私はあの子と同じ地獄に落ちたい
間川 レイ
第1話
「ねえ、思うんだけどさ」
なんて。授業終わりの放課後に。オレンジ色の夕陽差し込む空き教室で、いつものように2人で本を読んでいた時。ふと、ポツリとあの子は言った。何でもない様に。窓際の席で、本を伏せて。女の子にしては随分短い髪。ギリギリ、ボブと言えるぐらいの長さの髪の毛を弄りつつ。まるで大したことのない様に、あの子は言った。
「あなたは創作で苦手なジャンルとかはあるのかな。これだけは許せないとか、受け付けないとか。こう言うお話だけは無理、みたいなの」
随分急だね、なんて苦笑しつつ。私はしばらく思案する。あの子みたいに短く切った毛先をくるくる弄りつつ。やがて私はゆるゆる首を振る。
「無いかな、別に。強いて挙げるならJホラーとかはちょっと苦手。呪いとかが受け付けなくて」
あの子は軽く笑って。ゆっくり、ゆっくり。くるくる髪を弄りつつ。
「かわいーじゃん。女の子って感じで」
なんて、微笑んで。
「そうかな」
「そうだよ」
そんな些細なやり取り。そんな些細なやりとりでさえ、体温が高くなるのを自覚する。
「ま、分かんなくは無いかな。呪い系とかちょっと嫌だよね。なんか本当にありそうでさ」
「そうなんだよ」
私は微笑む。しばしの沈黙。くるくる、くるくる。あの子は髪をいじる。爪先で軽く引っ張る様にしては、離し。爪先で軽く引っ張るようにしては、離す。何か物言いたげな沈黙。やがて、ボソリとあの子が言った。
「私さ、絶対許せないってジャンルがあってさ。これだけは生理的に無理、みたいな」
「そっか」
私はあの子の席の横にずるずる椅子を引っ張っていくと、その隣に腰掛けた。ん。そう言いつつ、ぽすんと私の肩に身体を預けてくるあの子。ブレザー越しにあの子の体温を感じる。
「私、あのジャンルだけは無理。死にたがりの女の子を拾ってお世話する、みたいな奴。家出少女をサラリーマンが保護して、とか。虐待受けて逃げ出した子を拾って、とかさ」
くるくる、くるくる。あの子は髪の毛を弄る。毛先をつまむ様に。つまんでは、ねじり合わせる様に。
「ふんふん」
私は頷きながら、あの子の身体を引っ張り私の膝の上へと誘導する。特に逆らうことなく素直に身を委ねてくるあの子。ぽすりとあの子の頭は私の膝の上へ。あの子はその姿勢のまま続ける。
「あれ、凄く気持ち悪いよ。あんなの、絶対ありえない」
あの子は髪の毛を弄りつつ。ねじり合わせた部分を引っ張る様に。くるくる、くるくる。
「そうだね」
私は呟く。そうだよね。そんな思いは、口に出すことなく。だって、私はあの子の置かれた環境をよく知っていたから。あの子の育った環境を、知りすぎるほど知っていたから。放課後、空き教室でずっと喋って。沢山の愚痴を聞いて。家に帰りたくない、なんて。何度あの子の口から聞いたことか。
「あんなの、絶対身体目当てじゃん。可愛い女の子がいたから、適当に話し合わせてさ。それで家に連れ帰って何するつもりって思っちゃう。下心が透けて見えてるんだよ。男の欲望丸出しなのが気持ち悪い」
「そうかもね」
私はあの子の頭を撫でる。髪の毛を捻り続けるあの子の手を、そっとお腹の前に戻しつつ。素直に戻される手。軽く握られる手を、包み込む様に握り返しつつ。空いている手で、さすりさすりと。髪の毛を一本一本、掬うようにして。
あの子は、一言で言って被虐待児童だった。毎日のように父親に殴られて。毎日の様に耳をつんざくばかりの大声で怒鳴られて。母親には無視されたり、陰湿な小言を言われたりする。それこそ涙目で蹲るような勢いで殴られたり。この屑、気違いと怒鳴られたり。誰に似たんだか、と嫌味を言われたり。学業とか礼儀作法とか、色々理由付けてるけど、結局は鬱憤ばらしだよ。あの子は前に言っていた。
かつては名門大学を出て、上場企業の部署のエースと呼ばれていたあの子の父親。その言葉に乗せられる様にして、事業を独立させたはいいけれど。独立当初から事業は全然上手くいってなくて。独立を決めてからその話を聞いた母親とは喧嘩ばかり。毎日のように父親は怒鳴って。母親はヒステリックに叫んで。父親は母親に対して手を挙げることこそ無いものの、話にならん!と怒鳴り散らかして、自室に籠る。そこまでがワンセット。
両親からはお互いの悪口ばかり聞かされて。あいつは頭が悪いから。誰の稼ぎで生きているか分かってない。あの人はプライドばかり高くて。一体何様のつもり。そんな悪口に媚びへつらう。そうだね、わかるよ、なんて。そうしないと酷いから。次の折檻が、裏切り者に対する報復として激しくなったり。あるいはそのまま折檻が始まったりするから。それこそ、踏ん張っていても耐えきれず倒れ込むような勢いで殴られたり。髪の毛を掴んで壁に打ち付けられたり。次の食事のタイミングであの子の分だけ食事が用意されなかったり。これ見よがしにあの子の分の食事だけがシンクに捨てられていたり。そんな話は、よく聞いていたから。
「ああいうの、酷い目に遭ってる子が男の子だったら、絶対助けてない。断言できるね。本質が偽善なんだよね。そう言うの、ほんとムカつく」
「かもね」
私はあの子の頭を何度も優しく撫でさすりながら呟く。そっと握られた手を、握り返したまま。せめて今だけは、あの子が安らげるように。あの子の痛みを少しでも引き受けられるように。
周りの人間は、誰もあの子を助けようとはしなかった。助けを求められてすら。担任の先生も、スクールカウンセラーも、地域の大人たちも。
親に毎日殴られて詰られて辛いです。このままだといつか殺されそうで怖いです。そう相談したあの子に、スクールカウンセラーは言った。大袈裟に言い過ぎじゃ無い?あるいは、何か怒られる様な悪いことしたんじゃ無いの?子供を愛さない親なんていないんだよ?
そんなレベルはぶっちぎってる。このままだと本当に死んでしまう。そうあの子が泣きながら訴えても、真面目に取り合わなかった。そうは言っても、親御さんのおかげで毎日ご飯食べられるんだよ。そんなに悪く言ったら駄目だよ。あなたは恵まれている方なんだよ。そこは感謝しないと。もっときちんと話し合ったらどう?
だったらもう死ぬしか無い。いつか殺されるぐらいだったら、今死なせてくれ。そう泣きじゃくるあの子にカウンセラーは面倒くさそうに言った。そこまで言うなら、一応担任の先生に共有はしておくね。でも、家族なんだから仲良くした方が良いと思うけどな。
そして、そんな共有を受けた担任の先生は、発言に相違がないか確認すると、学期末の三者面談に来たあの子の母親に尋ねた。お宅の娘さん、こんな事言ってますけど本当ですか。あの子は慌てて否定した。すみません、ちょっと大袈裟だったかも。私の成績が良くなかったことを心配してくれてのことだったんだと思います。カウンセラーの先生に相談した時、ちょうど生理で。ちょっと不安定だったのかもしれません。そう言わなければ、殺される。そんな確信があったから。それでもあの子は沢山殴られたそうだけど。恥をかかせてと言われて。
そして、地域の人も誰も助けなかった。あの子の悲鳴ぐらい、聞いているかもしれないのに。真冬の夜に家を薄着で追い出され、ごめんなさい、ごめんなさいと玄関前で泣きじゃくるあの子の姿を見ていても良いはずなのに。誰もあの子を助けない。両親の外面の良さに騙されて。仲良さげだねとか。良いお父さんじゃんだとか。お母さん優しそうだねとか。そんな言葉を気軽にかける。
でも、あの子を助けないのは私も一緒か。そう、内心自嘲する。あの子の手を、ぐっと握りしめながら。小さくて、柔らかな手。力を入れたら、折れてしまいそうな手。それを、握り潰さないようにしつつ。
「て言うか、偽善ですらないよね。自分の事しか考えてないんだから。助けようとしてる自分に酔ってるだけなんじゃないのって思っちゃうもん」
ごめんなさい。私は思わず内心呟く。私もその様なものだから。ギュッと握った手をにぎにぎと握りしめながら。にぎにぎと、握り返される手。
私がこうしてあの子の話を聞くのは、私が優しいからじゃない。そんな綺麗な理由じゃない。もっとドロドロしたもの。ただ、私があの子の事が好きだから。友達としてのライクじゃなくて、あの子と結ばれたいと言う意味でのラブ。私は友達のあの子に惚れている。いつから、なんて言うのは難しい。ただ、いつからかあの子の姿を目で追う様になって。あの子の側にいると、胸がきゅーっと苦しくなって。胸の底をちりちりくすぐられている様な、とろ火で炙られている様な、変な気持ち。胸の奥から、奇妙な熱にも似た何かが込み上げてくる様な。ドキドキとも、ワクワクともまた違う、独特の高揚感。
あの子と一緒にいると、胸が高鳴ると言うか。ポカポカとした暖かいものが胸の中から溢れてくる。あの子と小説の話とかするのは楽しくて、ずっと2人で話していられたら良いのに、なんて思ってしまう。チャイムが鳴って自分の席に戻らなきゃいけないのが、酷く名残惜しかったりする。せっかくの時間を邪魔された、みたいな。もっともっとずっと、話していたかったのに。
あの子と同じになりたくて。長かった髪の毛をばっさりボブにしたり、同じものを身につけたりもした。あの子が髪を短くしているのは、父親に掴まれるのを避ける為だったり、長いと自分でぶちぶち引き抜いちゃうからだけど。それでもあの子と一緒になれたみたいで嬉しかった。
あの子と一緒にいると、凄く幸せな気持ちに満ち溢れてくる。美味しいご飯を食べている時とはまた違って。肩まで暖かいお風呂に浸かった時の様な、ポカポカとした心地。自分というのが内側から満たされていく様な心地。授業中とか、あの子と目が合うと心が跳ねる。小さく微笑んでくれたりすると、凄く嬉しくなる。
ふとした瞬間にあの子を見つけると、そのあまりの可愛さにびっくりする。その黒々として、真っ黒な、サラサラのボブヘアーも。二重でくりくりとして大きく、黒目がちな目も。その知性というか、思慮深さを証明する様な、その瞳も。その奥に眠る、どこか諦めた様な気怠げな光も。小さくてぷりぷりした唇も。日焼けなんかした事無いんじゃないかってぐらい、透き通る様に真っ白なその肌も。
少年の様に、細く、華奢で、しなやかな肢体も。呼吸に合わせて上下する、薄い胸も。触れれば砕けそうなぐらい細い、その鎖骨も。手首に地面と水平に幾重にも走る自傷痕も。そのハスキーな声も。頭が良いところも。時々勉強を教えてくれるところも。小説が好きなところも。馬鹿騒ぎする事なく、いつも1人で小説を読んでいるところも、全部好き。あの子を構成する何もかもが好き。
それが、同じ女の子だなんて関係ない。どうでもいい。下らない。私が女の子が好きというより、私が好きになったのがあの子だっただけのこと。あの子は私にとっての特別だ。叶う事なら、ずっとあの子の側に居たい。
だからこそ、私はあの子の側にいる時、時々無性に申し訳なくなる。自分が酷く汚れたものの様に思える事がある。私は、あの子が自分の家族に向ける気持ちをリアルな気持ちとして汲み取れない。だって、私は極々普通の家庭で育ったから。お父さんがいて、お母さんがいて、妹がいて。家族仲が悪いと感じたことなんてない。怒鳴られた事も、耐えきれず転倒するほどの勢いで殴られた事もない。そりゃあ、成績が悪かったり悪いことをすれば怒られるし、叱られるけど。せいぜいもの凄く悪いことをした際、ビンタされたのが数回あるぐらい。3食暖かいご飯を食べられて、家族旅行だって年に数回はいく。そんな家。だから私にはあの子の気持ちがリアルなものとしては分からない。
そんな私が、あの子に寄り添って。こうしてあの子に触れ合って。あの子の愚痴を聞いている時。私自身が酷く穢らわしいものの様に思える。あの子の気持ちを全然理解できていないくせに、分かる、分かるよなんて言って。辛かったね、苦しいねと抱きしめて。せめていっときの安らぎをと頭を撫でたりしてるけど。それは全部自分のためにやってるのではないかと思うのだ。あの子の為なんて全部嘘っぱちで、ただ、私があの子と一緒にいたいから。あの子の気持ちを理解したふりして、あの子の気持ちを踏み躙っているんじゃないかって思うのだ。あるいは、あの子の為に振る舞う事に酔ってるだけなんじゃないかって。ごめんなさい。私はもう一度内心で呟く。
「ああいう作品読んでるとさ、構ってくるな、気持ち悪い。そんな気持ちになるよね」
そう小さく笑うあの子。握りしめたあの子の手が、じんわり汗ばんでいるのを感じる。それでも私はあの子の手を離さない。
「そうだね」
私も微笑んで見せる。無理矢理作ったような笑顔で。ああ、どうか神様。どうかあの子を救って下さい。そう願ってしまう。いや、正直な所、願う必要なんてない。私があの子に、私の家に来る?とそう提案すれば良いだけの事なのだから。
でも、それは出来ない。私に、あの子の人生を背負い込むだけの資格がない。能力がない。私たちはまだ高校生で、稼ぎなんてものもなく。あの子を守るだけの力なんて、持ち合わせていないから。こういう時、私自身の無力さが酷く憎らしくなる。それでいて、然るべき機関への通報すらしようとはしないのだ。その後の報復とか、混乱が怖いから。いや、正確にいうならそうした場合に、あの子に対して責任を取れないから。だから私はあの子を見殺しにする。大好きだよ、なんて思いながら。私にできる事はこれぐらい、と嘘をついて。そうした私はとても気持ちが悪い。
だからせめて。
「ごめんね」
そう言いながら頭を撫でる。絡め合った手を、グッと握りしめるようにしながら。何が?という顔をしているあの子を見ない様にして。私はきっと、地獄に落ちるだろう。それは仕方がない。覚悟もしている。
でも、どうしても思ってしまうのだ。どうせ同じ地獄に落ちるのなら、あの子と一緒に同じ地獄に落ちたいって。たとえ地獄でも、あの子と一緒なら生きていけるのに、なんて。それに、そうして初めて私はあの子を理解できるのだから。なんて思ってしまうあたり、私は本当に救いがない。
だから、私はあの子の視線から逃れる様に窓の外を見る。相変わらず夕陽が赤々と眩しくて。それはさながら血の様に、真っ赤な日差しが差し込んできていた。
私はあの子と同じ地獄に落ちたい 間川 レイ @tsuyomasu0418
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