春の匂い

栗パン

Aroma of Spring

 春の訪れは、柔らかな光と共にやってきた。

 冬の名残を抱えた風が、暖かな日差しの中で少しずつ和らぎ、

 世界がふわりと解けるように目覚める。

 土の香り、遠くから漂う花の匂い、微かな草いきれ。

 どれも彼と出会うたびに、心の奥へと沁み込んでいった。


 図書館の窓際の席。陽だまりの中に彼がいた。


 白いシャツの袖をまくり、指先でページをめくる仕草が静かだった。

 風が吹くたびに揺れる髪、首筋に滴る細やかな汗。

 彼の周りの空気だけが、春の匂いに包まれているように思えた。

 ふとした仕草すら、この季節の美しさと重なり合って、

 胸の奥がじんわりと熱を帯びる。


 それは偶然の積み重ねだった。


 図書館の扉を開けたとき、すれ違いざまにふわりと香るシャンプーの匂い。

 坂道の途中で偶然見かけた彼の背中。公園のベンチで猫を抱く優しい横顔。

 すべてが小さな奇跡のようで、ただ彼がそこにいるだけで、

 世界が少し輝いて見えた。


 彼は猫が好きだった。


 図書館の裏庭に迷い込んだ子猫を抱き上げ、

 陽だまりの中で静かに微笑む姿を見たとき、

 心がふわりと浮いた。

 彼の指先が猫の耳をそっと撫でるたびに、

 風がそよぎ、花の香りが混ざり合った。


 その瞬間の全てが、私の記憶の中に焼き付いた。


 けれど、ある日、違う風が吹いた。


 彼の視線の先に、誰かがいた。


 明るく笑う声。春の光に揺れる長い髪。

 名前も知らない彼女に向けられる、彼の柔らかな表情。

 目の奥がじんと熱くなった。


 彼の周りを満たしていた春の匂いが、少し遠くなった気がした。


 それから私は、少しずつ距離を取った。


 目が合わないように、偶然を装って遠ざかる。

 話しかけられても、短く答えてすぐに去る。

 彼の香りを、彼の姿を、胸の奥にしまい込むように。


 それなのに、春の風が吹くたびに、思い出してしまう。

 それでよかった。

 彼が幸せなら、それでよかった。


 そう思っていたはずなのに、ある日彼が私を呼び止めた。


「話したいことがあるんだ。」

 彼の言葉に、息が詰まる。

「ずっと言えなかったけど、俺が好きな人は……君なんだ。」


 春の風がそっと吹き抜ける。


 世界がゆっくりと色を変える。


 彼の香りに満ちた、この春の匂いの中で——


 私の好きな人の好きな人は、私だった。


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春の匂い 栗パン @kuripumpkin

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