第10話(上) 収まりが悪い心

「おはようございます」

「おはよう」


 今は何時だろうか、かなり寝た感覚がある。帰ってからのことをほとんど覚えていない。何も考えていなかったのかもしれないが、私には分からない。

 昨日と変わらず、素晴らしい日和なのが部屋の明るさから知れた。もう慣れたことだが、目を失った次の朝は視界に違和感がある。視界が歪むとか、色覚異常があるとかではなく、ただ見えていることへの安心の裏返しのようなものだ。

 彼女は私の上に居た。困惑。起きてすぐ顔を覗き込まれる体験はこれが初めてだった。目の前の彼女より先に部屋の明るさに目が行ったのに気づいて自分でも驚く。これが駄目なんだ。


「なんでそんな格好してんの?」

「いいでしょう、メイドって感じがして」

「可笑しいよ……」


 コスプレか本物かの判別はつかないが、アニメなどのサブカルチャーでよく見られる「メイド服」を着ていた。おかしいことに変わりはなかったが、確かに似合ってもいる。色調は白黒であって、彼女自体の持つ色とこの上なく適合しているほか、意匠の凝らされたフリルが色調と彼女由来の硬質な印象を和らげている。


「ねえ起きていいかな」

「駄目ですね」


 構わずに起きようとすると、両腕が掴まれた。下半身は彼女に乗られている。私を気遣っているからか腰は浮いているものの、ほとんど身動きがとれない。


「体勢きつくない? 下ろしてもいいよ」

「では」


 腹に彼女が座って、チェックメイトだ。今の言葉が事実上の投了であった。髪がちらちら顔をなぞるのが大変くすぐったいので止めてほしいが、特別言うべきことでもないと思われるのでそのままで居よう。


「起きていいかな」

「ご主人、次言ったら舐めまわします」

「犬かよ……何? 止まって。近い」


 じりじりと天井が低くなる。彼女が何を意図しているか全く分からない。それはいつものことだ、しかしそもそもこの状況で私にできることはないに等しく……目が合った。睫毛は朝露が降りたように光を拾っており、黒髪も同様である。水面に光が当たり、反射光がゆらゆらと壁面に映るのを見たことがあった。それに似ている。

 満足げな表情をほんの少し見せた後、逃げようとする。彼女を逃してはならなかった。直感かそれに準ずるものを信じることに決め、すぐに腕の支配権を奪回して思い切り彼女の手を捕らえる。


「自分勝手すぎると思わないか」

「ご主人に言われても……」

「自分勝手な主人とそうじゃない主人なら、一体どちらのほうが好みかな」

「どちらでも」


 普段通りのニュートラルな顔を向けながら、私の目をじっと見つめている。ぱたん、突拍子もなく倒れる。腕が顔に圧されるが、大して重くはない。一呼吸置き、体を転がして定位置に移動する。

 掌の上にある耳の所為だろうか、その触感がどうも私を落ち着かなくさせた。その妙な柔らかさ、異質さが煩わしくもまたどこか愛らしくもあった。指をその輪郭に沿って蠢かせたいと思うが、そのような礼儀を欠いたことはしたくない。


「昨日の再現をしませんか」

「嫌だ。理由は?」

「個人的にそうしたいからです」


 こういった、彼女自身の望みをより主張するようになっている傾向については全く喜ばしいことこの上ないが、それが私のものと相反した場合、少しばかり面倒な――つまり拒否するということを考えることになる。私の拒む程度が小さいなら許容したが、これに対しては拒絶、それ以外はなかった。彼女の顔が見える状態でのあの会話は、私を蹂躙する。そう確信している。


「悪いけど、するなら一人でしてくれ」

「なら結構です。ご食事は?」

「頂こう」

「お待ちを」


 違和感があった。いや、違和感というよりはむしろ、むず痒さと表すべきか、彼女の振る舞い方がどうも格式張っているように思える。「メイド」らしいとは思うが、彼女らしくはない。彼女を知って幾ばくも無い私が彼女らしさをどの口で語るのか自分でも分かっていないが、どこか尋常でないふうに感じられるのだ。

 自らを取り繕ってみるのは簡単だ。歩き方にしろ、話し方にしろ、自己の範疇から片足だけ出せば、すぐに異なった人物像が浮かび上がる。だがその人物像を作り上げるのには時間がかかる。いくら簡単なことであっても、精神に疲れが蓄積する。そういうものだ。

 また、無意識のうちにそう振る舞うとなると大変だ……彼女が心配だ。

 ああ、自分が嫌になってくる。心配なんて言っていても、本当に彼女のことを気に掛けたことがあっただろうか。幻影のような、私の思考上の彼女に対して心配しても、現実存在としての彼女にはたして何をしてあげたことがあっただろうか。現に今も、お前は彼女の背中をぼうっと眺めているだけだ。

 何もできないまま、机に皿が並んだ。


「いただきます」

「いただきます」


 まだ食べ始めない。彼女の姿を眺めて、忘れないように覚えておく必要があった。

 一つ誤算、というよりも見過ごしていたことがある。彼女は儀礼的なことを重視する人だ。私が食べ始めるまで彼女も待ち続ける。目が合うまでしばらくのあいだ、ずっと。

 この従者は進言しない。どうなったか、考えるまでもないだろう。「何か?」と、音声を伴わない言葉で私に訴えかけているのに気付くまで、驚くべき時間が過ぎた。


「ああいや、ほら、昨日の言葉がちょっと忘れられなくてね。自分でもびっくりしているんだ。まさか君の顔を覚えていないなんて思いもしなかったから、しばらく観察させてもらうよ。でも君は必要ないだろ?」

「必要のあるなしは人を見る理由に成り得ないですよ。それと、あのときそう言ったのは、別に私の顔を覚える必要があるなんて言いたかったわけじゃないですから」


 視線が交差する。白色の糸が二点上にピンと張られている。ぼんやりとした――埃っぽい光(彼女の働きにより部屋は清潔に保たれており、これはあくまでも比喩表現に留まることを留意するように)とでも言おうか――が部屋を満たしている中、その糸だけが燦燦と輝いている。それは私の目でも、彼女のそれでも見ることは叶わない。だがそこにピンと張られている。そう、まるで夢を見ているような――彼女があって、自分があって、それを見ている自分がある――確かに私がこの眼で見ているのだ。その二点上を結ぶ、七色に光を発散する糸を。

 それ自体に意味はない。何も意味を持ち得ないのに、綺麗だからって目を向けて時間を浪費している馬鹿者がいる。私のことだ。


「ご主人、やっぱり休みましょう」

「いいんだ、ちょっとした気の迷いだから」


 彼女の気遣いに甚だ申し訳ない。しかもその原因が自分の弱さでしかないのだから、どうしようもなく逃げ場がない。私のすべきことは、これ以上迷惑を掛けないために、一刻も早く立ち去ることである。

 硬直した肢体に鞭を打って食器を口に運ぶ。往復、運搬。料理に欠点は何一つない。美味しい。少しだけ、彼女の顔を見たが、一秒にも満たないうちに目を逸らした。何か罪を犯しているかのような気持ちになるのだ。これは私が人の顔をまじまじと見るのに慣れていないからか、見てはいけないものと誤った認識をしてしまっているのだろう。

 人の顔を見るのは悪いことだと教わるなどして、意識して見ないようにしていたのではない。自然に見なくなっていったのだと思う。だからこそ、自分に腹が立つ。こんな認識の異常に振り回されている自分に納得したくない。

 結局、味とか、彼女に伝えたかったところを伝えるに至らなかった。

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ラブコメ(ラブ抜き)【エタった、2026春~改稿予定】 真鈴満鶴 @mujintoshokan

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