第39話 誘い

「いいんだな?」

「はい」


 彼は人間じゃない。これから困難もいっぱいあるだろう。

 でも、咲良には志乃というよき先輩や錦屋の味方もいる。

 今だって、文化も違うのにうまくやれている。きっと大丈夫だ。


「おいで」


 彼が腕を広げたので飛び込んだ。

 石鹸のような爽やかな匂いがした。


「友人もいるだろう、現世とこちらを行き来してもらって全然構わない」

「たまに現世に行くかもですが、基本は隠り世こっちにいたいです」

「そうか。おれもこちらで働いてもらいたい。現世には、よかったら一緒に遊びに行こう」


 咲良は頷いた。胸板に額を押し付ける。


神具しんぐを作ってやるからちょっと待ってほしい。志乃が胸から下げてる首飾りみたいなものだ」

「あの勾玉ですか?」

「そうだ。あれは青の牙で作られてる」

「牙……そういえば、爪で手形作るって言ってましたが……」


 咲良は彼の指先を見た。

 昼間、布を巻いていた指先は怪我をしている様子は見えなかった。


「昼間、怪我してませんでした?」

「爪を根本から落として、隆に頼んで職人の元に持って行ってもらった。そのうち、手形となって戻ってくる。切った直後は爪が剥がれた状態だったが、もう生えた」


 半日で爪が生えるとは。


「牙も半日で生える。牙を細工する神具の方が時間がかかるゆえ……正式に婚儀の日取りが決まってからでいいだろう」


 本当にこの人と結婚するのか。

 咲良の顔が再度真っ赤に染まった。

 彼の右手が、咲良の左手を取る。そして彼の左手は、咲良の頬に添えられた。

 降ってくるのは、金色の真剣なまなざし。

 いくらそういうことに疎い咲良でも彼の望みを理解して目を閉じる。


 彼の唇がそっと触れた。離れた後も、鼻筋がしばらく触れ合っていた。


「おれはおぬしに出会うために百年ももとせを三度も過ごして来たんだな」

「いい感じに焦らせましたか?」


 そう言えば、彼はくすりと笑った。


「ああ。生きるのに飽きるほどのときを過ごしての邂逅かいこうだ。おぬしには敵わん」


 咲良もくすぐったくなって笑った。


「今日、青がおぬしにベタベタ触れているのを見たとき、あいつの気持ちがわかった。許せなかった。志乃のところに客として行ったとき、髪一筋にすら触れていないがあいつが怒ったのを百五十年越しに理解した」

「今日は骨折らなかったんですね」

「手加減した。褒めてくれ。本気で喧嘩したら、きっとおれの方が強い」


 そう言うと、彼の姿が山犬姿に変化した。


(どういうこと?)


 咲良は一瞬混乱した。彼は礼儀正しくおすわりをした。尻尾が振れて、畳がばんばん叩かれる。

 真っ黒な身体の中で、金色の目が爛々と輝く。口角が上がる、鋭い牙と、真っ赤な舌が覗いた。

 撫でか? 撫でられたいのか?


 咲良はおずおずと手を伸ばした。

 濡れて冷たい鼻が、ぴと、と触れた。


(犬と変わんないな……)


 咲良は頬や首や頭などわしゃわしゃと撫でた。彼は嬉しそうに身体を伏せると最終的には腹を見せた。ふわふわだ。


「お腹の毛気持ちいいですね!」


 仰向けになった彼の腹に顔を埋めた。背中や首より柔らかくて気持ちいい。


 しばし身体中撫で回すと、彼は不意にむくりと起き上がった。


「満足しました?」

「うん」


 昴は瞬く間に人の姿に戻った。物凄く満足そうである。ちょっとかわいい。


「さて……寝ていく?」


 彼は背後の寝室を指差した。


「え?」


 展開が、いささか早くはなかろうか。


「……? 何か変か? いやほら、今日寒いし」

「さ、寒いからって急展開すぎません?」


 彼は金色の目をまんまるにしていた。たっぷり三秒。膝を打つ。


「ああ、別に変なことする気はない。普通に添い寝」

「添い寝」

「添い寝というか、ほら、この前膝貸してもらっただろ? 腕を貸す」


 彼は海辺で膝枕をしてやったことを言っているのだろう。


「本当に寝るだけですか?」

「おれを野蛮な変態野郎と一緒にするなよ? 順番は間違えない」


 彼は立ち上がって、「全く、咲良の周りにいた人間の男どもはどんな変態だったんだ?」とプンプン怒りながら寝室への襖を開けた。


 そこには分厚い布団が敷かれていた。


 結局。

 彼に誘われて、咲良は布団に入った。彼の腕といえばいいか、肩といえばいいか、とりあえず収まりのいいところに頭を落ち着ける。顔が近い。


「温かいな」


 彼の足が絡んできた。咲良はこういう経験がなかった。

 心臓がばくばくいっている。


(ど、どうなるんだ?)


 彼の手が後頭部を撫でて唇が額に触れた。


「おやすみ、咲良」


 上機嫌な彼はそのまま三秒で寝た。


(え? まじか)


 気持ちよさそうな寝息が聞こえてきた。寝たふりではなく、本当に寝ているらしい。


 温かさと心地よさに誘われて、彼女も目を閉じた。

 目が覚めたとき、昴の端正な顔が目の前にあって飛び上がることを、彼女はまだ知らない。 

そして、兄弟喧嘩の余波ではちゃめちゃの庭にうんざりすることも、まだ知らない。

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