ケイの選択
ウタテ ツムリ
第一の選択
それ、使わないほうがいいよ。
ケイはそう言って、薬剤注入器を握っているナライの手をそっと汚れた首元から引き離す。発作のせいか震えて硬直した指を一本ずつ開いていき、濁りが強い薬液が詰まった注入器を取り上げた。
「使うならこっち。調合したてだけど、使用期限切れの粗悪品よりはいいはずだから。ちょっと首元、消毒するね」
ナライは荒い息を吐いては言葉を忘れたように唸るばかりで、まるで人の形をした手負いの獣のようだった。泥と何かで汚れた首元をアルコールシートで拭くと、黒い汚れから赤い線がいくつも伸びる。ケイはそれを拭うように清潔なシートを擦り付け、針を刺しても問題ない安全地帯を作り上げる。
ナライは意外にも抵抗しなかった。ただ、赤銅色の鋭い目を歪めてケイを睨みつけている。言葉を話す理性は残っていないのか、喉から響くのは地を這うような唸り声ばかりだった。
「私の声、聞こえる?」
ナライの食いしばった歯の隙間から、声にならない鳴き声が漏れる。ケイはそれに頷いて、何もかも見通したような目で微笑んだ。
「鎮静剤、打つよ。ちょっと痛いけど、すぐ楽になるから我慢してね」
瞳孔が開いた赤銅色の目がきつく閉ざされる。瞼を閉じて何かに耐えている様子は、ナライが発作に限界まで耐えている証拠でもある。ケイは薬剤注入器の封を切ると、一息にナライの首元へ針を突き刺した。極度の興奮状態で過敏になっているナライの体は、小さな針のもたらした痛みに跳ねる。しかし、ナライが自分の腕を自身で押さえ込んでいたからか、ケイの体が突き飛ばされることはなかった。
ケイはその反応を見ても眉ひとつ動かさなかった。まるで初めから自分に危険がないことを理解していたかのようで、怯えた様子も見せず空になった注入器のラベルに何かを書き込んでいる。ペン先につづられる数字が震える気配もない。
鎮静剤は即効性だったのか、ナライの呼吸が徐々に落ち着いてくる。発作が治ったのか肩で息をしながらも体は脱力していて、何かを耐えるように歪んでいた顔も穏やかになりつつあった。
「お兄さん、私の声が聞こえる?」
「ああ。よく聞こえる」
「よかった。言葉はなくさなかったみたいだね。怠いとか、気分が悪いとか、何かある?」
「気分?最悪だ」
「そっか。ひとまず問題なさそうだね。元気そうでなにより」
「お嬢さんの耳は飾りか?それとも、実は目が節穴だったりするのか。何にせよ、まともな診察をどうもありがとうだ」
「人狼化症候群の発作直後で、そこまで元気に話せる人は珍しいよ。お兄さんは発作にも耐性があるみたいだし、症状があまり進行してないのかな」
ケイは遠慮のない言葉を吐きながら、メモ帳に患者の状態を書き込んでいるようだ。無遠慮な視線が、ナライの体を隅々まで観察しようと動いている。しかし、決して今いる場所から近づいてこないことに、疲弊した人狼は目を細めて喉を鳴らした。
「ハ。どこぞの世間知らずなお嬢さんは、狼の懐でずいぶんと大胆だな。その喉、噛みちぎられたいらしい」
「お兄さんはそんなことしないよ」
ケイはあっさりと断言して、投与時間をラベルに書き込んだ注入器とメモ帳を鞄にしまう。そして、なんでもないことのようにビルの壁に背を預けて座り込んでいるナライに手を差し出した。
「とりあえず、投薬後の経過を見たいから一緒に来てくれる?」
一瞬、ナライはその傷ひとつない指に牙を突き立てようかと考えて、かすかに震えるその手を握り返すことに決めた。
人狼化症候群。
通称、ダブル。
ある日突然、世界に広まった破滅的な病であり、精神と肉体の両方に変調をきたす。感染者は精神的に不安定になるものが多く、極度の興奮状態になる発作を起こし破壊衝動のままに暴力を振るうようになる。また、肉体や感覚器が丈夫になり、感度や神経伝達速度が異常に発達する症状も報告されている。さらには、狼に姿を変えたという話まで風の噂で流れてくることもあった。
並の人間を超えた力と暴力性、さらに一晩で姿形や人格まで一変する事例から、人々はこの病を伝承上の人狼になぞらえた。
発症理由は解明されておらず、起源も複数の説が入り乱れて結論は出ていない。当然、治療法も確立の目処は立たず、精神安定を目的とした鎮静剤の使用やカウンセリングによる対処療法が主な治療法となっていた。
そして、
ケイはそんな不安定な社会において、ダブルの唯一の特効薬である鎮静剤の製薬に携わる企業の幹部の子どもだった。
そんな比較的安全で裕福な暮らしを享受しているケイが、どういうつもりか人狼化症候群の男を研究室に連れ込んだらしいという噂は瞬く間に企業内に広まった。
研究棟のとある一室で、ソファに身を沈めながらナライはため息をついた。
「まさか、本当にお嬢様だったとは。よくオレをここまで連れてこれたもんだぜ」
「みんな、私のことは放任してくれてるから。自由にやれて気楽だよ」
「それはいい。オレが今ここでお前を殺そうが何をしようが、誰もお前を助けにこないわけだ」
「そうだね」
ケイは棚の引き出しを開けては中身を確認し、何かを探して引っかき回している。無防備な背中はまるで警戒の色がなく、ナライの視線に気づいているはずなのに振り向く気配もない。とんだ肝のすわりようだな、とナライが鼻で笑っていると、ケイはようやく目当てのものを見つけたのか引き出しの中から手を引き上げた。
ジャラリ、と鎖が鳴る音にナライの口角が上がる。
「いい物を持っているな。ペットでも飼っていたのか?」
「ただのおもちゃだよ」
「確かに。簡単に引きちぎれそうな安物だ」
ケイは机に鎖付きの首輪を置くと、机を挟んでソファの向かいの床に腰を下ろす。
「お前はずいぶん賢いようだな」
「ありがとう。お兄さんには投薬後の経過観察を受けてもらう。時々質問するから、それに答えてくれたらいいよ」
「いいだろう」
ナライはソファに身を沈め、足を組みながら答える。ケイが床に座っていることもあって、まるで薄汚れた人狼がこの部屋の主であるかのようだった。そのことに気を悪くした様子もなく、ケイは泥と血で汚れるソファを気にもとめなかった。それ以外は些事だというように、診察結果を記録するメモ帳を取り出す。
「鎮静剤投与から1時間が経ったけど、不調はある?」
「ない」
「気になるところは?」
「ない」
「そっか。何かあったらすぐに言って」
ケイは腕につけた端末を操作してから、卓上のペン立てに手を伸ばす。
ナライは自分とケイしかいない広い部屋の空気を細く吸い込んだ。薬品と、血の匂いが部屋の奥から漂っている。目だけを動かし、匂いの元を辿る。部屋の奥には実験室らしきスペースが広がり、何も入っていない試験管とビーカーが並んでいた。その隣には無数の紙の束が積み重なっているが、強化された人狼の目でも内容を読み取ることは難しい。
ナライは鼻を鳴らしながら匂いを嗅ぎ、不意に動きを止めた。
部屋の外、入り口のすぐ脇に控えている警備員の気配がにわかに動き出す。それに連動するように、複数の足音が忙しなく移動を始めた。耳をそばだてずとも聞こえてくる騒動の気配を心地よく感じながら、ナライは自分を連行した箱入り娘を見下ろした。
ドアの外で怒鳴り声が響く。
ケイにも聞こえているはずだが、顔を上げるそぶりすら見せない。ショーが観劇できないなら、とナライは熱心に動くペンの先に興味を移した。床に座ったまま医者の真似事をしている様子を観察しながら、問診票と題された紙に何が書かれているのかを目で追う。
発作時の症状や、問診結果が簡潔に記されているらしい。記録を追い続け、不意にナライは歯を剥いて笑った。
と、と短く切られた爪が紙面を叩く。
「嘘はよくないんじゃないか?お嬢さん」
コツコツと爪を立てて音を鳴らす。ようやく
、ケイはナライを見た。獰猛な笑みを見上げても崩れない涼やかさが、部屋の外の騒動を他人事に遠ざけている。
「記録は正確じゃないと意味がないんじゃないか?特に、患者の症状については」
「……頭痛はする?」
「しない」
「倦怠感や熱が体にこもる感覚はある?」
「ない」
「目眩や吐き気は?」
「ないな」
「体の痒みは?感覚が鋭くなったり、鈍くなったと感じる?」
「それもない。他には?」
「お兄さんに聞いても無駄なことだけわかったよ。正確な情報をくれないなら、問診の意味はない」
「医者の言うことか?もっと患者に寄り添ってくれてもいいんだぜ」
沈黙が落ちる。
ケイの目が下にずれ、頭が傾く。ナライは足を組み、膝の上に肘をついて顎を手のひらに乗せた。こんなことは面白みにかけるが、ナライの言葉を真に受けて全知のような顔が曇る様は退屈凌ぎにはちょうどいい。俯いていた顔がゆっくり持ち上がる。呆れたような色を乗せて、ケイはナライを見上げた。
「……何が欲しいの」
「じゃあ、清潔な着替えと寝床、安全な食事をもらおうか」
「シャワーは奥にある。タオルと着替えは、置いてあるものを使って」
「オレの体格に合うものがあるといいな」
部屋の外で爆竹が破裂するような乾いた音がした。
ケイはドアの方へ目を向け、訝しむように眉をひそめた。警備員がいながら、外の騒ぎは一向に静まる気配を見せない。それどころか、先ほどよりも怒鳴り声や悲鳴が大きくなっている。先ほど聞こえた破裂音は、銃声に似ていた。
ナライは喉を鳴らし、口角を上げたまま立ち上がる。身綺麗になった後、一体どんな展開が待っているのか期待しながら、研究スペースの奥に足を向けた。ナライの目がチラリと机上の資料の上を滑り、明後日の方へ逸れた。
軽い音を立ててシャワールームのドアが閉まる。鍵をかけた音はしなかった。
ケイは問診票をスキャンし、手首の端末にデータを保存する。見慣れた自分の書き文字を見下ろし、先ほどまでのナライとのやりとりを脳内で反復した。意地の悪さを自覚している顔をして、嘘はよくないと曲がった唇で笑う。大人しくついてきたからには協力的であることを期待していたが、やはり法を犯すことを生業にしている者が初対面の小娘相手に誠実であるはずもない。暴力的な時間が流れなかっただけでも奇跡的なことだったと割り切る他ないだろう。
ドアの外で、獣の唸り声がした。
ケイは時計を見て時刻を確認し、目を閉じた。時計の長針があといくつか時間を刻めば、ナライがシャワールームから出てくるだろう。そうすれば騒ぎは静かになるはずだ。
ケイには予感があった。
天井に設置された照明が無機質に光る。ゆらぎのない明かりを見上げ、ケイは重いため息とともに腰をあげた。ファイルケースに問診票を入れ、研究スペースで積み重なっている紙の束から手元に保持したい資料と記録だけを抜き取っていく。記憶と、時に勘を頼りにより分け、両手で抱えるほどの束をケースに詰め込む。全ての書類はスキャンデータとして端末に入っているが、今後の状況次第では端末を常に使えるとは限らない。締まり切らず浮いてしまう蓋をゴムバンドで強引に閉じ、カバンに押し込む。入り切らずにはみ出すのはこの際気にしないことにした。最後に、机の上に放置されていた首輪を詰め込んだところで、後ろから低い声がした。
「夜逃げするなら用心棒を斡旋してやろうか?」
「持ち場を離れて騒ぎを起こすような警備員は信用できないから遠慮する」
「ほう。じゃあ独りで出ていくのか。勇敢だな」
ケイが振り向くと、赤銅色の目が笑っている。シャワーを浴びていたはずだが、その髪は湿り気ひとつ残っていない。体の汚れは落としているようだが、わずかに鉄臭さが残っていた。ナライは膨れたカバンにチラリと視線を向け、片眉だけ器用に持ち上げた。
「突発的な計画は持続しない。命が惜しいならそんなものじゃなく、生きるための糧と手段を詰め込むんだな」
「親切だね」
「お前は仮にも恩人だ。目の前で無謀を働こうとするなら、忠告くらいはしてやる」
「あてはあるよ。それくらいはちゃんと用意してる」
「その紙の束を売る約束でか?それの中身がどんな物であれ、お前の状況は好転しないだろうな。むしろより劣悪な環境で飼い殺しにされる。断言してもいいぜ」
「そんなこと、ない」
ケイの言葉とは裏腹に、表情はどこか諦念を含んている。大切なものを抱えるようにカバンを掴んでいるのに、その目はナライから逸れて俯いていた。部屋を飛び出すような勢いはどこにもない。
「そうは思っていなさそうだがな。まあいい。オレが知る限りじゃ、この企業と競合していてかつお前に売り込みを唆すところは幾つかある。例えば」
そう言ってナライが指折り連ねていった企業名に、ケイは苦笑をもらす。
「お兄さん、物知りなんだね」
「このくらい、調べるのは簡単だ。そして残念ながら、どこに行こうとお前をまともに扱う所はないだろう。風邪の特効薬ならともかく、ダブルの完全治療となると話は変わる」
ケイの顔に、初めて驚愕と焦りの感情が浮かんだ。丸々と大きく開いた目を愉快げに見つめながら、ナライはくつくつと喉を鳴らす。
「大層な夢を持つのはいいが、実現するには敵が多すぎるなあ?」
「風邪の特効薬を作ろうと思ったこともあったよ」
ケイは張り詰めた糸が切れたように、力なく笑って見せた。会話が途切れ、部屋の中から音が消える。そこでようやく、ケイは外の騒ぎが消えていることに気づいた。顔に疲弊の色が濃く浮かび上がり、抱えていたカバンを床に取り落とす。すべて終わったと言わんばかりに深い息を吐いて目を閉じる。その瞬間、なぜかケイの目が勢いよく開き、希望を見つけたような光に揺れた。
「得たいものがあるなら、最後まで諦めず足掻くことだ。あらゆる手段を模索し、あらゆる選択肢を選びとる。お前はそれをよくわかっているらしい」
ナライはケイの眼前に3本の指を立てる。
「お嬢さん、よく聞け。お前には3つの選択肢がある。1つは自暴自棄になってここから飛び出して野垂れ死ぬ。もう1つはすべてを承知で計画通り競合に情報を売り込む。そして最後の1つは、すべてを諦めてここに残る。選ぶのはお前だ」
期待に満ちて輝く赤銅色の目を見上げ、ケイは人差し指をナライに突き出した。
「あなたを選ぶ」
「いいだろう。高くつくが、覚悟はあるな?」
「なんだってしてみせるよ」
「その言葉、偽りでないことを願おう」
ケイの眼前に掲げられていた指が音を立てる。その合図と同時に、閉ざされたままだった部屋のドアが音もなく開いた。その向こうに立っているのは、部屋の入り口を監視し閉ざしていたはずの警備員だった。
「やっぱりお兄さんの仲間だったんだね」
「よく気づいたな」
「ただの勘だよ」
警備員はナライに向かって恭しく頭を下げると、彼がここに来るまでに取り上げられていた私物を差し出してくる。ありふれたものから物騒な代物まで、慣れた様子で身につけていく様をぼうっと眺める。ケイはなぜだか、夢の中にいるような心地に襲われていた。
「行くぞ。こんなところに長居は無用だ」
息をするより早く事態が進んでいく。ナライの背中を追いかけながら、ケイは乱戦の爪痕が残る人気のない廊下を見回す。この騒動の中を無傷で脱出することは不可能だっただろう。痕跡だけでも、騒ぎに紛れて逃げ出すことは現実的では無いことが明確だった。
不自然なほど人に会わないまま、裏口から外へ出る。誰かが追ってくる気配もなく、ナライと警備員の足取りもゆったりとしていた。それから少し歩いて、止まっていた車に乗り込む。警備員はそこで別行動となった。
「どこに行くの」
「オレの拠点だ。いくつかあるが、ひとまずお前を置いておけるのは1箇所しかなくてな」
「何をすればあなたと交渉できる」
「まずは、可愛くおねだりでもしてみるか?」
「お願いします」
「下手くそ」
心底愉快だと笑うナライの横で、ケイは車窓の外へ顔を向ける。過ぎ去るビル群は背後に遠ざかり、街の明かりが点滅している。視線を車内に戻すと、暗闇に飲み込まれるような錯覚を覚えた。
「まずはお願いの仕方から教えてやろうか」
ナライの楽しげな問いは聞こえないふりをして、ケイは再度窓の外へ顔を向ける。
2人を乗せた車は、街の中へ消えていった。
ケイの選択 ウタテ ツムリ @utatetyan
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます