおばさんが呪文を唱えると、健太の姿が消えた。

「大丈夫かな」

玲奈が言った。

「心配いらないよ、玲奈だって無事に帰れただろ」

ホレおばさんは言葉を返した。

「そっか、そうですよね」

玲奈がホッとした。

「それより、罰を受けて、本当によかったのかい?せっかく人間になれたのに」

ホレおばさんに言われて、玲奈は気がついた。

「え?……あ」

これまでの記憶を思い返して、玲奈は思わず言った。

「そう言えば、人形になってない」

ホレおばさんは頷いた。

玲奈は喜んだ。

ふと、玲奈は気づいた。

「って、人間になりたかったって、何故ホレおばさんが、それを知ってるんです?……もしかして」

そう玲奈が聞くと、ホレおばさんは目を閉じ、全身の力を抜いた。

すると、たちまち、姿が変わり、あの魔法使いの姿になった。

「やっぱり」

玲奈は言った。

魔法使いは玲奈に言った。

「よく、約束を守ってくれたね、後五年、頑張るんだよ」

優しく励ますと、魔法使いは、ホレおばさんに戻った。

「さてと、夕飯の仕度をしないとねえ、玲奈、手伝っておくれ」

ホレおばさんの言葉に玲奈は、返事をした。

「はい」

そして、五年後ーーー。

「行って来まーす」

そう、声がして、一件の家から、女の子が出て来た。

美衣は、十五歳になっていた。

「おはよう美衣」

友達が声をかけた。

「おはよう」

美衣も挨拶を返した。

二人は歩き出した。

この間の授業内容や、見たテレビ番組、今日出る給食、読んだ漫画雑誌などについて、会話をした。

美衣は、ペスの事を忘れていなかったが、思い出さないようになっていた。

「今日、久々にカラオケ行かない?」

友達が誘った。

「いいねー」

美衣が乗った。

教室に入って、友達と別れて、席に着くと、スクールバッグを脇にかけた。

十五分の朝読書が終わり、朝のLHR(ロングホームルーム)が始まった。

担任が、出席簿を持って、教室に入って来た。

教壇に手をついて、生徒達に声をかけた。

「えー、ホームルームの前に、転校生を紹介する」

教室の出入り口を向いて、声をかけた。

「入ってー」

担任の声に答えるように、一人の女生徒が、中に入って来た。

担任が、黒板に女生徒の名前を書いた。

〝金徳玲奈〟

「今日からクラスメートになる、金徳玲奈さんだ」

玲奈は言った。

「金徳玲奈です、宜しくお願いします」

紅茶にその様子が、ありありと映っていた。

「すっかり、あの子の名前になったわねえ」

願いを叶えておくれな

叶えておくれな

かねとくれーな

金徳玲奈

魔法使いは思い返しながら、紅茶を一口啜り、にんまりと笑った。


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ワンちゃんのワンチャン 高樫玲琉〈たかがしれいる〉 @au08057406264

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