モノクロな君の心に少しでも彩りを与えられたら

皇冃皐月

短編

 病室の窓から、薄曇りの空が見える。

 白いカーテンがわずかに揺れ、外の桜が風に踊っていた。


 ――ああまた春が来たのだ、と私はぼんやりと思う。


 指折り数える。親指から順々に指を畳んでいき、その動きを止めたところで大きなため息を吐く。陽気な風にため息は掻き消される。だけれど脳裏に過ぎったネガティブな感情は消えない。幾度となくここで迎えた春も今年が最後だろう、という思考さえも 。


 「……」


 ベッドの上で、ぼんやりと天井を見つめていると、不意に視界の端に黒い影が映った。

思わず目を擦る。思考が迷いすぎて、ついに見えてはいけないようなもの。幻覚さえも見えるようになったのかと本気で自身を疑った。


 すらりとした長身。

 漆黒のローブを纏い、どこかこの世のものではない雰囲気を纏った存在。


 まるで、絵本に出てくる『死神』のような。


 瞬きをする。空目しただけかもしれないと思った。

 だけれど、瞬きをしようが、目を擦ろうが、一度目を逸らしてもう一度見ようが。やっぱりそこには異質なそれが居て、どうやら現実らしいと受け入れざるを得なくなる。


 「……わぁぁっ」


 思わず、声が漏れた。

 怖くはなかった。ただ、驚いた。

 目を開き、口を開ける。舌はみるみるうちに乾き、潤いを欲する。だけれど、飲み物を飲む。そのために一瞬でも目を逸らす。意識を背ける。それさえも惜しいと思う。


 それほどに美しい人だった。


 とても健康的とは言い難い青白い肌に、長く流れる闇色の髪。艶やかさもハリもコシもある。女性であれば誰もが羨望する髪の毛。それなのに美しいとは思えない。

 冷たい空気を纏った金色の瞳は、深い湖の底のように静かだった。


 だけれど、その目には何の感情も浮かんでいない。

 冷酷で、目を合わせるだけで感情が凍てつくようだった。


 「あなたは……誰?」


 私は横たわりながら問うと、黒衣の女はわずかに眉をひそめる。

 まるで声をかけられたことそのものに嫌悪するような。露骨な嫌がり方であった。

 怒らせたかもしれない。私は本気でそう思った。なにか言わなきゃ……という気持ちに駆られるが、私のちっぽけな脳みそでは思考をぐるぐるさせても気の利いた言葉は出てこない。


 「……見えるのか」


 そんな私の感情を察してか、偶々か。目の前の彼女は私に問う。

 質問に質問で返されたのだが、悪感情は抱かない。


 「え?」


 驚きの方が勝った。


 「私が……お前に? だと……。そんなまさか……」


 小さく囁く声は、どこか困惑しているようだった。

 私はゆっくりと体を起こし、その黒衣の存在をじっと見つめる。


 「あなた、もしかして……死神さん?」


 と、冗談を口にする。

 あははーっと私は乾いた笑いを表に出す。


 「死神さん。私を迎えに来たの?」


 目の前の彼女が選んだのは沈黙であった。私の冗談に乗っかるわけでも、否定するわけでもない。沈黙。沈黙である。

 その静寂はまるで私の冗談を否定するかのようであった。


 「……」

 「もしも、死神だとしたらどうする」

 「そっかぁ……って受け入れるかな」


 私は微笑んだ。


 「そうか」

 「ねぇ、死神さん。あなた、すっごく綺麗だね」


 その言葉に、死神の金色の瞳がわずかに揺れた。


 私は今日、死神と出会った。




◆◇◆◇◆◇





 私は、もう長い間この病室で過ごしている。

 病気が悪化してからは、外に出ることすらできなくなった。

 いくら時間が経過しようとも、見える景色、環境、色合いも。すべてが予定調和的で面白みが一切ない。新鮮さを感じない、という表現の方が適切だろうか。


 「ねぇ、死神さん。座ってよ」


 窓際の椅子をぽんぽんと叩くと、黒衣の死神は微かに眉をひそめた。


 「……私は、お前の魂を迎えに来たのだ。無駄話をするためではない」

 「そうなんだ。でも、今すぐじゃないでしょ?」

 「……」

 「そもそもさ、君の名前は? ってまず私から名乗らないとね。私はユメ」

 「知っている」

 「なんでって、そっか。死神だもんね。知ってて当然だよね。次は、ほら、そっちの番だよ」

 「……ノワール。ノワールだ」

 「ノワール。うん、良い名前」

 「……とにかく、私は、お前と無駄話をするためにここへ来たわけじゃない」

 「うんうん。ノワール、さっき聞いたよそれ」


 ノワールは黙る。

 私はクスッと笑って、椅子をもう一度とんとんと軽く叩いた。


 「いいじゃん。せっかくのお客さんなんだから、お話ししようよ」


 死神と話すなんて、普通は怖がるものなのかもしれない。泣いて、喚いて、失禁ものかもしれない。けれど、私は不思議と怖くなかった。死ぬ覚悟なんてとうの昔にできているし、こうやって嫌々言いながらも話に付き合ってくれている。例え相手が死神であろうが、なんだろうが、そんな相手に恐怖を抱くわけがない。


 むしろ、この人がいてくれることが、少しだけ嬉しかった。


 「……私は、死神だ」

 「うん、知ってるよ」

 「……お前の命は、長くはない」

 「うん、それも知ってる。だろうねって感じ」

 「……なら、ならば。なぜ……」


 ノワールは、まるで理解できないというように見つめてくる。


 どうしてそんなに笑えるのか。

 どうして、恐れることなく、自分に話しかけてくるのか。

 それがわからない。理解できない。

 という感じだ。


 「だってさ、死ぬまでの時間って、ずっと一人じゃ寂しいでしょ?」

 「……寂しい?」

 「ずっとこの部屋で一人っきり。同部屋の患者さんがいるわけじゃないし、パパママがお見舞いに来てくれるわけでもない。もちろん友達だって来てくれない」


 だから一人ぼっち。

 季節がいくら回ろうとも、孤独は埋まらない。


 「うん。だから、少しでもお話しできたら嬉しいなって」


 ノワールは私の感情を理解できないのだろうか。ここまでストレートな物言いをしても、納得しきれていない。眉間に皺を寄せ、理解しようと努力する姿を私に見せるだけ。 まるで死神には「寂しい」という感情が備わっていないようだった。もしかしたら死神という生き物は感情の起伏に乏しいのかもしれない。


 「死神さんは、一人じゃ寂しくないの?」

 「……私は、死神だ。感情など……ない」

 「ないの? ほんと? 寂しくならないの?」


 私には感情がわからないという感覚がわからない。喜怒哀楽。どれもこれも私にとっては自然発生するものであったから。


 「ない……ないはずだ。私は死神。感情など不要な存在」


 長い間、人の魂を迎え続けるだけの存在だったのだから。感情なんて、必要なかった。とノワールは続けた。その表情はあまりにも苦しそうだった。これじゃあまるで彼女は感情を知らないのではなくて、抱いた感情を心の奥底に押し込めて蓋をし、見て見ぬふりをしているみたいである。


 「ほんと?」


 だから私はさらに触れてみる。


 「……わからない」


 ぽつりと零したノワールの言葉に、私はにっこりと笑った。

 凍てついた感情は雪解けし始めていた。揺れ動いていて、殻を破ろうとしている。無意識という呪縛から逃れようとしている。

 実際問題、彼女がどう考えているのかはわからない。超能力が使えるわけじゃないし。思考を読むなんてことはできない。だけれど、傍から見れば今彼女はそういう状況にあるんじゃないかと思えた。


 だから。


 「じゃあ、これから一緒に考えてみようよ」


 と、提案をする。


 「感情を考える」

 「そう。死神さんには感情があると思うの。じゃないとそんな表情豊かにはなれないもん」

 「表情豊か……私が、か?」

 「うん」

 「そうか」


 ノワールは頬をゆったりと触り、少しだけ口角を上げた。


◆◇◆◇◆◇


 それからというもの、ノワールは時折、私の病室を訪れるようになった。


 「ねぇ、死神さん。今日も来てくれたんだね」


 ノワールを見つけて声をかける。ノワールは小さくため息をつく。


 「……暇だっただけだ」

 「ふふ、それなら良かった」


 ノワールは首を傾げる。不思議がっているというか、悩んでいるというか。深く考えごとをしているような感じであった。

 もっとも私にはなにを考えているかはわからない。悩みを聞いたところで私には解決するすべもない。それなのに相談に乗る。そんな不義理なことはできない。だからその悩みを見て見ぬふりしてしまう。


 その代わり……ではないが。


 「ねぇ、死神さん。ちょっと待っててね」


 そう言って、私は枕元の小さなノートを手に取った。


 「……何をしている?」

 「日記を書いてるの。今日あったこととか、考えたこととか」

 「日記……?」

 「うん。私ね、ここから出られないから、せめて言葉だけでも残せたらいいなって思って」


 ノワールはじっと私の手元を見つめる。

 細い指でペンを走らせて、「生きた証」を刻んでいく。真っ白だったノートはみるみるうちに黒色で埋まっていく。それが嬉しくて、ふふっと声が零れる。


 「でも、今日は書くことがいっぱいあるなぁ」

 「……そんなに特別なことがあったのか?」

 「うん。だって、死神さんがまた来てくれたもん」


 私にとってノワールが来てくれる。それだけで十分特別なことになった。

 思ったことをそのまま口にしただけ。なにか変なことを言ったつもりは一ミリもなかったのだが、ノワールは言葉を失った。ぽかーんと口を開け、目を見開く。吃驚という二文字を彼女の額にぺたりと貼り付けたくなるような顔をしている。


 眉間を指でおさえ、二回ほど深呼吸をする。


 「……そんなものに、何の意味がある? 私が来たって……記すようなことではないだろう」


 ノワールはぼそりと呟く。


 「嬉しかったことを残すんだよ。ノワールが来たら嬉しいから書くの。それだけ」

 「そうか。……だとしてもだ。死ぬ者が言葉を残しても、やがて誰にも読まれず、忘れ去られるだけだ」


 思っていたよりもうんとストレートな指摘だった。ノートを見つめ、苦笑する。


 「うん、そうかもしれないね。でも、それでもいいの」


 否定はできなかった。一切できない。むしろその通りだと思ってしまった。


 「なぜだ?」

 「だって、私は『今』を生きてるから」

 「……」

 「未来のことはわからないけど、少なくとも私は『今』、死神さんとお話しして楽しかったって思えた。それを残しておきたいって思ったんだ」


 私は続けて「おかしなことかな?」とノワールに問う。


 「……どうなのだろうな。私にはわからない」


 と、彼女は苦笑する。

 そして自身の胸元をぎゅっと掴んで、天を仰ぐ。ごくごく普通である真っ白な天井を見上げ、深いため息を吐く。


 「わからない」


 ノワールは淡々と、抑揚すらつけずに、言葉を落とした。


◆◇◆◇◆◇


 ノワールと出会ったのは桜の花びらが開き始めて、冬が残した強くて冷たい風に咲いた花びらが力負けして、散るような、春の始まりだった。それから幾日か経過した。

 まだ春と冬どちらも感じられる。

 私は、窓を少しだけ開ける。

 冷たい風が頬を撫で、かすかに花の香りが混じる。


 「……もうすぐで完全に春になるね」


 窓からベッドに戻り、布団にくるまる。

 ノワールは、それをじっと見つめる。


 「……春が来たら、何か変わるのか?」

 「さあ、どうだろうね。こればっかりは私にもわからない。変わるかもしれないし、変わらないかもしれない……」


 曖昧模糊な返事をして、窓の外を眺めたまま、ゆっくりと瞬きをした。

 ノワールは少し不満気な様子を見せる。


 「でも春になったら、茶色で地味だった枝に蕾が出来て、桜が咲くでしょ? それに、みんな新しい生活を始めたりして……。植物も人間も変わるんだよ」

 「……お前は?」

 「私? 私かぁ……」


 少し考えてから、ふわりと笑った。


 「春の匂いを嗅ぐとね、『あぁ、まだ生きてるな』って思えるんだ。変わらずに生きてるなぁって」


 ノワールは、その言葉に小さく眉をひそめた。


 「……それは、どういう意味だ?」

 「春を感じるとね……一年ちゃんと生きていられたなって思うの。変わらずにちゃんと生きてられたなって。だからね、もうちょっとだけ生きていたいなって思うんだ。欲張っちゃう」

 「……」


ノワールは、その言葉を黙って聞いていた。それからムスッと眉間に皺を寄せる。


 「……お前は、死を恐れていないのではなかったのか?」


 私にぶつけてきた疑問。それは彼女が抱いて当然のものだと思う。実際、私は一度そのようなニュアンスの言葉をノワールにぶつけている。


 「うん、怖くないよ。でもね……生きていたいって思うのと、死を怖がるのは違うでしょ?」


 少なくとも私はそう思う。生きたいと死ぬのが怖い、というのはイコールになりえない。この二つの思考は同居することができる。


 私は布団の中から這い出て机の上に置いてあったノートを開き、さらさらとペンを走らせる。


 「今日も書くのか」

 「うん。日課だからね。今日のこと、書いておかなくちゃ」

 「……何と書く?」

 「気になる?」

 「……別に」


 ツンデレみたいな反応を見せるノワールに対して、微笑む。嫌な気配でも悟ったのか、ノワールは露骨に私から目を逸らす。それがなんだか面白くてさらにくすくす笑ってしまう。


 「『きっと死神さんが私に春をプレゼントしてくれたんだね』って書くよ」


 ノワールは、ぽかーんとしていた。すぐに咳払いをして我に返る。


 「……私が、春をプレゼント、だと?」


 なにを言っているんだ。そう言いたげな様子であった。


 「うん。死神さんと出会ったタイミングで春の訪れを感じたし、こうやって死神さんと出会う度に外は色鮮やかに染っていく。それに死神さんとお話ししてると、ちょっとだけ温かい気持ちになるんだもん」

 「春……か」


 外だけじゃなく、ノワールにも彩りが生まれたような気がした。


◆◇◆◇◆◇


 ユメの病室に足を踏み入れた瞬間のことだった。私は思わず顔を顰めてしまった。


 「ノワール……」


 と、ユメは私の名前を呼ぶ。いつもならば彼女は私のことを『死神さん』と呼ぶのだが。

 なにもかもがいつもとは違って。混乱しかけていた。


 「……顔色が悪いな」


 思ったことを素直に伝える。

 ベッドの上のユメは、いつもよりもうんと力なく微笑んだ。肌は透けるように白く、呼吸もどこか浅い。まるで死に絶えそうなセミみたいだった。


 「んー、ちょっと熱っぽくてね……今日はあんまり動けなくて」


 あははーと絞るように出す笑い声はあまりにも痛々しくて、見ているこちらの心がむぎゅーっと痛くなる。なんで痛いのだろうか。謎だ。


 「……そうか」


 私はベッドの傍の椅子に腰を下ろす。

 その動作に、ユメはくすりと笑った。


 「死神さん、もうすっかり常連だね」

 「……違う。暇なだけだ」

 「ふふ、そういうことにしておくよ」


 ユメは少しだけ体を起こそうとしたが、すぐに力尽きたように肩を落とした。

 私は、そんなユメを見つめながら思う。というか見覚えがあった。私は死神として、多くの命の終わりを見てきた。だからわかる。人として終焉を迎える兆候であると。その直前には決まってこうした「静かな衰え」が訪れる。痛みや苦しみの後、すべてが静かになり、眠るように……。


 つまり。つまり。つまり。つまり。つまり。つまり。


 ユメは息絶える準備に入ったということ。

 難しい言い方をやめるのなら、死が直前に迫っているという表現になるか。


 「ねぇ、死神さん」


 ユメは不意に小さな声で呼んだ。


 「……なんだ」

 「もうすぐ、桜が満開になるね」

 「……そうだな」

 「見られるかなぁ」


 その言葉に、私の胸が僅かに軋んだ。死神として孕んではいけないなにかを今孕んだような気がした。触れたら、自覚したら、取り返しがつかなくなるような気がして、そっとそれを遠ざける。


 「……お前が生きていれば、見られるだろう」

 「そっか……そうだね。生きてれば見られるよね。見れたらいいなぁ」


 ユメはゆっくりと瞬きをし、疲れたように目を閉じた。

 ユメの寝顔を見つめながら思う。こんなにも穏やかな顔をしていられるものなのか、と。


 本来、死神は感情を持たない。持ってはいけない。

 ただ静かに、命を見送り、死を記録するだけの存在。

 それが死神。


 なのに。


 私の胸の奥で、名前のない感情が芽生えていた。


 それは、初めて見る「春の光」に触れたような……。

 それとも、沈む夕陽を見送るような……。


 言葉にできない、温かくて、少しだけ切ない感情だった。


 私よりもユメの方がよっぽと穏やかで落ち着いていて、状況理解にさえ苦しむ。


 これは一体なんなんだ。

 誰か。教えてくれ。


◆◇◆◇◆◇


 ユメの病室に入ると、いつものように微笑む彼女の姿はなかった。

 代わりに、ベッドの上にはぐったりと横たわるユメと、慌ただしく動く看護師たち。

 いつもは出てこないような汗がぶわっと溢れ出て、心はぎゅっと締め付けられる。


 「ユメさん、深呼吸できますか?」

 「……ん……」


 ユメは弱々しくまぶたを開け、かすれた声でうなずいた。

 顔色は青白く、いつものような温かな気配が感じられない。


 私は静かにその場を見つめた。

 死神は、死の瞬間を見届ける役目を持つ。

 それは決して介入できない、ただの観測者。介入することは許されない。もしも介入したとすれば……。きっとその時は……。


 「……死神さん」


 看護師たちが去った後、彼女は私を見つめて微笑んだ。


 「今日も……来てくれたんだね」

 「……当然だ」


 私はいつものように椅子に座る。

 だが、心の奥には焦燥感があった。


 「死神さん……もう、時間がないのかな?」


 ユメの問いに答えられなかった。答えること、それはすなわち死の介入を意味する。死神にとって禁忌。


 「……やっぱり、そうなんだね」


 ユメは寂しそうに笑う。私はなにも言っていないのに、彼女は勝手に無言を肯定と解釈した。その通りなので私はさらに無言を貫く。否定も肯定もできないので無言でいることしかできない。


 「そっかぁ。もっと話したかったな……」

 「……お前は、後悔しているのか」


 ユメは少し考えてから、首を振った。


 「ううん。してないよ。でもね……ひとつだけ、心残りがあるんだ」

 「……何だ」

 「……満開の桜、見たかったな」


 私は、ギュッと拳を握る。

 叶えてやりたい。

 そう、思った。


 思った。けれど、死神にできることは何もない。

 死を見守ることしか、できない。


 だが。


 「……ユメ」

 「……え?」


 彼女の名前を呼ぶ。するとユメは吃驚したように目を見開く。さっきまでの無気力さからは考えられなかった。


 「……お前はまだ、生きている。その心臓は動いている。死んでない。まだ死んでいない」


 私はそっと手を差し伸べる。この手を掴め、と目で訴える。

 彼女は視線を往復させる。私が差し出した手を掴もうとはしない。戸惑いが勝っているようだった。


 「ついてこい」

 「……え?」

 「外に行くぞ」

 「でも……私、もう歩けなくて……」

 「なるほど、そうか。それならこうすれば良いな」


 そっと、ユメを抱き上げた。彼女の体は驚くほど軽かった。


 「し、死神さん……?」

 「いいから黙っていろ」


 ユメを抱えたまま、ノワールは静かに窓の方へ向かう。

 病室の窓から見える桜の木。満開とは言い難く、窓の外を見たユメは小さく笑う。


 「……綺麗だね」

 「違う」


 私は否定した。

 彼女が望んだものを見せたかった。これじゃない。

 満開の桜を見せてやりたい。


 死神ではなくて、一人の恋する乙女として。そう願った。


◆◇◆◇◆◇


 病院を抜け出し、ユメを抱えたまま庭へと歩いた。向かった先は窓の外に見えていた桜の木。ピンク色に染まっているが、まだ寂しさの残る桜の木である。


 「……満開じゃないけれど。綺麗だね」


 ユメは微笑む。


 「……そうだな。だけれど違う」


 桜の下にそっとユメを降ろし、ベンチに座らせた。


 「でも、嬉しいな……最後に、外に出られて。もうずっとベッドの上だと思ってたから」

 「……お前は、まだ最後を迎えていない」

 「……ふふ、そうだね。この桜が満開になるまで生きなゃだもんね」


 ユメはかすかに息を吐く。

 彼女の呼吸は浅く、今にも消えてしまいそうだった。


 「……桜、満開になったりしないかな」


 ユメはぽつりと呟く。


 「……咲かせてやりたいな」

 「うん……」


 ユメのまぶたが、少しずつ重くなっていく。

 このまま眠ったら、彼女は目を覚まさないかもしれない。

 私は、ユメの手を握った。


 「ユメ」

 「……ん?」

 「……お前は、まだ生きている」

 「……うん」

 「……だったら、願え」

 「願う?」

 「満開の桜が見たいと、願え」


 ユメは、少しだけ驚いたように私を見た。


 「死んで……欲しくない……。満開の桜を二人で見よう。そして見れたねと喜び、来年も見ようと約束するんだ。だから。死ぬな」


 自分自身でも驚く。するすると準備していたかのように言葉が出てくる。


 「そつかそっかそっかぁ。なるほど。気付かなかった……」

 「なにが、だ?」

 「私、見れてたんだ。満開の桜」

 「……? この桜は満開じゃないが」

 「ううん。あるよ。満開の桜。ここに」


 ユメは私の胸元を軽く触る。か弱い力で。


 「死神さんの心の桜を満開にできて、私は幸せ。今まで見てきたどんな桜よりも綺麗」


 ユメは力を振り絞るようにして微笑む。そして、すべての力が抜けた。


 彼女の肩をそっと抱きしめたまま、私はなにも言わなかった。

 だって、彼女の最期の表情があまりにも幸せそうだったから。


 春が来る前に、君はいなくなった。

 私の心に春を連れて。


◆◇◆◇◆◇【完】◆◇◆◇◆◇

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