第29話 人間の寿命

「朝、散歩に行ったら昴さまとさくの話題で持ちきりでしたよ。実は人間なんだろ? ってことは昴さまといい仲なんじゃないか? 実際どうなんだ? って聞かれたので適当にごまかして逃げてきましたが……」


 そう言ったのは粋だ。

 咲良は食後に飲んでいたカフェオレを噴き出しそうになった。


「まあ、こんな小さな町の中じゃああっという間に広まるだろうな」


 一方の昴は気にもしていなさそうなそぶりだ。彼は咲良とは真逆で、実に旨そうにカフェオレを飲んでいる。なおも彼は饒舌につづけた。


「仕方ない、子供ならば人が迷い込むこともまぁあるというが、成人となれば誰かが手引きして連れてきたという考えになるのが普通」


 先日彼が言っていた通りになってしまった。

 皆、昴が咲良を見初めて現世から連れてきたと思っているのだろう。


「ですが、あの……わたしが人間ってのはともかく、昴さまとの仲をうわさされると色々不都合がありません?」


 そう、咲良は現世に帰るのだ。何か理由でもつけて破談になったことにでもするしかないのだ。


 もちろん、あのでまかせを本当にするわけにもいかないし、そんなことは咲良の頭の中には一ミリもなかった。

 こんな格好いい神さまと……なんて天地がひっくり返ってもあり得ないしあっちゃいけない。咲良はこれが嘘の婚姻まで発展するかもしれないと一瞬考えて思考停止した。


「一度結婚し損なった男が二度目失敗してもこう思うだけだ。やっぱりまた失敗したなってな」


 彼は皮肉っぽい笑みを浮かべた。

 だめだ、このままでは昴を醜聞まみれにしてしまう。


 一度ならば相手方に問題があると思ってもらえるかもしれないが、二度目はそうはいかないだろう。

 咲良がここのところ隠り世を把握してきて思うことは、国内外や芸能人の話題などで話のネタがひっきりなしな現世とここは違う。

 噂というのは、酒の肴にちょうどいい。

 

 なんてことだと咲良は戦慄したが、それよりも驚いていたのはおとと粋だ。


「大将、さくに破談になった時の……昔の話をしたんですか?!」


 咲良は、これほどびっくりしているおとを初めて見た。そりゃそうだろうと思った。

 おとは昴と元婚約者の件を噂でしか知らない。真相を知らないのだ。今も人間に婚約者を奪われたと信じているに違いない。


「ああ、そうじゃないと、咲良が気まずい思いをするだろう。初めての婚約じゃないし、破談になるのも初めてじゃない。慣れてるから任せておけと」


 そう言って、昴は咲良に柔らかい視線を寄越した。


「皆呆れ返るだけだ。この男は所帯を持つのにとことん向いてないなと」

「そんなことないです……」


 咲良は気まずく目を伏せた。


 ここのところ一緒に過ごして、咲良は気づいたのだ。

 彼は神さまなのに、人間である咲良に対して驕り高ぶったところもいっさいなく、仕事だって真面目だ。

 狩人をその場で考えたでまかせで追い返すくらい頭がいいし、一緒に出かければ気遣いも欠かさず、厨房に立つことも厭わない。食糧だって自ら調達しに行く。

 おまけに、地域の皆にも慕われている。


 気が合う人がいたら、絶対にうまくやっていける。

 彼は目を離せないほど魅力にあふれた男だった。咲良だってもうどうしようもないくらい彼に惹かれている。日々己の気持ちを誤魔化すのにせいいっぱいなのだ。


 咲良が内心ため息をついたその時、玄関の方から「ごめんくださーい!」という声が聞こえた。はっとそちらに目を向けると、おとが音もなく立ち上がった。


「そば屋のおかみさんの声ですね、わたしが出ます」


 咲良はおとを見送って、それから昴に再度視線を向けた。

 どうしよう、彼に問題があると周りに思われるのは嫌だ。こんなに優しい人なのに。

 これから何百年も生きるはずの彼に、変なレッテルを背負わせるわけにはいかない。


「あの、わたしに問題があったことにしてもらっていいですから……」

「咲良に問題? そんなもの何もないだろう。咲良を悪者になんてできない」

「大丈夫ですよ、わたしはほら、あと六十年くらいですぐ死にますからどう言ってもらっても大丈夫です。でも、昴さまがこれから何百年も変な噂されて生きるなんてそんな」


 自分で言っていてなんだか虚しくなった咲良がいた。


「さく……」


 粋の声は掠れていた。昴は驚いた表情で咲良を見ていた。

 彼らはすっかり忘れていたのかもしれない。たいていの人間が、百年も生きられないことを。


「咲良、おぬし……」


 昴がそうこぼして、それから沈黙が走った。咲良は誤魔化すように笑ってみた。

 まさかこんな気まずい空気になってしまうなんて思ってもみなかった。

 そう、人間はすぐに死ぬのだ。当たり前だ、今更なんだというのだ。


「大将ー!さくー! お土産もらいましたよー!」


 その時だ、おとの声が響いて、行かねばと咲良ははっとして腰を上げた。

 咲良の後ろを、昴が悠々とした足取りでついてきた。


***


「昴の大将、はやく言ってくださいよ。あの時、もうさくちゃんといい仲だったんでしょ?」

「すまんな、あの時はまだ内密にしていたんだ」

「これ、うちの息子が現世から買ってきてくれてね、みんなで食べてくださいね! 大将もおとちゃんも粋くんも、この前は本当に助かったよ、うちの店は被害もなかったし」


 それは、箱に入ったいちごだった。

 先日の荒振神を大人しくさせたことへの礼である。

 つやつやのみずみずしい赤い実が宝石のようだったが、今の昴の目に、それは全く魅力的に映らなかった。


(咲良はあと百年も生きられない……)


 心臓を突かれたような心持ちであった。

 昴は普段、現世に顔を出すことはあれど、現世で人間と深い関わりを持つことはなかった。それゆえすっかりさっぱり失念していた。


 人間は、すぐ死んでしまう。


 昴は隠り世に住み、社を持った神の端くれ。人間とは一定の距離を保つべきだと思っていた。だから現世の人間とは距離を置いていた。例外は、一度きり。


(あれは二十年と少し前か……)


 現世、社の前で現世を眺めていたところ、咲良の父親である元彦と、それから咲良が参拝に来た。そして、幼子であった咲良に見つかってしまった。

 今から思えば、彼女はとても目がよかった。

 元来、霊力が強いのだろう。だから隠り世こちらに来てしまったのかもしれない。

  

「こんな立派ないちご、ありがとうございます」


 隣の咲良が礼を言っていた。種族の違いも歳の差もすっかりさっぱり忘れるくらい、彼女はしっかりして頼りになる。

 優しくて勉強熱心で頑張り屋だ。


 あの時ついた嘘が本当になっても構わない。いや、いっそ本当にしてしまいたい。だが、彼女を現世に返してやらなければならない。


 昴は今やっと己の気持ちに気がついた。

 できるならこのまま隠り世に、この宿に居てほしい。

 自分のそばにいてほしい。いつぞや、彼女を元気づけるために「いつまでいてもかまわん」と言ったが、あれは無意識のうちに発した昴自身の願望の言葉だったのだろう。


「よろしければ、これをお持ちください」


 おとが厨房から持ってきたのは、味噌漬けの猪の肉だった。それを木の皮につつみ、そば屋のおかみに手渡す。「いいんだよ、お返しなんて!」と言って固辞する彼女。

 ぼうっとして物思いに耽っていた昴であるが、そこでようやっと我に返る。 


 昴は咲良を抱き寄せた。

 咲良とそれから自分自身の心音が速くなったことに気づく。 


「こちらが気持ちよくいちごをいただくためにももらってくれ、またふたりでそばを食いに行く。なぁさく?」

「はい!」


 いちごは昴の大好物である。その晩、食後に皆でいただいた。皆絶賛していたが、昴の舌にはどうも味気なく感じられた。

 それは彼自身の問題であった。一度自覚してしまった心は、坂から転がり落ちるまりのようでどうしても止まらない。追いかけても追いかけても、止まる気配はない。


 双子の弟である青藍せいらんは人間と結婚した。自分までなど、許されるとは到底思えない。

 昴は自分の生真面目な心を呪いたくなった。


 人間を伴侶にした神や上位の神使の話は枚挙にいとまがない。

 伴侶とした人間の寿命を伸ばすことだってその気になればできる。


 己の寿命をくれてやるのだ。

 そうすれば同じ刻を生きることができる。昴の弟の青藍せいらんもそうだ。妻に寿命を半分分け与えたのだ。


(おれまでそんなこと……)


 咲良に人間をやめてもらうことになる。


 今までの生活を捨ててもらわなくてはならない。

 青藍せいらんの妻は元々吉原にいた。あんな地獄にいるくらいなら、隠り世に来るのも悪くない。だが、咲良は違う。


 元の生活に戻してやらねばならない。


(だめだ……) 


 このままこちらに留めおくなんてそんなこと、できるわけがないのである。

 どうしようもないことを考えていると、痺れるような痛みが背中を走った。

 背中の奥が痛んで息が苦しい。

 昴の持病だ。

 

 虎狼狸ころりの毒の後遺症である。


 その晩、彼は早めに床に戻って休むことにした。

 いつの間にか眠りに落ちると、夢の中に咲良が出てきた。


 彼女は昴の知らない人間の男と現世で連れ立って、楽しそうに笑いながら歩いていた。

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