第30話 昴の持病

 翌日、次々と錦屋の皆が帰ってきた。

 要は宣言通り、フルーツタルトを買ってきてくれた。それから大量のシャンパンなどのワインも。


 一部は明日以降他の荷物と一緒に届けてもらうよう手配済みらしい。

 ワイングラスなども、この度色々と買い揃えたようだ。


「美味しいですね、やっぱりシャンパンに合います」


 咲良がうなずくと、要も笑顔になった。


「フルーツタルトに合わせるにはどれがいいかってワインショップで聞いたんだ。最高だな」


 久しぶりの洋菓子はびっくりするくらい美味しかった。

 ツヤツヤのジュレを纏ったいちごにオレンジ、キウイフルーツ。それから濃厚なカスタード。タルト生地もバターが香っている。


 カスタードもタルト生地も甘さは控えめ。上に乗った果物のすっきりとした酸味に辛口のシャンパンがよく合っている。ふくよかなシャンパンは、ブリオッシュやバターのような香りがあると言われているが、タルト生地とその香りが最高のマッチングだ。


(やっぱりソムリエの人はそこんところわかってるな……)


 心からスイーツとシャンパンを楽しむ咲良とは真逆で、昴は口数が少なかった。一体どうしたのだろう。咲良は心配になって声をかけた。


「昴さま、調子でも悪いんですか?」

「いや……うん。そうかもしれない。残りは部屋で食べる」


 そう言って、彼はお盆に皿を乗せてグラスを片手に去って行った。

 隣の隆爺が首を傾げた。


「大将、持病がよろしくないのかもしれねぇな……まだ本調子じゃないだろうし」


 彼は翌日もほとんど部屋から出てこなかった。

 昼間、従業員用の女湯の掃除の手伝いに行ったときに、昼間にもかかわらず男湯から出てくる昴を見かけた。


「大将、身体痛いのかもしれないね。ああやって昼から風呂入ってる時は大抵そうだよ」


 そう言ったのは、たぬきの娘、たきだ。

 まだ十代後半といった見た目の彼女は客室の掃除を主な仕事としている。


「身体が冷えると、痛みが出るらしい。さくが何か温かい飲み物でも持っていってさしあげたら喜ぶと思う」 

「わたしが? ……おとさんに差し入れてもらいますかね」


 湯船の湯を抜いて、ごしごしとブラシで擦る。

 最近水仕事ばかりで手が荒れてきたように思う。でも咲良ができることなんて、厨房の手伝いや掃除など水仕事ばっかりだ。わがままなど言えない。


「さくが行ったほうがいいよ、きっと喜ぶ。外から声かけて、お飲み物でもどうですかって聞いたらいいよ」

「あの……たきさん、わたしたちそういう関係じゃないんですよ、昴さまもおっしゃったように、あれはでまかせで……」


 そう言えば、洗い場の掃除を放り出したたきが湯船の方にすっ飛んできた。


「さく! あのね、たぬきと山犬は似てるの!」


 咲良は生まれも育ちも東北だが、どこがやねん、とツッコミを入れたくなった。

 似てないだろう、どこからどう見ても。


 咲良は田舎出身なのでよく知っていた。

 どんくさく、車に轢かれたり、柿の木に登って落ちたり、人が見ているのにずっと地面に落ちた果物を食べていたりと警戒心も皆無。それが咲良の知るたぬきである。

 残念な生き物という印象しかない。


 実際、たきもそんな感じで仕事はあまりできる方ではない。とにかく作業は遅い。

 でも、彼女は人懐っこくてとても愛嬌があって、どこまでなにが終わったかをきちんと逐一報告してくれるので、仕事を一緒にするのは楽しかった。

 だから今回、咲良は掃除の手伝いを申し出たのである。少しでもたきの助けになれば、と。


「……たぬきと山犬が? 似てるんです?」

「たぬきも一夫一妻制で、好きな人以外には見向きもしない。大将もそう。みんなに平等なのに、さくのことは大事にしてる。だから頑張って!」


 何をだよ、と咲良は思った。

 彼は、人間はか弱い生き物だと知っているから心配してくれているのだ。きっとそれだけである。


 でも少しだけ気になってはいる。

 ちょっと、気になってしまっている。

 いいや、これは尊敬だ。そうだきっとそう。彼女は自分自身に言い聞かせた。


「実際どうなの?」

「気になってます」

「気になってるってもう好きってことじゃないの?」


 うぐ、と咲良は言葉につまった。目が泳ぐ。

 否定しようもない。


「と、とりあえず、お飲み物は差し入れましょうかって聞いてきますね」


 掃除が終わった後、咲良はそそくさと昴の部屋の前に行き、廊下から声をかけた。

 彼の声は結構元気そうだった。「ホットミルクが飲みたい」と言っていたので、はちみつを入れて甘めにしたそれを持っていく。


「悪いな咲良」

「いえ、大丈夫ですよ。よろしければ、また夜にも何かお持ちします。飲み終わったら廊下にでも出しておいてください」


 彼は文がたんまり乗った文机に向かっていた。忙しそうだ。そそくさと退室しようとした時だ。

 昴の手が咲良の方に伸び、彼の指が咲良のそれに絡んだ。はっと息が止まる。


「咲良、おぬしの手は働き者の手だな……要に付き合って水仕事ばかりしていてはいかんぞ。あいつはかわうそだから水に強いが、おぬしはそうもいくまい」


 彼の太くて長い指先が咲良の荒れた指先をなぞって、身体の奥を優しくひっかかれたような気がしてぞくぞくとした震えが走った。

 彼は抽斗ひきだしから何かを取り出し、咲良の手に握らせた。


 貝殻である。


「次来たときに渡そうと思っていた。中に蜜蝋みつろう馬油ばーゆ軟膏なんこうが入っている。ハンドクリームってやつだな」


 貝殻はぱかりと空いた。体温で溶ける、硬めのテクスチャーのようだ。


「ありがとうございます! あの、体調は大丈夫ですか?」

「すまんな、調子が悪くてまだ手形を作れていない。持病の痛みが出ていてな」

「そうでしたか、まだこちらに来てひと月も経ってませんし……急がずとも結構ですよ」


 やはり体調がよくないようだ。

 まだ一月二十日だ。三日後には龍も来る。それどころではないだろう。


「もう半年くらいはこちらにいる気がするが……そうか」


 彼は咲良を見てどこか覇気のない様子で微笑んだ。


***


(こんなに手を荒らして……)


 もう少し早く気づいてやるべきであった。


「昴さま、無理しないでくださいね。みんな心配してますよ。何か食べたいものとかあったら言ってくださいね」


 かわいいな、と思う。

 やはりかわいい。どうすればいいのかもうわからない。


 実のところ、昴が引きこもっていたのは体調が悪いからというだけではない。

 咲良への想いを自覚して、どうしていいかわからなくなってしまったのである。彼女と何を話せばいいのかわからない。


 一緒に気楽にそばを食べた、あの頃に戻りたい。


「食べたいもの……肉かな」

「今、要さんが色々な肉の塩釜焼き試作してるので、上手くできたら昴さまにも試食お願いしますね。あと、夕飯も肉にするので楽しみにしててください!」

「いいな、旨そうだ」

「では……お仕事お忙しそうなので、わたしは失礼します」


 そう言って、彼女はぺこりと一礼し、山犬の尾のようなひとつに括られた髪を揺らして去って行った。


「おれは、どうすればいいんだろうな……」


 仕事やら文で溢れかえった文机を一瞥して、もうやる気もすっかりさっぱりない昴はにがいような、苦しいような胸の内に苛まれながらごろりと畳の上に転がった。


 外では、ひよどりがけたたましくピーヨピーヨと鳴いていた。 

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