聖のいちばんすきなひと

鳴神ハルコ

切っ掛けなんて、他人からすれば些細なものだった。

9人が首を横に振るその評価で、たった1人が頷く。

自分でさえ胸を張って差し出せないそれをそのたった1人が認めてくれた、とか。

その時柔らかく笑ってくれた、とか。

その程度。…他人からすれば。


“先生”をすきになった。


それは恋情だったのか尊敬だったのか憧れだったのか、分類分けされるまで育ちもしなかった。

いや。

柔らかく笑ってくれた先生の左手薬指に光る物を見つけて既に永遠を誓い合った人がいることも、口下手な自分がどんなに面白い話ができるようになったとしても見ることの叶わない笑顔で話せる子どもがいることも 知っていて。わかっていて。叶う、叶わない、叶えられない関係なく、ただすきだった。


だから、せめてと、はなむけにと欲しかった『卒業おめでとう』の言葉も掛けて貰えなくても、

二度と会わなくても、ずっと“先生”を想って生きていくものだと信じた。


それから十一年もの月日が流れ、目の前に、先生の面影を魅せる“娘”が現れた時も。

勝手に結ばれた縁談の最中だというのに柔らかく、笑いかけられた時も。

先生がもうこの世には居ないことを告げられた時も。揺らがなかった筈だ。


もうこの世には居ない。


そうか。

もう、二度と会わない、じゃない。会えなくなったのか。


それなのに、僕の望みを簡単に叶えていった娘を、目の前に置いていくのか。


——先生。


やっぱり貴女は、酷いひとだ。


頭を下げて断るも聞き入れては貰えず文字通り結ばれることとなった先生の娘は、始めから自分の母の面影を見る僕の眸を見上げて微笑っていただろうか。

微笑み返すことも、触れることも、愛を囁くこともない男のために

早く帰ったり、慣れない家事を学んだり練習したり、栄養を考えて一人で買い物に行ったり。

作ったご飯を「外で食べてきたから要らない」と言われた時も笑顔で、切った指を後ろ手に隠して「作る前だった」と優しい嘘を吐いたのか。

そういう、彼女にとっても無駄な時間が積み重なってやっと気が付いた時、彼女は云った。

僕に対して酷いとか、こうしてほしいとか、もう辞めたいとかではなく、


私が、私を見て母を想い出す貴方を愛すると決めたから。

ごめんなさい。貴方の前に現れたのが、貴方が最も愛した母でなくて。

私を見て辛そうな貴方を見ても、自ら別れを切り出せるほど強くもなくて。


それから、「どうしても貴方の“先生”最愛の母を越えられなかった」と。


消されてしまいそうな、破れてしまいそうな、『卒業おめでとう』と書かれたメモを渡された。

彼女に出逢っていなければ・・・・・・・・・溢れ出たであろう涙は、零れなかった。



伏せた瞼も笑った時に浮かぶ笑窪も、どれだけ隠しても忘れられないことを実感させて多くを後悔させた。でも、限りがあった。僕に遺る“先生”はあまりに少ないあの春だけだったから。


僕も見た、切なそうな表情かお

困った表情

寝顔

照れた表情

泣き顔

想いを、伝えてくれた時の表情


ここに先生を思い出すことはなかった。どれほど似ていても——

…違う。きっと始めから、思い込んでいたほど彼女と“先生”は似ていなかった。

いつの間にか“先生”は離れて、目の前には真新しく映る彼女がいて。


どうして自分だけが今も“先生”を探しているなどと思えただろう。

いちばん近くに、恐らくいちばん先生に会いたい彼女がいたにも関わらず。


嫌悪を向けられても納得の自分に、これ以上ない思い遣りの心をくれた


その彼女が「好き」だとまた泣き顔を見せるから。

気付いたら抱き寄せていた。


「ごめん」繰り返し謝る僕に首を横に振る彼女は知った気になっていたより遥かに華奢で、今にも折れてしまいそうだと怖くなった。


居なくなってしまったら怖いと思うのは、愛しい、ということだろうか。



きっと出逢ってから今まででいちばん、情けなく問うた僕を涙の引いた丸い瞳で見上げた彼女は


「そうかもしれません。」


ただそう、彼女を見つめる僕が映った瞳を優しく細めた。








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