花霞の空へ
深山心春
第1話
「君は幸せだったかい?」
尋ねられて女は思わず息を呑んだ。
男は衰弱し体を動かすこともできない。それでも最後の力を振り絞りその枯れ果てた手を彷徨わせた。
女は怪我をして雪の中でうずくまっている。喘鳴が喉から漏れて己の死期を悟った。
その時、雪を踏みしめる音がした。助けだとは思わなかった。それは常ならば凶兆だから。
「お前、足を怪我しているのか」
やけに澄んだ男の声がした。
ちらりと目をやるとまだ二十になった年頃の涼し気な目元をした青年だった。
「痛いだろう。いま手当てをしてやるから」
抗う力も残っていなくて、男のなすがままに任せる。男は慣れた手つきで怪我を手当てすると水を飲ませてくれた。
その治療で少しだけ息がつけた。
さらに貴重な干肉まで分け与え、一緒に来るか?とまで言ってくれた人の良い男にこれ以上甘えることはできない。きっと自分が死んだら己のせいだと悩むだろうから。女はなんとか立ち上がって男とは反対方向へと歩き出した。
男は逡巡したようだが、結局村の方へと帰って行った。
春が巡ってきた。桜は一斉に芽吹き、辺りを霞むような桜色に染め上げている。
生き延びることが出来た女は、春に相応しく装って男の一人暮らしのぼろ家の戸を叩いた。
「良家のお嬢さんが何かご用ですか?」
男の声は相変わらず澄んで、まるでこの青空のようだと女は思った。
「足を痛めてしまい休ませていただけませんか?」
「こんな荒屋でよければ」
礼を言いながら女は息をついた。
人の良い彼ならば断らないと思ったが酷く緊張していたことに気がついた。
「どうしてお嬢さんはこんなところに?」
「あなたに一目惚れしました」
理由を問われて答えると、男はたいそう驚いた顔をした。
女はそっと白い手を伸ばした。男の胸に触ろうかというところで引っ込めて、恥じらって下を向き言葉を変えた。
「貴方様と添いたいのです」
「は?」
男は一瞬訳の分からないという顔をして、意味を理解すると顔を真っ赤にした。
「僕はだめです。嫁の来てもない貧乏人だ」
「なおさら、私をお嫁にしてください」
真摯な男に、女は今度こそ、思い切って抱きついた。男は華奢な女に抱きつかれて狼狽えた。婚姻を受けるわけには行かないと思っていたのに女の甘い匂いにあたまがくらくらして、気がつくと荒屋の筵に押し倒していた。
夫婦となった二人の生活は穏やかに続いた。朝は一緒に畑仕事をし、昼には一緒に巡る四季を見た。夜は求めあうまま交わった。
その末に女は身ごもった。
天涯孤独だった男はたいそう喜んで喜んで、大粒の涙を流した。
やがて男によく似た息子が生まれ、これは立派な子になるぞ、と男は言ってまた喜びの涙を流した。
しかしこどもが三つになる頃から、男の体に異変が起きた。最初は目眩がする程度だったが、すぐに寝付くようになった。熱もない、ただ、毎日衰弱していく。
そしてほんの少し体調が持ち直して、男に求められるままほんの少し口づけを交わした晩のこと。
男の容体が急変した。命を失いかけたあの時の自分のように男は喉を鳴らして苦しんだ。
女はついに衰弱の原因に思い当たって顔を覆った。
自分が男の精気を吸い取っていたのだ。知らなかったのだ。人と交わるなど初めてのことだった。だが、彼から離れることなど今更出来なかった。あまりにも幸せすぎて、今や遅すぎたから。
子どもは女の後ろで無邪気に遊んでいる。
目もよく見えなくなった男が自分に向かって手を差し出した。
反射のようにその手を握って女ははっとした。
一人で全てを見て疲れ果てていた女の手は狐のそれに戻っていた。子どもが遊んでいたのも、女の白銀の尻尾だった。
狼狽えた女の手を、男はぽんぽんと優しく叩いた。それはまるで、知ってたよ、と言わんばかりに見えた。優しく、優しく、女の手を撫でて、男は聞いた。
「君は幸せだったかい?」
僕はね、と男は霞む目で一生懸命に女を見ながら微笑んだ。
「とても幸せだったよ…とても。とてもね…」
それが男の最後の言葉だった。男の手がぱたりと落ちる。男は女が訪れたのと同じ春の桜の満開の日に天へと帰っていった。
荼毘に付した煙を見ながら、女は泣き濡れた。
初めて会ったのは冬の雪の日。
怪我をして死にかけていたところを男に救われた。澄んだ声に、凛々しい目元に、優しい心に妖狐は恋をした。
男は女の正体を知っていたのだろうか、知らなかったのだろうか。
それを知る術はない。でも、狐の手を撫でで、幸せだったと言ってくれた。
間に合わなかった言葉。もう届かない言葉。それでも。女は天に昇っていく煙に向かって伝える。
「わたしは、とても幸せでした。きっとこの世の誰よりも」
女は子どもの手を握る。あのひとが愛してくれたから、この人間の世界で生き抜いて忘れ形見のこの子を人間として育ててみせる。
「おかあ。おとうが笑っている」
子どもが空を指さした。途端に風もないのに桜が舞い、辺り一面を優しい桜色に染め上げたのだった。
花霞の空へ 深山心春 @tumtum33
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます