第33話 芸者
咲良、要、それからたき含む数名は控え室に向かい、鍋とおひつのご飯を届けた。
芸者の皆への夜食である。外も冷えるし、食事をしてから帰ってほしいという昴の心遣いだ。
鍋の中は、あっさり鶏ガラ味の麻婆豆腐だ。
膳を用意していると、戻ってきた芸者衆が嬉しそうな声を上げた。
咲良が皆を見渡すが、昴の姿は確認できない。
「あれ、昴さまいませんね?」
「たき、ここ頼んだ。さく、おれと一緒に行こう」
咲良は要に大人しくついていく。
「大将、まだ調子悪そうだからどこかでひっくり返ってなきゃいいが」
「心配ですね……」
示し合わせることもなく、ふたりは宴会場に足を向ける。
障子の向こうで、何やら物音がした。
「つばき、降りろ」
「ねえ、抱いてくださいませんか?」
はた、と足が止まった。
(昴さまと……芸者のおねえさん!?)
咲良は困惑した。え、どんな状況だか知らないが、昴が誘惑されている。
咲良は要を見上げた。
要は「どうしようもねぇ芸者だ」と言いながらすぱんと障子を開けた。
そこにあったのは衝撃的な現場だった。
芸者が昴の膝の上に乗り上がってしなだれかかっている。
昴の表情こそ見えないが、驚くほどの美人である。
心臓が跳ねた。そして、気づいてしまった。
これくらいの美人が、彼にはお似合いだ。
ここにいちゃまずいだろと回れ右しようとしたが、要に腕を掴まれる。一瞬目が合ったが、彼は絶対零度の視線でその女性を見下ろした。
「なぁねえさん。昴さま、女を無理やり押し退けるなんて出来ねぇ性分なんだ。さっさと降りな」
昴も口を開いた。
「つばき、おれが本気で怒る前に自分から降りろ」
聞いたことのない腹の底まで響く低音だ。昴は確実に怒っている。
つばきと呼ばれたその芸者も、流石にうろたえて立ち上がった。
「そういう手管はおれには通じない、覚えておけ」
昴は依然畳の上に腰を下ろしていたが、あぐらをかいてつばきを睨みつけた。彼女は咲良を睨みつけると、逃げるように廊下を駆けていった。
彼女を見送り、昴は要に視線を移す。
「悪いな、要。流石に疲れたな……咲良!?」
「最初からいましたよ、わたし……」
はだけた襟元を直そうとしたのだろう。首元に手をやったまま、驚いたように咲良を見上げて彼は座ったまま飛び上がった。
どうやら、要に視線を向けて咲良の存在にやっと気づいたようだ。
匂いで気づかなかったのだろうか。
「え?」
「さく、おれと一緒でしたが?」
「……なんだと」
彼は片手で顔を覆って項垂れている。
(そ……そんなにわたしに見られたのが嫌だった?)
気まずいが、咲良とてわかっている。
彼はあそこで相手がどんな美人でも籠絡されてしまうようなタイプの男ではない。それに、女性を無理やり押し退けるのだって気が引けたのだろう。
今の彼女にはそんなことはどうでもよかった。昴を誘惑していたつばきという芸者は浮世離れした、人間とはまとう雰囲気がどこか異なる驚くほどの美人だった。やっぱり彼には、隠り世に住む女の人の方が似合う。
自分のような人間。それも容姿も十人並みでその上すぐ死ぬような虫けらみたいな己が彼に憧れていることが、そもそもおこがましいのである。
***
(さっさと跳ね除けりゃよかった……)
昴は盛大に後悔していた。よもや、咲良に見られるとは。
好きな女の前で、へばりついてくる女を押しのけもしなかった。ああ、さっさと引き剥がしておけばよかった。
「……あの、すんません、同胞が。昴さま、ああいうのお嫌いですよね。仕事仲間とは仕事仲間としてやっていきってぇって性分でしょ?」
盛大にため息をついていると、気を遣ってくれたのは要だった。つばきはかわうその娘だ。彼はそこを気にしてるのだろう。
「別に全部のかわうそがああじゃないのはわかってる……」
「すんません。あの、お疲れでしょう。もうお部屋に戻ります?」
「……そうだな」
彼はそう言って立ち上がった。
咲良は何も言わない。
彼女から、湯上がりの肌が香った。芸者たちとどんちゃんしている隙間時間に、軽く湯を浴びたのだろう。きっと、宴会後の片付けを頑張らなくてはならないから、と。
いい匂いも相まって、頭がぐらぐらしてきた。
彼女に謝ろうかと思ったが、それはそれでおかしい。
もしも、もしもだ。
昴と咲良が好き合っているのならば、全くおかしなところもないし早々に頭を下げて許しを請うべきだ。
だが、今の彼らの関係でそれはどう考えてもおかしい。
昴は項垂れた様子で退室しようとした。
「あの、昴さま。お身体大丈夫です? お部屋戻った後お風呂入るなら、隆爺か誰か呼んでくるのでお背中流してもらったほうが……お酒も召し上がってますし」
一瞬遅れて。
咲良は彼の袖を控えめに掴んで、心配げな視線を持って昴を見上げてきた。
なんだかそれが
(おれは何を考えてるんだ……)
昴は別のことを考えようと精一杯努力した。
風呂、そうだ、風呂である。それはいい考えだ。そう昴は考えた。
先ほどこびりついた不快な女の匂いをさっさと消そう。
要も賛成なようで、明るい声で言う。
「その方がいいですよ。さく、隆爺呼んでこい。んで、お前はその間に昴さまに飲み物でも作って差し上げろ。いいな?」
要は、その間も宴会場を片付ける手を止めない。
え、と言いたげな目で咲良は要を見た。
「おれの部屋に持ってきてくれ。隆に声をかけさせる。すっきりした冷たいものがいいな」
有無を言わさぬ表情でそう告げた。
なんだか気まずいが、間違っていないはずだ。
そうして。
風呂から上がると、すぐに咲良はやってきた。
「すまんな」
透明なグラスには氷、それからスライスしたオレンジも入っている。
薄い茶色の飲み物だ。
「紅茶の茶葉を現世からお土産として買ってきた方がいたので、アイスフルーツティーにしました。では、おやすみなさい」
彼女はグラスを置いて、そそくさと退室しようとしていた。
そこに、いつもの笑顔はない。
「咲良」
障子に手を伸ばした彼女の動作がぴたりと止まった。
「なあ咲良」
彼は立ち上がった。
咲良のすぐ目の前に歩みをすすめる。咲良は昴をきょとんと見上げていた。
カラン、とグラスの中の氷が音を立てた。
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