第34話 龍の見送り
「悪かった、先ほどは嫌なものを見せたな」
咲良は昴を見上げた。
こんなに困ったような、自信なさげな表情をする彼を見るのは初めてだ。
「別に昴さまが謝るようなことじゃないですよ」
「おぬしに言っておきたいことがある」
有無を言わさぬほど真剣な表情の彼に圧倒された。
「……その」
「その?」
目を逸らして言い淀んだ彼がなんだか少しかわいくて、咲良は腰掛けるように促した。咲良も彼の前に正座しようとすると、彼はすかさず座布団を差し出した。
「ありがとうございます。どうぞ、お茶を」
表面に水滴が浮き出したグラスのアイスティーをすすめる。彼は無言のままグラスに手を伸ばして一口。
「スッキリしていて飲みやすいな……」
彼の口角が少しだけ上がった。
咲良も微笑みを返した。
「明日、爪を切って手形に加工してもらおうと思う」
咲良は彼を見上げた。
夜なので、行灯の光を受けた彼の瞳がオレンジ色に輝いている。
「爪で作った手形は、咲良ひとりでは出入りはできない。爪持ち主であるおれの手引きが必要だ。もしおぬしさえよければ、牙で作った手形、つまり神具を渡そうと思ってる。加工に時間がかかるのが難点だが、咲良ひとりでも出入りができる」
咲良は驚きに一瞬理解が追いつかなかった。
手形は鍵だ。つまり彼は、爪よりも力のある牙で作った鍵をくれるというのだ。
「一度帰ってもらうが、その後、ずっと錦屋にいてくれてもいいし、現世とこちらを好きに出入りしてもらっても構わない。……普段は現世で働いてもらって、こちらに来るとか……いずれにせよ、おぬしが必要だ」
咲良はようやく理解した。
今、咲良は厨房関係のアドバイザー的な立ち位置にいる。
きっと、これからも続けてほしいと言っているのだろう。でも、耐えられるのだろうか。
彼を好きな気持ちを抱えて、自分はここを出入りできるのだろうか。
昴はきっと、咲良が生きている間に目に見えて歳をとることもない。
自分だけが年老いて死んでいく。一度現世に戻ったら、思い出として普通の人間として暮らしていくのがいいのではなかろうか。
昴は、咲良の一瞬曇った顔を見逃さなかったようだ。
「そうか……こんな夜に引き止めて悪かったな」
「ごめんなさい……」
咲良は逃げるように彼の部屋を後にした。
「なんでわたし、人なんだろ……」
咲良は自室に戻って、仕事着のまま呆然としばらく座り込んでいた。
せめて隠り世に住むあやかしか何かであれば、寿命も人間よりもずっと長く、この宿で楽しく働けていただろう。
彼に振り向いてもらえなくても構わない。
そばにいて、彼の仕事の手伝いができたらそれだけで幸せなのに。
火鉢の火が赤々と燃え、時折ぱちぱちと爆ぜた。
***
翌朝。
「昴どの、少しよいか?」
朝食ののち、宿を出る阿武隈主と北上主のご一行を見送ろうとした昴であるが、北上主に声をかけられた。
ひとけのない門の影に呼ばれると、彼女は笑みを浮かべていた。
「結局会わせてくれなんだな?」
「……誰にでしょうか?」
昴は何を言われているのか全く理解できなかった。
「ほら、聞いたぞ。人間と祝言を上げるのだろう?」
眩暈に襲われた。
どこでその情報を得たのだろうか。
「いったい、誰からその話を……」
しどろもどろで、背中に謎の汗をかきながら昴は目を逸らした。
「いや何、先日利根川の主に会いに行ったのだが、もう皆その話題で持ちきりだったぞ。道中の宿の狐の女たちが泣いておった。全く罪な男よのう……」
(あの変態鹿野郎め!)
昴は誓った。次に会った時には泣いて謝るまで口に鹿せんべいを詰め込んでやるのだ。
「次に来た時には嫁御を紹介してくれ、楽しかった、ではな!」
昴は何も言えずに頭を下げた。彼らは東雲を連れて去って行った。
「またのお越しを、お待ちしております」
否定も肯定もしなかった。
その未来は、昨夜断たれたのだ。彼女は現世に帰りたがっている。
もう隠り世に顔を出す気もないらしい。
(おればっかりこんなに好きにさせて、ひどい人だ……)
しばらく、頭を皆で下げたのち、昴は「昼餉はいらない」と近くにいたたきに告げ、逃げるように自室に戻った。
ここのところの現世からの参拝者の記録もまともにつけていないし、個人宛に来た手紙も山になっている。
だが、何をする気も起きない。
彼は隆爺を呼びつけて山犬の姿に変化し、左前足の爪を一本根元から切ってもらった。
爪の根元は神経も血管も通っている。悶絶するほどの痛みである。
「あの、昴さま……どうしました? やっぱりさくを現世に帰したくないんですよね?」
付き合いの長い男だ。昴の心を見抜いているようである。
「一度帰すから戻ってきてほしい、ずっといてくれてもいいし、出入りも自由、現世で働いてもらって、ここにたまに来るのはどうだ。必要なんだと提案したが振られた」
「なんて言われたんです?」
「ごめんなさいと」
昴は人の姿に戻った。左の人差し指の爪が根元からなくなっており血が滴る。
布を当てて上から押さえると布が血の色に染まっていく。
「そうでしたか……」
「そんなに嫌われているなんて思ってもみなかった……気軽に呼びつけすぎたか。いや……おれは人間じゃない。そんなのに好かれていい気がしないだろ」
「さくは優しい子です、もう二度と隠り世に来たくないとか、おれらに会いたくねぇとか思っちゃいないと思いますよ。おれの見立てじゃ……昴さまのこと、結構好いてると思いますけど」
「そうだといい」
「午後はゆっくりお休みになってください。おれはこれを神具職人のところに届けてきますので」
「頼んだ」
昴は退室する隆爺を見送って、敷きっぱなしの布団の中に潜り込んだ。
彼は目を閉じた。疲れていたようで、知らないうちに夢の中に意識は落ちていた。
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