この感情に名前はいらない

黒須 夜雨子

第1話

初めてその文章に目を通したとき、柔らかにして硬質だという、矛盾を帯びた透明さを感じた。

無駄を省きながらも、文を飾りたてる柔らかな言葉達。

時々挟まれるのは、冬に吹く乾燥した風を思わせる鋭い表現。

色々と感想としての言葉は浮かんだが、どれも過大にして過小な気がした。

私の中である貧困なボキャブラリーでは何も当て嵌められなかっただけかもしれない。

巧みに選んだ言葉を縦に横にと織り込んだ物語はこじつけを積み重ねたハッピーエンドなどではなく、行間を稼ぐ改行や記号による感情表現、ご都合主義の甘い物語が並列する中で古式ゆかしいくせに目新しくもあった。

小説投稿サイトで幾多もの作品の中でのとびっきり。

書き上げたばかりといった勢いを感じないことや誤字がないことから何度も推考したのだと察したし、言葉の選び方は美しくはあるも新しくない。

もしかしたら年は私と変わらないのかもしれない。

これは暫く楽しめそうだと一人ほくそ笑む。

感想は後でまとめて書き込もう。

そう決めて、長い夜になりそうだと物語へ足を踏み入れた。


「──といったことを思い出しましてね。」

スープカレーをおかわりするために立ち上がるだけで、猫達に威嚇される哀れな人物へと視線を送る。

猫達は頻繁に訪れるようになった客を快く思わないでいる。

自分を人間だと思っていそうな猫達は目の前で立ち上がった彼が大変気にくわないらしい。

台所へと向かう後ろ姿を散々威嚇した後、ようやく気が済んだらしい一匹は私の膝の上に収まり直すと手にじゃれつき始めた。

「そう。」

素っ気無く答えた人物は気にした様子もなく追加分の白米をレンジで温める。

賛辞に慣れていないのか、それとも褒められることが好きではないのか。

どちらなのかはわからない。

ただ、こうやって思い出したように彼の綴る短い物語への感想を口にするだけだ。


「ずっと同じレンジを使っているけど、そろそろ買い替えたら?」

「まだ使えるし嫌。」

もともとオーブンとしては最初から役に立たない安物だったし、レンジとしてはまだ使えるのだから現役として頑張ってもらいたい。

それにしても近所に引っ越してきたせいで遊びに来るようになったのは構わないのだが、こちらは一人暮らしのつもりで2DKに住んでいる。

いつまたいなくなるかわからない相手のリクエストを聞く気はない。

そう考えながら正面に座った相手をまじまじと見る。

さして高くはない身長と細身の体は、狭い一人暮らしの住居内であまり場を取らないのが救いだ。

ふとスープカレーに向けられていた目線がこちらへ移る。

いつになくご機嫌なご様子で薄っすらと笑みまで作っているのが珍しい。

常日頃から無表情を崩さないのに、余程気に入ったのだろう。

「このスープカレーはすごく好きな味。」

「よかったね。でもそれ、スパイスは北海道にあるカフェのもので通販もしていないから、同じ味とはもう出会えないと思う。」

途端に笑顔が消えたが、それを無視して手にしたスプーンを口へと運ぶ。


「次どこかに行くのなら、北海道にしたら?

カフェの名前は後で送ってあげるから」

また何も言わずに離れるのならば、いっそ届かないぐらいに遠くへ行ってほしい。

そうすれば私も思い出すことをしないから。

けれど無表情へと戻った顔が私をじっと見つめる。

物語を生み出す時、それを語る時は実に流暢なのに、日常の彼はどこまでも言葉が少ない。


「さっき、新しい短編を投稿した」

唐突な言葉に、昼食前までスマホから手を離さなかったことを思い出した。

その間にもスプーンが皿の底をかすめる音が、静かな部屋から消えていく。

余程気に入ったのだろう、スープカレーはもうほとんど残っていない。

彼は最後の一口を食べ終え、水を飲む。

私はスマホを手に取ると小説投稿サイトを開き、彼のペンネームを検索する。

彼が一度姿を消してから、彼のアカウントのフォローを外したままなのだ。

こうやって名前を間違えることなく入力できるのだから、全く意味の無い行為だというのにもはや意地でしかない。

予測変換ですぐに名前が出てきて、すいすいと操作すれば新しいタイトルがそこにあった。

けれどタイトルへと指を滑らせることはせず、そっと画面を伏せる。

「読むの、後にする」

彼が私を見てくるから、つい目を逸らした。

「今読んだら、感想をうまく言えないから」

彼は「ふうん」とだけ言う。


私は覚えている。

あの日もこうやって投稿したことを告げ、姿を消したのを。

女性だと思っていたから感想を送り続けて親しくなり、初めて会ったときに驚いたのも懐かしい思い出になっている。

それから交流を続けて、ずっと続くのだと思った矢先の出来事だった。

どうしていなくなったのか理由がわからなかった。

連絡先は知っていたが、何を言えばいいのかもわからなかった。

私のアドレスを消去したかもしれないという怖さから何もしなかった。

私達の関係がなんだったのかわからなくなる中で、ただ時折投稿される小説を眺めていた日々。

カサブタになった気持ちを剥がして捨てようと思った頃に、何食わぬ顔で帰ってきた人。

きっとこれを読めば、またいなくなってしまうのだ。


――この距離は、ずっと変わらない。


この関係が彼の心地よさであり、物語を作る糧となり、私はそれを追い続けるだけ。

あの美しい物語は彼の薄い感情の起伏が作るのだとしたら、何かに執着して筆を折ることを、読者の一人として許せるのだろうか。

わからない。

「ごちそうさま」

私は「うん」とだけ返しながら、伏せたスマホをもう一度手に取った。

画面を開けば、彼の描く物語がそこにある。

ページをめくるように指を滑らせながら、私は思う。


彼が本当に戻らないと確信したとき。

私がもう彼のことを考えるのを止めようと決めたとき。


二人の関係が終わりを迎えるのは、きっと私が決めるとき。

まだもう少し時間が必要であるけれど。

「私も小説を書いてみようかな」

呟きを耳にした彼は「いいんじゃない」とだけ言って、帰る支度を始める。

私はそれを受け入れるだけ。


いつかこの関係にさよならを告げる日を待ちわびて。

だから、2人の間にあるものが不確かで頼りないものだとしても、この感情に名前はいらない。

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この感情に名前はいらない 黒須 夜雨子 @y_kurosu

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