奴隷皇帝 〜裏切られた皇子の復讐〜

天使 逢(あまつか あい)

第一章:終わらない冬・幼少期篇

第一節:帝国篇

第1話:エピローグ 終わらない冬

「ご愁傷さまです」


 低く淡々とした声が、病室に沈む静寂を引き裂いた。


 無機質な蛍光灯の光が、白く殺風景な病室の壁を照らしている。消毒液のにおいが鼻を刺し、乾燥した空気が喉の奥に絡みつく。


 医師と思われる人物がベッドの横に立ち、静かに心電図モニターを見つめる。断続的に鳴り響いていた電子音が、最後の波形を描いて、やがて平坦な線を刻んだ。


 周囲には、泣き崩れる声。

 母親だろうか。それとも父親だろうか。もうどうでもいい。俺を見捨て、長年見舞いにこなかった奴らだ。


 ――今さら、何の涙だ?


 考えなくてもわかる。


 俺の死を悼んでいるわけじゃない。保険金狙い。それだけだ。


 泣いているように見せかけて、医師の前では顔を伏せる。そのくせ、俺の顔のすぐ近くでは、ようやく死んだとばかりに歪んだ笑みを浮かべているのがわかる。


 目は開かない。口も開かない。ただ、耳だけは最後まで聞こえていた。

 人は死ぬとき、耳だけは最後まで機能すると聞いたことがある。どうやら、それは本当らしい。


――ああ、もっと自由に生きてみたかった。


 俺の人生は、多々25年で幕を閉じた。世間的には「まだ若いのに」と言われる年齢だろう。だが、俺にとっては、ただの無意味な時間だった。


 俺は、生まれつき重度の心臓病を抱えていた。


 幼稚園の卒園式も、病室で迎えた。園長先生と担任の先生が、小さな紙の卒園証書を持ってきてくれて、簡易的な卒園式を開いてくれた。


 小学校に入ってからも、入退院を繰り返しながら、月に数回だけ学校へ通った。友人はできたが、すぐに離れていった。


「アイツ、いつも病院にいるし」

「なんか話しづらいよな……」


 彼らの言葉が、妙に残った。自分が「普通ではない」と痛感させられる瞬間だった。


 俺の体は、生まれたときから「生きることに向いていなかった」。

 歩くことすらままならず、杖を突いてようやく進めるほどだった。


 それでも、束の間の希望はあった。


 中学に入り、週に一回だけ学校へ通う許可が下りた。通院しながらの生活だったが、勉強は得意だった。体を動かせない代わりに、学問に打ち込んだ。


 だが、友人ができても、結局は疎遠になった。


 俺がいつも病院にいること、体育の授業に出られないこと、クラスの行事に参加できないこと——そんな些細なことが、俺と周囲の間に見えない壁を作っていった。


 それでも、病状は少しずつ良くなっているはずだった。


 高校に進学し、最初の半年は問題なく通えた。


 しかし——それも長くは続かなかった。

 ある日の授業中、突然、鋭い痛みが胸を貫いた。


 心臓発作——狭心症だった。


 気がつけば病院のベッドの上。高校生活は「入院生活」に置き換えられ、二度と教室に戻ることはなかった。


 高校卒業時も登校こそできなかったが、成績は常に優秀だった。


 こんな体だからこそ、やることは勉強しかなく、週一回来る教師たちから教えてもらいながらの勉強は少しだが楽しかった。


 お見舞いと称して勉強を教えてくださった教師たちには感謝している。


 週に一回だが人と楽しく話せたのだ。

 ただ、教え子である俺の体が、日を追うに連れてやせ細っていき、力が入らなくなっていく。骨と皮になる姿を見ていた教師は哀れんだ目で見るようになっていった。


 それでも哀れんだ目で見たとしても、俺のために簡素ではあるが、授業を一対一で教えてくださった。


 そんな中、両親は俺のことを「厄介者」としか思っていなかった。


父親は、優秀な弁護士。母親は、有名な女優。


世間の目を気にする二人にとって、「重病を抱えた息子」は、ただの汚点でしかなかったのだろう。

たまに病室に来たかと思えば、父は俺の前で冷たく言い放った。


「早く死ね。お前なんて家の恥だ」


母はさらに残酷だった。


「まだ死んでないのね。早く死になさいよ。死ねば保険金が手に入るわ」


 ――俺は、金の道具だった。


 さすがに殺されかけたりなどはしなかった。

 ただ、両親にとって、俺の命はただの「保険金を生む手段」にすぎなかった。


 最初の頃こそ、入院中に見舞いに来ていたが、それも次第に途絶えた。


 俺は家族にとって存在しない者と同じだった。


  病院の廊下は、いつもと変わらず静かだった。

 淡い白色の蛍光灯が無機質な光を放ち、漂う消毒液の匂いが鼻を刺す。

 ベッドの上の俺は、虚空を見つめていた。


 ——俺は、見捨てられた。


 看護師や医師の目は、憐れみと諦めに満ちていた。


 「可哀想な子」とでも言いたげに、距離を置いて接してくる。

 結局、どれだけ治療を施されても、俺が完治することはないと分かっているのだ。

 彼らの口から出る優しい言葉の裏には、見捨てられた者への無関心が透けていた。


 両親もそうだ。

 世間では、「病気の息子を必死に支える悲劇の両親」として語られているのだろう。


 実際は、俺を利用して自分たちの評価を上げることしか考えていなかった。


 ——まるで舞台の上で、薄っぺらい役を演じているようだった。


 ニュースでは「今日も息子の見舞いに行きました」と笑顔で語る母。


 記者の前で「息子は学年トップの成績を取ったんですよ」と誇らしげに話す父。


 ——くだらない。


 お前たちがここに来たことなんて、一度でもあったか?

 俺が病院の天井を見つめ、何度、夜を越えたと思っている?


 俺が普通の家庭に生まれていたら……

 俺が病気なんて持っていなかったら……


 まだ、ましな人生を送れたのだろうか?


 そんなことを考えたところで、答えなど出るはずもなかった。

俺は、やるべきことをやった。


 生きていれば、きっと何か変わる。

 そう信じて、必死に勉強し、資格を取り、仕事を探した。


 結果として、病院のベッドでできるリモートワークの仕事を得た。

 どれほど努力したところで、この体は普通の人間のように働けない。

 活動時間が限られる俺は、会社でも「厄介者」として見られていた。


 それでも、結果は出した。

 誰よりも正確に、迅速に仕事をこなし、評価も高かった。


 ——けれど、人は結果だけでは評価されない。


 優秀であるほどに、周囲の人間は俺を妬み、疎んじた。


 そしてある日、俺は会社で最も重要なプロジェクトを任されることになった。

 海外事業の成功を左右する大きな仕事だった。

 しかし、その時だった。


 病気が悪化したのだ。

 長く続いていた小康状態が、一気に崩れた。


「お前は体調が不安定だから」という理由で、俺からプロジェクトは奪われた。


 そして——俺は会社を辞めた。


 それからの日々は、色のない世界だった。

 何をしても虚しい。

 何を考えても、心が動かない。

 ただ、病室の天井を見つめるだけの日々。

そして、25歳の誕生日が来た。


 ……だが、何も変わらない。


 部屋の片隅にある時計の秒針が、無機質な音を刻む。

 かすかに聞こえるのは、外の世界を行き交う車の音。


 俺には、もう関係のない世界。


 看護師がトレイを運んでくる。

 皿の上には、柔らかく煮込まれたスープと、小さなパン。

 唯一、俺の身体が受け付ける食事。


 ——そのはずだった。


 スプーンを握ろうとした瞬間、指が震えた。

 力が入らない。

 カタン、と音を立ててスプーンが床に落ちる。


 「うぐ……」


 鋭い痛みが胸を貫いた。

 内臓が鷲掴みにされたような、圧迫感。

 息が詰まる。喉が渇く。

 医療機器のアラーム音が、耳の奥で鳴り響いた。

 遠のく意識の中、白衣の影が駆け寄ってくるのが見えた。

 誰かが俺の名前を呼んでいる。


 それでも——


 俺は、目を覚ますことはなかった。

 死んだあと、耳だけは最後まで聞こえるというのは本当だったらしい。

 しばらくして、両親の声がかすかに耳に届く。


「あんたなんか……生まれてこなきゃよかったのよ……疫病神」


 ……やっぱりな。


 最期の最期まで、この人たちは俺を否定するのか。


 どこかで、「もしかしたら」という希望を抱いていた自分が馬鹿みたいだった。

 俺は、この世界にとって不要な存在だったのだ。

 病気さえなければ、幸せになれたのだろうか?

 健康な体で生まれていたら、愛されていたのだろうか?

 そんな問いに、誰も答えてくれない。

 意識が徐々に遠のいていく。


 重力がなくなり、俺の存在がこの世界から消えていくような感覚。


 残るのは、虚しさだけ。


 そして、世界への恨み。

 絶望。

 妬み。


 ——もし生まれ変わることができるのなら。


 健康な体が欲しい。

 普通に生きられる人生が欲しい。

 家族に愛される人生が欲しい。

 だが、それはもう手に入らない。


 闇が、静かに俺を飲み込んでいった——。


―――――――――――――――――――――――


数時間前——。


鼓動が耳の奥で、ひどくうるさく響いていた。

まるで胸の中で針が跳ね回っているような、不規則なリズム。

息を吸うたび、肺の奥が痛み、ヒューヒューと乾いた音を立てる。

喉の奥が焼けつくように熱く、身体の芯が重い。

見慣れた天井をぼんやりと眺めながら、天使雪あまつか せつは自分の状態を理解していた。


——もう、長くはない。


窓の外には、灰色の空が広がっていた。

冬の寒さが、病室の薄い毛布をすり抜けて、肌を刺す。


指先がじんわりと冷えている。

静寂の中、病室の扉が開く音がした。

小さく軋む音が、やけに鮮明に聞こえる。


入ってきたのは、母親だった。


「……どう? まだ生きてる?」


作り笑い。

薄く上がった口角。

だが、その目は冷え切っていた。


「……見れば分かるだろ」


かすれた声が喉の奥で震えた。

母親はため息をつき、肩をすくめた。


「ほんと、手間ばっかりかけさせて……。医療費だってバカにならないのよ?」


俺が生きている限り、この女は金を払い続けなければならない。

父は仕事が忙しいと称し、ほとんど顔を出さなかった。

代わりに、時折こうして母親が来ては、嫌味を投げつけていく。


だが、それでも——この女は「母親」になろうとしていた。


俺が死にかけている今も、その偽善を続けている。

枕元に立ち、わざとらしく目を伏せる。


「……本当は、あなたが死ぬなんて嫌よ」


母親はそう言って、静かに涙をこぼした。


(嘘つけ)


心の中で、冷たく笑う。

知っている。俺が子供の頃から、この女は一度も本気で俺を心配したことなんてなかった。

今こうして泣いているのも、ただの「悲劇の母親」を演じているだけだ。

まるで芝居のワンシーンみたいに、流れる涙。

それは、俺の死を悲しむものじゃない。


ただの自己陶酔。


自分が「哀れな母親」になりきっているだけの、くだらない演技。


ああ、くだらない。


目を逸らし、傍らの小さなテーブルを見やる。

そこには、看護師が置いていった食事があった。

皿の上には、柔らかく煮込まれたスープと、小さなパン。

唯一、俺の身体が受け付ける食事。


——そのはずだった。


スプーンを握ろうとした瞬間、指が震えた。

力が入らない。

カタン、と音を立ててスプーンが床に落ちる。


「うぐ……」


鋭い痛みが胸を貫いた。

内臓が鷲掴みにされたような、圧迫感。

息が詰まる。喉が渇く。

医療機器のアラーム音が、耳の奥で鳴り響いた。

視界がぐらりと歪む。

酸素が足りない。喉がカラカラに乾いて、言葉にならない声が漏れる。


——いよいよ、終わりの時が来たらしい。


足元から冷たいものが這い上がってくる。

手のひらに力が入らず、身体が自分のものではないような感覚に陥る。

最後に見たのは、泣き顔の母親だった。


「ごめんね……ごめんね……」


震える声。

頬を伝う涙。


まるで本当に俺の死を悲しんでいるように見える。

だが、その目は俺ではなく、もっと別の何かを見ていた。

きっと、この女が嘆いているのは「自分の人生」だ。

病弱な息子を持った、自分の「不幸」なのだ。


——こんな連中のもとに生まれたことが、俺の不幸だった。


……ああ、くそ。


俺の人生は、何だったんだ?

たった一度も、本当に生きたと思えたことはなかった。


俺は——俺は……


——命を懸けて、何かを求めたことがなかった。


胸が締め付けられるような痛みが走る。

視界が歪み、世界が揺れた。

遠くで、誰かの叫び声が聞こえる。

看護師が駆けつけ、医師が必死に俺の心臓を叩く。


だが——無駄だった。


——俺は、死んだ。


沈黙が訪れる。

時間が止まったかのように、すべてが静寂に包まれる。

そして、最後に聞こえたのは——


「……あんたなんか、生まれてこなきゃよかったのよ……疫病神」


母の、冷たく、呪うような声だった。


意識が、深い闇へと沈んでいく。


——この世界が、憎い。


——この人生が、憎い。


——何もかもが、憎い。


もし、生まれ変わることができるなら——


俺は、俺を踏みにじったすべてを、叩き潰せる力が欲しい。


それだけを願いながら——俺は、死んだ。

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