マヨイガ
色街アゲハ
マヨイガ
近年稀に見る冷夏が国全体を覆った後、各地を襲った凶作が人々を絶望の淵に叩き込んだ。
刈り取られた稲穂の、その殆どが空の籾殻である事に人々は皆、膝を折り、地に頭を擦り付け慟哭の声を上げるのだった。
先日まで楽し気に村中を駆け回っていた子供達、そしてその様子を穏やかな眼差しで見守っていた年寄り達が、明くる日には全てその姿を消していた。
「許してくんろ、許してくんろ! 仕方なかっただ、村が生き残るにはこうするしかなかっただ!」
至る所で上がる獣の如き叫び。しかしその声も瘦せ細った体躯の由、か細い掠れ声にしかならず。
悲痛に過ぎる手段に訴えて、しかしそれでも村の人々の食い扶持を賄うには余りにも残された物は乏しかった。
「小作ぅ! お
言われた男の名は、呼ばれた通りの小作と云い、この村に於いて人々から挙って無能、役立たずと罵られ、言われた本人も何とか村の人々に交じって役に立とう、役に立とうと懸命に腕を振るいはしたが、これがどうあっても上手く行かない。何をするにしても、人の二倍、三倍時間が掛かり、終いには、「どけ!」と手荒く突き飛ばされ、唖然と他の村人の仕事ぶりを眺める事しか出来ない、そんな、もしかしたらどの村にも一人は居る類の哀れな男だった。
平時であれば、疎まれながらも辛うじて村人のお目溢しにより居る事を許されたその身も、此度の凶作下に在ってはそれも叶わず、ましてや、最も近しい者達を手に掛けざるを得なかった村人達の、彼を見る目は、増悪に満ちた物だった。
「さっさと行げぇ! そいとも、今、此処で殺されたいんかぁ!」
凄まじい剣幕に怯え、駆け出した小作の姿を見送る者は既に無く、人々の頭を占めるのはこれからどうやって食い繋いで行くか、その一点のみだった。
村から追い出された小作の彷徨い歩く、それは道と呼ぶものとて既に無く、獣の通る跡すら見られない、折り重なった山々の、何処とも知れぬ深く繁った木々と草叢と。
まだ村に居た頃の、日の傾き、朱に染まる空の向こう側、ぼんやり翳る遠く重なる山々の、その有様を眺むる内に、其処に何が在るか、よもしたらこの村に居るだけでは到底見る事叶わない、何ぞ不可思議な物が其処に在る様な思いして、様々に夢想を重ねながらも、それ叶わぬ事ぞと自身に言い訳し、踵を返すのが常であったその山々の、まさか、こんな形で足を踏み入れる事となろうとは。
既に周囲は村とは似ても似つかぬ、異界の者達の住まう鬱々と草木の茂る森の中。陽の光も此処まで届かず、薄暗く、絶えず獣の気配に怯えながら進まねばならず。耳の痛くなる程の沈黙の覆ったかと見れば、風か獣か、ザワザワ、ゴソゴソと草木揺れ、その度にビクリと身の縮む思いして、音の過ぎ去るまで腹の辺りに凝り固まった力の抜けない、そんな事ばかりが延々続く。それにも増して、この身を苛む飢え、乾き。ジリジリと残された時の、命の火の、やがて潰えるその時の、逃れ様もなく目の前に迫るこの焦燥よ。額に浮かぶ脂汗。終いに口から洩れ出る懇願の言葉、「お助けを、どなたかどうかお助けを。」うわ言の様に続けるばかり。煤けて黒くなった顔に涙の跡が戦化粧の様に伝い、髪はざんばら、着る物は所々穴だらけで最早服の態を為さず、脱皮した後の剥がれかけた皮と云った物かは。その佇まい、さながら一匹の幽鬼の如き。
手足は鉛の様に重く、目は翳み、何処をどう進んでいるか、実にこの身は疾うに朽ち、気付かず抜け出た魂の尾の、彷徨い続け、後に残す、朽ちて散らばる骨の山。見咎めて眉顰めるか、静かに祈りを捧げるか、何れも見込みの薄ければ、「嫌だ、嫌だ、死にとうない! 死にとうない! 誰ぞ、誰ぞ其処にある?」叫び、首を上げたその先に、薄く微かに、それでも光る開けた場所と思しき跡を見た小作の脳裏に浮かぶもの。「嗚呼、いよいよどうかしてしまった。あれの先は極楽の門か、はたまた地獄の獄卒の御前か。」
しかして、その何れもさにあらず、目の前に広がりたるは、あからさまに人手の入った、耕され、隆々と盛り上がった畑の畝。遠く、それでも一目で豪奢な造りと分かる、陽の光を受け黒光りする瓦屋根の屋敷にまでそれは続き、熱を帯び、ゆらゆらと立ち昇る陽炎が辺りを夢の如き、儚く、さながらそれは死に際の人の見る蜃気楼の如きもの。
畑の合間を抜ける道。その両脇の、石造りの溝にチョロチョロと清水流れ、その涼し気な音に聞きいる内に小作の、それまで張り詰めていた気のふっと緩み、あっと思う間も無く力抜け、その場に崩れ、辛うじて残っていた意識を手放していた。
「あ、目を覚ましましたよ、ひい様、ひい様!」
バタバタと駆けて行く音が遠ざかって行くと、替わって近付く衣擦れの、腰より下げし飾り輪の、しゃらんしゃらん、と音を立て、その響き修験者の携えし錫杖の、辺りを祓い清める心地して、思わず跳ね起き居ずまいを正す。
現われたのは、妙齢を少しばかり過ぎた、と云った風情の、かと思えば、幼い童子かと見紛う明け透けさを思わせて、目を擦り瞬いてまじまじと見詰めんと顔を上げた時には、かの婦人、既に眼前に座り、姿勢宜しくにっこりと微笑みかけるは毒気抜かれて、言葉も無く戸惑う小作を前にして、
「ようこそいらっしゃいました。さぞやお疲れでしょう、心行くまでゆっくりしていらっしゃいな。」
と、物柔らかな、心の襞を優しく撫でる声音に、身も心も蕩ける様で、一も二も無くコクコクと頷くばかりの小作に、「まあ、」と一言洩らし後に、コロコロと鈴を転がす様に笑い声を上げ、
「さぞや辛い思いをなさって来た御様子、心配は要りませんよ、此処では誰もあなたを害する者はおりません故。さあ、お腹も空いた事でしょう、たくさんお食べになって、身を清めて頂いて、それからぐっすりお休み下さいな。これからの事はそれからお考えになるのが宜しいかと。」
こうしてこの隠れ里に迎え入れられた小作の、食って寝てばかりの扱いも心苦しいと、自ら買って出た畑仕事その他諸々の、以前とは似ても似つかなぬ手際の良さに、当の小作自身が何より一番驚いていた。鋤を振るう腕の軽く、打ち込む度に土や石がまるで自ら退いて行く様に掻き分けられる。また、縄を結い、竹を編み、それら全てが村に居た頃の、誰よりも要領の悪く、しくじり者だった者と同じ手に依る物とは俄かには信じ難く、寧ろ、村に居た頃、何故あれ程までに出来なかったのかと疑問に思う程に、遣る事為す事これ以上も無く上手く行き、果たしてこれは誠の事か、今此処で起こる事全て夢の内での出来事なのではないか。そんな考えを振り払う様に、小作は無心に腕を振るい、連日クタクタになるまで働いた。仕事を終えて帰る道すがら、迎えに来たかの婦人の御付きの女人達が、楽し気に笑いさざめきながら周りを廻る。そんな穏やかで心休まる日々のジワジワと沁み込んで行く、それは甘い毒を含んだ物の様にも思われて。
そうこうする内にも、年若く、気立ても宜しく自分を慕う女人の一人と祝言を上げ、やがて生まれた子供達の、玉の如き愛らしさ。この時ばかりは小作も満面の笑顔で以て答え、この児らの、遊び戯れ、お腹いっぱいに食べ、すやすやとよく眠り、何れ大きくなって独り立ちする様を思い、その為に、その為だけにより一層仕事に精を出そうと心に決めるのだった。己の心に去来する微かな違和感は今は置いておいて。ただひたむきに鍬を取り、肩に担いて、祈りを込めて土に打ち込む。この想い、どうか土よ空よ答え給え、と。
時の流れは、遅かろうと早かろうと、全てを呑み込み、元居た処から遠く離れ、もう二度と戻る事の出来ない、遠い遠い処まで押し流して仕舞う。気が付けば小作もすっかり年を取り、昔の様に鍬を振るう腕も重く、日がな一日縁の下、ウトウトと夢か現か、朧げなうたた寝の内に過ごす事が多くなって行った。浅い眠りの合間に僅かに訪れる覚めた意識の内に、小作は見慣れた筈のこの場所で、自分だけが取り残された、見知らぬ所に放り出された、そんな説明の付かない戸惑いの内に在った。長い年月の内に、見知った所から遠く離れて、時の果ての内に迷子になってしまった様な、そんな誰にも理解されない戸惑いの内に在ったのだった。
子供達は壮健で、最早自分の出張る必要も無い。自分と同じ様に年老いたが、妻は変わらず気立て良く、甲斐甲斐しく自分や子供達の為に骨折ってくれている。何の不満が在るだろう。何が一体足りないと云うのだろう。自身の内に潜む空虚な感情に、小作は首を傾げて思案するのだったが、その答えは終ぞ分からず、再び忍んで来た眠りの内に。
夢の中に居た。浅い眠りの、瞼の裏にまで差し込む陽の光の、明るい周囲の中で、小作は嘗てしていた様に鋤を振るっていた。硬く石だらけの土は何度打ち込んでも柔らかくならず、日も傾こうと云う時刻になっても、十分な広さの畑になるには足らなかった。ふう、と息を吐き、腰を伸ばす小作の後ろから声の掛かる。
「どうじゃ、小作。塩梅の方は。」
ゆっくりと振り向き小作の答えるに、
「だぁめだぁ、こんの頑固もん、中々云う事聞いてくれん。困ったもんじゃ。」
「おう、そっちもか。けんど、そんなんでも畑さ拵えて行かにゃ、おまんまの喰いあげじゃしなぁ。」
「ほんに、ほんに。これで村の皆が腹いっぱいになれるってんなら、へこたれんと、気張らにゃのう。」
全くじゃ、と笑いを交わす内、ハッと小作は気付いた。途中から夢と気付きながらも嘗て覚えた事の無い充実感に満たされながら見続けていたこの夢。これこそが小作の望んでいた事であったと。遥か遠い昔に追い出されたあの村。自分は、本当はこうやって村の皆と一緒になって、腕や足腰をギシギシと、辛く苦しい思いをしながらも、それでも皆と一緒に苦労して、貧しい内にも掛け替えのない日々を過ごしたかったのだ、と。それこそが本当に自分の望んだ事だったのだと。
この村より遠く離れたこの地にあって、何時しかその事も忘れ、こうして気付いた時にはその機会も永久に失われて。
眠りの内に小作は叫んでいた。
「腹も膨れたぁ! 子宝にも恵まれたぁ! けんど、空っぽだぁ! おらの心の中だけが空っぽだぁ!」
眠りの内に叫ぶ声は音にならず、誰に気付かれる事無く一人すすり泣く小作の背をそっと撫でる、それは初めて出会った時と少しも変わらず、艶やかな笑みを浮かべるかの婦人の姿。
「眠りなさい、眠りなさい。全ては夢。あれも夢、これも夢。辛い事なんて此処には何一つありません。良いのですよ、泣いて泣いて全部忘れておしまいなさい。そして、幸せな夢だけにあれば、それで良いのです。」
泣き止まぬ小作の背を、まるで子供をあやすかの様にさすり続ける。そんな二人の姿を沈みかけた春の陽の、朱に染まる空の下、全てを優しく包み込み、静かな眠りに誘う。
それは、全てが夢の内とでも云うかの様に。
何時しか時は更に過ぎ、村も小作も迷い込んだ里も、全てこの地より去り、遠くたなびく雲の上。知らず見上げる人の見る白々と浮かぶ雲の内に、微かに伝う嘆きの響き。
望むべく物はすべて手にし、しかし、それでも心より望むたった一つの物を遂に手に入れる事の出来なかった、これは数ある者達の話の内の一つ。
今日も浮かぶ、ゆったりと地に影落とす白い雲。果たされなかった思いを乗せて、静かに静かに、今日と云う日も地の果て目指し流れ行く。
終
マヨイガ 色街アゲハ @iromatiageha
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます