第6話

 のだが、だが、な。愛の真理と真実なるものを見つけて、見つけた気になった俺は、いい気になっていた俺は、全能感を抱えて眠らずに、いや、眠れずに「愛」について考えていた俺は、それでも俺の中に性欲の断片がこみ上げてくるのを、見つけた。見つけ、ちまった。あの、忌むべき感情を。

 「鼻水舐めたい」こそが、俺の唯一無二の愛で、それこそが、愛の真理と真実であると、思ったのだが、思えた、のだが、な。それでよかったしそれしかいらぬのだが、それとは別に、捨てたはずの、もういらぬはずの、「性欲」なる欲求が、湧いてくる。俺の思考、いや、肉体、いや、存在の端の方から、何の前触れも無く染み出してきて、それは徐々に侵蝕してくる。浸潤してくる。そうして一度意識しちまえば、それはもう俺の無意識領域から意識の領域にまで広がって来る。思考なるものがあるとして、肉体の欲求だったものが、肉体の欲求にすぎなかったものが、思考と意識に侵入してくる。感覚的だったものが、思考と意識にも影響をきたし始める。気付けば思考も意識も、肥大化した性欲を優先し、発散する方法を考え出す。

 やはり自慰なのか。オナニーなのか。俺には、それしかないのか。俺の全て上手く行かなかった人生とやらの上手く行かなさの象徴のように、忌むべき感情が、こみ上げてくる。故に、またしても俺は「お前ら」というものがわからない。「奴ら」という存在がわからない。わからなく、なって、くる。この、俺の中にある、罪みてえな性欲というやつを、「奴ら」は「お前ら」は、持っていない、のか。いや、持っているのやもしれぬ。が、お前らやら奴らの顔を見ていると、それらは実に些末な問題であるかのように、暮らしている。ように、見える、見えて、しまうのだ。

 いや、それは俺の、上手く行かなかった俺の、完全な逆恨みでしかない。お前らへの羨望であるのだろう。だが。だがな。それならば、俺は、教えてほしかった。罪みてえな性欲と愛の差異を。違いとやらを。いや、全く持ってこれらが異なっていることは、わかるのだ。わかるのだが、俺には何がわからぬのかもわからぬのだが、とにかくその根源がわからぬのだ。この、罪を、加害性が、解明できれば、俺も少しは「普通」とやらになれる、ような、気がする。いや、もう「普通」になりたいなんぞとは思わぬが、とにかく、お前らがもし本当に愛やら性やら加害、というものの答えを知っているのならば、俺に教えてくれ。俺は、懇願するような心持ちでもって、「お前ら」という総体の概念に向かって祈る。祈る。祈らざるを得なかった。またしても涙、やら、鼻水が、流れ出す。俺の全ては本当に性欲と水分でもってできているかのように感じられるほどに。

 俺にはわからぬ。「愛」も「性」も「加害」というものも。わからぬこともまた罪のように思える、のだ。いや、わからぬからこそ罪に思える、のだ。


 いや、だが……。俺は、ふと。俺の脳とやらはそこまで行ってからふと、論理とやらを飛躍させる。俺は。俺というものは、俺のこの思考というものは、俺のこの罪とやらについて考える思考というものは……。

 俺は断罪を求めているに過ぎないのではないか。いや、俺は俺の罪とやらに対して俺に都合のいい断罪という罰が下されるのを期待しているのではないか。いや、間違いない。違うとは、絶対に違うとは言えぬ故、間違いない。罰を与えられれば罪は許されると、罪を償えば許される、なんていう、甘ったれた思考によって俺は俺の罪とやらを捉えている。いや、いい気になっている。いや、それは思考ですらない。俺は「思考」なんていう高尚な行為をしてすらいない。いない、のだ。決していない、のだ。

 俺は、ただ、俺の世迷言を「高尚な思考」と思い込んで、「俺は哲学をしている」と思い込んで、いい気になっているだけだ。だけに過ぎぬ。過ぎぬのだ。

が。のだが、しかし、しかし、しかししかししかし……。俺は俺を追い詰めることで「思考」していると勘違いしている勘違い野郎であることは、わかって、いる、のだが。だが、それでも。

 それでも俺には、俺には、この、愛と性について、涙が出る程に、祈らざるを得ない程に、得体の知れぬ強烈な、激烈な、なにかを、感じるの、だ。「なにか」としか言えぬ感情が、ほとばしるのを、感じて、俺そのものが「なにか」にでもなっちまったかのように、感じる。いや、感じる、なんてことも通り越し、俺は「なにか」になっている。なって、いる。俺とは「なにか」だった。

 故に、涙も鼻水も通り越し、俺は、なにかは、汚ねえ声を上げてやがるな、という実感を持ちながらも、号泣の声を抑えられぬ。

 俺とは。なにかとは。もう気の狂った、なにかでしかなくなり、かろうじて意識を保っていた「俺」の意識によって、いざという時のために大量に保管してあった睡眠剤を一気飲みし、全裸でオナニーをし始め、「俺」にも「なにか」にも、意識、認識というものが意識、認識できなくなり……。


 意識を失っていた、俺は、次の日だかその次の日だか、或はさらに次の日だか、感覚を無くし、ながら、意識を取り戻す。終わりかけの夏の気温と湿気のせいで肉体が汗と同化したかもしくはそのものにでもなった感覚を覚え、意識を取り戻す。いや、意識なんぞ取り戻したくはねえ、とまどろみの中で脳が告げているのだが、この危機的な気温を回避せよという肉体の欲求によって、俺は意識を取り戻す。部屋は暗く、壁紙すら見えぬ。照明のスイッチすらどこにあるのかわからぬ。生活とやらに必要なものすら、どこにあるのかわからぬ。が、俺は、俺の性欲だけは、はっきりと、認識できる。

 いや、昨日だかもっと前だかに行ったオナニーにより、今は性欲を認識できぬが、この先、俺はまた性欲を認識し始めるだろう。それは間違いない。間違い、なかった。故に、今しかなかった。性欲ではなく、愛を知るのは。性欲を認識できぬ今しか、この今、しか、愛を認識する時間はなかった。

 俺は、暗闇の中で小さな光を放つ携帯を見つけ出し、昔使っていた連絡先を見つけ出し、片っ端から電話をかける。「彼女」の知り合い、なる奴らに。出ない奴もいる。何度かけても出ない奴もいる。が、俺は何に突き動かされたのか、性懲りもなく出るまで電話をかける。電話を、かけながら、昔もいいところの昔、同窓会なるものに俺がまだ誘われていた頃の記憶がよみがえる。よみがえって、くる。




 卒業二十年の節目なんて名目の同窓会なるものの連絡が来て、暇だから滑り込んだ同窓会とやらに出て、出ちまって、俺は居酒屋の便所で、吐いていた。吐いていた。吐いたものを口の外に出さずに一部を飲み込み、その不快感でまた吐いていた。

 飲み過ぎた、のだが、意図的だった。何のためにそんなものを意図したのかは分からねえが、あの時も意図的に彼女のことを思い出し、意図的に感傷的になって、意図的に飲み過ぎていた。結果、それは自罰だったのかもしれねえが、俺は胃の中の内容物を吐き出し、便器の中にぶちまけていた。この、吐瀉物の、味が、俺にはなんとなく悪くないように思えた。思えてしまっていた。居心地のよさを見出しているだけかもしれないが。ただそれはやはり陶酔であって、求めていたのはそんなものではなかった。

 空想上の化け物で、汚物を食う奴のことを思い出す。糞尿やそれ以外も含めて汚物を食う化け物、自分の脳を食う化け物、自分の子供を食う化け物の話などをされたことがあった。だからこそ、俺は自分の吐瀉物の味くらい、知っておこうと思ったのだ。俺は「愛」とかいう観念の化け物だからな。愛に飢えていた。愛されることに飢えていた。愛することに飢えている。今も、昔も。  

だが愛とはなんだ。愛されるとはなんだ。愛するとは、なんだ。やはり分からない。飢えるとは、するとはされるとは、なんだ。その意味、いや、根本的、いや、根源的意味はなんなのか、分からない。愛とはなんなのか。愛、される、とはなんなのか。愛、する、とはなんなのか。あの時も、分からなかった。分からない。分からない。が、とにかく俺は愛の亡霊に取りつかれていた。分からないからこそ、亡霊に取りつかれて、いる。

 そんな思考を引きずりつつ便所から戻る。吐いたものの味が、まだ、口の中に残っている。が、自虐的な、露悪的な、偽悪的な、俺の偽善の自傷行為には陶酔をもたらすだけでしかなかった。俺はそんなものが欲しいのではなかった。決してなかったのだ。だが本当にそうと言い切れるのかは、分からない。

 しかし、様々なものが分からないからこそ、愛が分からないからこそ、俺には俺を罰しなければ、「愛」とやらは分からないのだと、思えた。思った。全ては俺の責任なのだからな。それなのに、俺は吐瀉物くらいの汚物を食う気力しか無いのだ。糞尿も、脳も食えなかった。まあ脳は物理的に食えない気もする、が、猿脳でも食う気になれば食えそうなものだ。だが俺にはそれもできない。しかも感傷なんていうセンチメンタルを享受しているこのざまよ。

 俺には何もできないのだ。できないのだ。偽悪すら満足に演じられないのだからな。俺が飢えているのは他でもない俺のせいだというのに。

 あの彼女の、初めてできた恋人の夢をたまたま見ちまった。上に、何かを期待して同窓会なんて場所に来ちまって、俺は例の人の隣の席になっちまった。例の人なんて、言えないのに、言いたくないのに、そんな表現で収める気もないのによ。

「昔の」という前提の言葉は付くが、確かに、確かに「恋人」だと、だったのだと、言いたいはずなのだが、はずなのに、なのに、なのに、なのに。俺の意識は例の人なんて言葉で上書きしちまう。それも含めて、さらには別れた原因も含めて全て全て、俺のせいに違いないのだが、俺は違ったかもしれない、別れなかった先の過去、現在、未来の思い出を捏造し、あの日々をまだ引きずっていた。今でさえも、な。

 それも、それすら含めて、俺が全て悪いのだ。だからこそ、因縁だとか因果だとかいう言葉を用いるならば、俺は罪を償わなければならないのだ。ならないのだが、俺が俺のゲロを食って何が変わるわけでもない。はずもない。それは、分かっている。分かっている、はずなのだ。そうして、そんなことをして、思い出すのは、昔の、幸せだった頃の、幸福だった頃の、満ち足りていた頃の記憶。記憶だった。だったのだ。紛れもない思い出のはずなのに、都合のいい過去を捏造した夢との境界が定かではないような気がしてしまう。

 俺の罪、俺の罪、俺の、罪。俺の性欲なんていう加害、俺の加害、俺の、加害性。それを考えるほどに、思い出が幸福だった印象を増して行く。同時に、嘔吐してきたものの味が、ゲロが舌に絡みつく感触が、鮮明になる。なって、俺はそのうち昔のキスの味を思い出した。昔、「キスの味は本当に甘いのだ」ということを知ったが、そんなものは結局唾液の味だし、彼女が飴でも舐めていただけかもしれないし、本当は俺の脳が記憶を美化しているだけだろう。それでもそれでも、それで、も……。と考えた末に、化け物の渇き、渇望はもしかしたら、この感情に近いのかもしれない、と、思えた。

 が、やっぱりそんなものを知った所で、何の足しにもならなかった。ならないのだと、感じられた。

 永遠に夢を見ていたかった。のだろう。

 ワイパックス、リスパダール、マイスリー、エビリファイ、デエビゴ、デパケン、ルネスタ、セディール、メイラックス、レキサルティ。

俺はポケットやら鞄に入っていた向精神薬と睡眠剤をありったけテーブルの上にぶちまけて酒でそれを飲み干す。みんなみんな引いていた。「彼女」がどんな目で俺を見ていたのか、知らねえが知りたくもなかった。「彼女」の方へ視線を向けられなかった。

 朦朧とする意識の中で感じられたのはまぶたを閉じているのに見える、明滅する強い光と薬くさい味だけだった。




 あの時、の、俺が、本当の意味で何故、何のために大量の薬飲んだのかはわからぬ。わからぬが、あの時もまた、愛と性がわからなかったのだろう。俺は。その慟哭とやらが、その悲哀とやらが、今の爆破したいという感情へと続いているならば、やはり俺は俺を爆破するしかなかった。が、そのためには、死ぬとなれば、俺は愛が欲しかった。いや、愛が「ほしい」とは言わぬ。もう言わぬ。いや、言えぬ。しかし、彼女へ、あの彼女へ、愛しているとだけ、鼻水を舐めたいとだけ、伝えたかった。が、故に、俺は片っ端から電話をかける。彼女が今、どこに居るのかを突き止めるために。何人かに電話をかけた末、俺は電話に出た彼女の親友なる奴を、なだめ、すかし、しまいには脅し、またなだめ、また脅し、脅し、脅し、脅迫し、泣き落とし泣き落とし、彼女の居場所を、彼女の店を、聞き出す。

 俺は、終わりが近づいてくるのを感じながら、火炎瓶の材料を検索し、ながら、その時を待っていた。

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