第7話

 その日、俺はまた知らぬ街の知らぬ駅前に、立っていた。知らぬと言っても、今度は本当に知らぬ街。彼女がいると聞いたあの街。この街の、店に、彼女は、いる。それを考えた、だけで、涙がまた出てくる。それを誤魔化すためにロータリーの隅の喫煙所へ入って行き、一本に火を着ける。煙が上って行く。それをしばらく眺めて、いや、眺めながら、街と、人を、視界に収める。そのうちに視界を埋めるだけだった街並みと、人に、俺の注意は移る。あの駅前とは全く異なる、人の多さと街の繁栄に。

 喫煙所を出て、道の隅で人なみを眺める。眺めながら、俺は彼女へ伝えるべき愛と鼻水のことを考えていたのだが、だがな。俺の前を、横を、後ろを、何も知らぬ奴らは何も知らぬ顔で通り過ぎていく。俺の周囲を、奴らは無感動無関心に見える顔でもって通り過ぎていく。奴ら、俺の知らぬ人々という、奴ら、は。

 俺が奴らを知らぬのはいい。だが奴らはやはり、どこへ行っても愛さえ知らぬかのような無感動無関心な顔でもって歩いて、いく。

 奴らは一体なんなのだ。愛なぞ知らぬのか。想いなぞないのか。もしあれば、あるならば、あんなふうに平然と歩いて行きはせぬだろう。いや、せぬというよりできぬはずだ。愛と鼻水のことなぞ、奴らは考えていないのか。まあ鼻水のことはいい。だが、愛について、考えぬはずはないのではないか。恋愛でなくてもいい。愛、この根源的な概念について、考えぬ奴なぞいないはずだ。感じない奴なぞいないはずだ。そうだろう。

 いやまて、だが、奴らには選択と責任がある。それはわかっている。だが。だがな。だが何故そこまで平然とした顔ができるのだ。二十四時間三百六十五日行住坐臥、愛を考えなくとも、無意識には感じているはずだ。ならばなぜ。

 奴らはなぜ、お前らはなぜ、そう平気な顔で生きているのだ。生きて行けるのだ。俺の眼は涙で水中で目を開けたようにしか見えなくなるが、一瞬、ほんの、一瞬、知らぬ奴らのうちの一人と目が合う。いや、合ったような気がするが、また一瞬のうちに奴は奴らの中に紛れて行った。

 その目が合った一瞬に何があった訳でもない。その目が何を訴えていた訳でもない。現象的にはただ、たまたま目が合っただけなのだろう。俺もその視線から何かを受け取った訳でもない。

 ないのだが、お前は俺を見ていた。見ていた訳ではないやもしれぬが、一瞬でも見たはずだ。お前ら、本当にお前らは、愛について、考えているのか。感じているのか。お前らは! 俺という存在はその問いそのものと化しており、お前はそれを見ていた。いや、もしくは見た。

 そう考えると、奴らもお前もお前らも、決定的に俺という問いを見ずとも、視界の端に掠めている。いや、見なくとももうよかった。

 お前らは愛を考えぬのか。お前らは。愛を考えてお前らは平気な顔をどうしてできる。奴らお前お前らは。だがそれは一人で苦しんでいい気になっている俺への、お前らからの問いだったのやもしれぬ。

 だが。だがそれでもお前は、お前らは。

 いや、そもそも俺は!


俺は汗と涙と鼻水垂らしたまま、俺とお前らへの問いを捨てられぬまま、得るものもなく、だが同時に何かを感じ、たようなそうでもないような気分でもって、駅への道を引き返す。鼻水のことものこと愛も、彼女へ囁く気力を失った俺は。

 何か決定的なものを失ったような気分でもって、俺は自宅なる場所へまた戻り、あらかじめ作っておいた火炎瓶を手に、踏切へ向かう。俺を爆破することは、もうできないだろう、と、感じながら。

 踏切に着き、電車を待つ。最後の最後に、彼女がその電車に乗っていて、一目だけでも、横顔だけでも見れはしねえかと思いながら、しかしなんの期待もせず、待っていた。

 しばらく待つと、電車が滑り込んでくる。俺は全てを爆破したかったのか、それとも何を期待していたのかも、もうわからなくなってくる。呆然としつつ、無になっている。なぜ火炎瓶なんぞを持って出てきたのかもわからぬ。

 全てに対してもうなんの期待もしねえ、が、のだが、それでもそれでもそれでもそれでもそれで、も。

 なぜか、「それでも」と、いう言葉が俺の中にはあって、気が付くと、「お前らは!」と叫んでいたような、気がした。

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街人 里見詩情 @satomi-shijo

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