第32話 龍の接待
「ん……?」
咲良は気づいた。薪が足りなくなりそうだ。
取りに行こうと裏口を開けて土間から一歩外に出た時のことだ。人の気配を感じて咲良が白い息を弾ませながらはっとそちらを向くと人影があり、昴の声が響いた。
「ああ、ちと悪酔いしそうだったから外の空気を吸いに来た」
咲良は慌てて駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
彼は質問に答えず、無言で空を指差した。息を飲むほど満点の星々がまたたいていた。
「すばるがよく見える」
昴! そう、彼の名前である昴は星の名前だ。
「どれですか?」
彼は濡れ縁から地面に降りて、咲良を後ろから片腕でそっと抱き寄せ、膝を少し曲げて腰を落とした。視線がほとんど同じになる。
彼の吐く息も白かった。
「あそこ、三つ輝く星が見えるか?」
彼が指す方を見た。オリオン座の三つ並んだ星が見える。
「あれですね、オリオン座の!」
「そうだ。三つ並んだ星を延長するとひときわ輝く星が見える。それをさらに延長すると、六つの星の群れが見える。それが昴だ」
「あ、わかりました!」
「おれの胸の白い色もあんな感じだろ?」
咲良は気づいた。彼の名前の由来なのだ。身体が真っ黒なのに胸が星のように白いからだろう。
昴は羽織を脱ぐと咲良にかけてくれた。
「あ……すみません、お気遣いいただいて」
「おれは大丈夫だ。寒いだろう、室内に戻ろう。それにしてもどうしたんだ、外に出て」
「薪が足りなくなりそうだったので、土間に持ってこようとしたんです。今日バタバタするだろうし、オペレーションの邪魔になるかなと思って土間に余分に置かずに裏口のところに積んでおいたので」
「おれが持って行こう」
「ありがとうございます!」
そう言うと、彼は並べてあった薪を抱えられるだけ抱えた。咲良は木戸をがらりと開けた。
「あれ……昴さま、どうしたんです?」
顔を上げ、驚きの声を上げたのはデザートを用意し終わってぐったりと腰掛けていた要だ。さすがに疲れた様子である。
「ちょっと外の空気を吸っていたら咲良と遭遇した」
昴は土間に薪を適当に置いた。咲良はこれから従業員の皆の夜食を作るのだ。
「咲良、夜食作るのか?」
「はい、これから皆さんデザートですよね。その間に何か軽く作ります」
「すまんが、芸者衆にも軽く何か振る舞ってやりたいんだ」
「わかりました、簡単に作りますね。皆さん狐ですか?」
「狐とそれからかわうそだ。肉も問題ない。控えの間に頼んだ」
ならば肉を使うか。そう思った咲良であった。
彼女らの控え室として用意してある座敷。そこが控えの間である。
***
「なあそなた、今晩ここに泊まっていかんか?」
「
昴が宴会場に戻ると、阿武隈主が芸者の手首を掴んでいた。
この宿、錦屋が懇意にしている置屋一番の売れっ子であるかわうその娘、つばきである。粋とおとも困ったような顔で昴に視線を向けた。
彼らが阿武隈主を止めるなんて無礼なことはとてもできないのは明白。
「阿武隈主、勘弁してやってください」
昴は意を決して諫言した。格上だ、背を汗が伝う。
「そうじゃ、阿武隈の。芸妓を困らせるものではないぞ」
助けてくれたのは北上主である。「ほれ、昴どのも困っておる。遊びたいなら然るべき宿に行くがいい」そうつづけた彼女に、阿武隈主は罰の悪そうな顔をした。
「冗談だ」
阿武隈主はぱっとつばきの手を離した。
(助かった……)
北上主がつばきに微笑みかけた。
「そち、もう一度舞を頼みたい。先程の舞、実によかった」
「はい!」
その後、食後の水菓子が出る頃には阿武隈主の機嫌はすっかり直っていて、昴は感服する他なかった。北上主は阿武隈主との付き合いも長いのだろう。
そうして、宴会もお開きになり阿武隈主の案内を粋にさせ、先に退室してもらった。
「北上主、先ほどは助かりました。御礼を申し上げます」
昴は頭を下げた。北上主は手をひらひらと言って「やめろやめろ」と言ってきた。
「気にするでない、よくあることよ。おぬしもすまなんだな」
懐紙に包まれた祝儀を受け取ったつばきも気をよくしたようであった。北上主がいなければ、どう転んだかわからない。
ほっと胸を撫で下ろす。
芸の道と客あしらいの玄人とはいえ、流石に東国で名のある川の主とあれば対応にも困るだろう。
昴とて、流石に肝を冷やした。
「食事が実に美味であった。また明日朝風呂にでも入ってゆっくり朝餉を楽しみたい。ではな」
「ごゆるりとお休みください。おと、案内を頼む」
おとが一礼をしてすっと障子を開け、北上主も退室していった。
昴は気の抜けたように畳の上に腰を下ろした。足を投げ出して後ろに手をつき、つばきを見上げる。
「いや、疲れたな……ご苦労だった」
「昴さま、助けていただきありがとうございます」
「途中席を外して悪かった……皆もご苦労だった。控室に夜食を用意してある、ゆっくりしてほしい」
皆がわきあいあいと控室に戻る中、つばきが昴のそばに膝をついた。
「ああ、おぬしも戻れ。おれはうちの連中とここを片付ける」
「あの、先ほどは本当にありがとうございました」
ひしっとしがみつかれて、昴は「え?」と間抜けな声を出して目を見開いた。
「ねぇ、本当なんですか? 人間の娘を見初めたと聞きましたが」
どぎつい白粉と白檀のような香、髪を結っているので
(咲良はいい匂いなんだがなぁ……)
さてどう答えようかと思案していると、彼女は太腿の上に乗り上がり、しなだれかかってくる。
手が虚空をさまよった。彼女の高価な着物を触るのは少し気がひけたがいたしかたない。引き剥がそう。
「おいつばき、離れろ」
「わたくし、昴さまのお部屋でしたら……どうですか、今夜」
「はぁ?」
泣きぼくろが印象的な見目麗しい娘だ。だが、昴にとってはそれだけだった。
寝所に来るなど論外である。あまりに予想していなかった展開に、素っ頓狂な声が出た。
押し退けてやろうと思った手が止まる。
取引先、贔屓にしている置屋の芸者だ。
彼女を外に放り出してやろうと思ったが、今後のことを考えて、あまり手荒なこともしたくない。
廊下の方から足音が聞こえてきた。ひとりは重め、もうひとりは軽め。しかし、今の昴には耳をすませて聞き分ける余裕などない。
「つばき、降りろ」
「ねえ、抱いてくださいませんか?」
彼女の手が、昴の襟元に伸びた。
穏便に済ませようと思っていたが、流石に昴も我慢ならなくなり、お前じゃその気になれねぇなと吐き捨てそうになった時のことだ。
障子が音を立てて開いた。
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