第22話 名前

「めずらしいな」

「いやぁ……あんまり来たら、お邪魔かなと思いまして……」


 実は逃げてきただけである。

 咲良は昴とできるだけ関わらないようにしているから、この部屋に来るのは確かにめずらしいのだ。


「邪魔なんてそんなわけがあるか。これからも遠慮せずに遊びに来るといい。一緒に食べよう」


 思った以上に歓迎されて、咲良は目を泳がせた。はちみつのように綺麗な金色の目が咲良を凝視している。瞳孔は真っ黒まんまる。

 形のいい唇が笑みを刻んだ。どこからどう見ても上機嫌。


「せっかく持ってきてくれたんだ。仕事は中断してそれを頂こうか」


 文机の上には書きかけの書類のようなものがあった。昴はようやく右腕で書き物をできるようになったらしい。

 ちら、と投げた視線に気付いたのか「それを食べ終えたら俺の仕事を教えてやろう」と彼は言ってきた。


(知ってしまっていいのか……)


 わたしは人間、わたしは人間……と咲良が悶々としていると、彼はこう言ってみせた。


「ああ、それとも、体験してみるか?」

「そんな、わたしのような一介の……者が……」


 流石にまずかろうとしどろもどろで困りきっていると、彼は小さく噴き出した。


「おぬしはからかうとかわいいなぁ。特にあのの時は傑作だった」


 咲良は唇をわなわなさせた。たちまち、頬に熱がのぼる。

 彼女はまさかと思ったのだ。こんな、眉目秀麗という言葉が似合い皆から慕われる神さまに、ふざけていたとしてもだなんて言われるとは全く思っていなかったのだ。


 咲良はむきになって反論した。


「わたしはあの時笑っていいのか真剣に悩んだんですよ! だって実際、結構酷かったじゃないですか! あんなに血が……顔色だって悪くて……」


 尻すぼみにトーンが下がった。心配していたのだ、本当に。

 彼は目を細めた。咲良に降ってきたのは、極めて優しい声音だった。


「悪かった……俺もあの時辛くてな、なにか笑えることでも言おうかと思ったんだ。ほら、茶を淹れてやるから待っていなさい」


 彼はそう言って立ち上がると、火鉢に水をたっぷりいれた鉄びんを置いた。

 鉄びんとは、火にかけて湯を沸かせる鉄製の道具だ。取っ手がついていて、急須のように注ぎ口もついている。


 やがて湯も沸いて、彼は茶を淹れてくれた。


「では頂こうか」


 咲良は手を合わせて和菓子用の楊枝に手を伸ばした。昴は腹が空いていたのか、気づいたら既に口に入れてもぐもぐと咀嚼していた。


「うん、旨い。硬さもちょうどいいな」

「絶品ですね」


 要はよく汁粉なども作ってくれるのだ。

 咲良は菓子類や甘味の作り方は全くわからない。感謝しきりであった。


 昴も甘味が好物なようで、話は弾んだ。


「今度、あわぜんざいでも食べに行くか?」

「ぜひ! 粟餅にあんこがかかってるんですよね? 実は食べたことなくて」

「そうか、とびきり旨い茶屋に連れて行ってやろう」


 あやめにまた何か言われるのではないかと思ったが、いい加減彼女にいらぬ気を回すのが面倒になってきていた咲良は「楽しみです!」と答えた。


 茶を飲んでひと呼吸した時、「ああ、そうだ」と昴が言った。


「俺の仕事の話だったな、こちらへ」


(いや、だからわたしがこれ見ていいの……?)


 手招きされて文机の上を見たが、なんてことはなかった。全く問題なかった。

 文字が全く読めないのである。


「くずし字……」

「読めないか? そうか残念だ。この文はあの鳥居から入ってくる」


 彼は後ろの天井付近を指差した。神棚のようなものがある。そこに小さな鳥居があって、階段のような段差の一段下に漆塗りの箱が置いてあった。


「現世で、人間が参拝するとあの箱に舞い込んでくるわけだ。名前と、それから祈った内容が書かれている」

「佐々木……」


 かろうじて読めた。名前も書いてある。


「佐々木辰彦。昨日の漁は豊作。今日の漁が上手くいくようにとの願いだ。この男は毎朝一番に来る」


 咲良は必死で動揺を隠した。佐々木のおじさんと呼んで慕っている漁師である。


(わたしも実家暮らしだった時は毎日参拝してたな……)


 実家にいるときには、基本毎日社に顔を出していた。こうやって見られていたのか。


「まあこれを集計するわけだが……」


 彼は無言で小筆を差し出してきた。


「ちょっと自分の名前書いてみろ」

「え! 無理です!」

「大丈夫だ」


(だめにも程があるっ!)


 書き初めはそんなに下手な方ではなかったが、小筆でくずし字で名前なんて書けるわけがない。


「大丈夫、二文字だろ? 練習すればすぐ書けるようになる。では手本を書こうか」


 咲良ははっとした。そうだ、今の自分は咲良ではない、さくなのだ。

 彼はさらりと書いてみせた。それで「さく」と読むのか。読めるが書けるかはわからない。

 わざわざ思い出させてくれた昴に感謝しながら筆を受け取り、座布団の上で正座する。


「……そんながちがちになってどうした」

「筆なんて久しぶりで」


 咲良は困り果てて隣の昴に目を向けた。彼は少々いじわる風味の笑みを浮かべた。


「現世だと使わないよな」

「はい。本当に」


 しかたないと咲良は覚悟を決めて書いた。自分でも吹き出すくらい下手だな、と率直に思った。


「なんか言ってください」

「俺が見てるから緊張してる?」

「これがわたしの実力です!」

「……失礼する」


 筆を持っている右手をむんずと掴まれた。


「ぎゃ!」


 咲良は思わず悲鳴を上げた。嫌ではないが流石に驚く。


「なんだその声は。まず持ち方はこう」

「はいぃ……」


 変な声が出た。彼はそのまま筆の上の方を握って一緒に書いてくれた。距離が近い。息遣いまで聞こえてきそうだ。

 彼からはまだ薬草っぽい匂いがした。


(元気そうにしてるけど、まだ本調子じゃないんだろうな……)

 

「流石に二人羽織状態だとうまくいかんな……」

「……感覚はなんとなくわかりました」

「練習するか? よかったら教えるぞ」


 毎回これだと心臓が保つ気がしないが、毛筆で文字をサラサラ書けるようになったらちょっと格好いいかもしれない。

 年賀状くらいしか活躍の場がなさそうではあるが、そんなもの、書けるようになったらちょこっと筆ペンで一筆お礼状を書くとか、どんどん使えばいいではないか。


 咲良は割と前向きで、チャンスがあれば貪欲に色々やってみたがるタイプだった。


 咲良が「ぜひ教えてほしい」と口に出しかけたそのときだ。昴が「悪い」と言いながら手のひらを一瞬咲良の方に向け、背を向けた。


「昴さま?」


 どうしたのだ? と思った時だ、彼は激しく咳き込み始めて、その背に駆け寄る。一瞬迷ったが、咲良はその背をさする。

 かなり苦しそうな咳だ。


(まだ全然なんだろうな……)


 彼は肩で息をしながら顔を上げた。咲良はぎょっとした。

 手のひらに赤いものが見えたのだ。


「昴さま!」

「まだこのザマだ……」


 まさか喀血するとは思わなくて、咲良はおろおろしつつも懐からティッシュがわりの懐紙を取り出して押し付け、半ばパニックになりながら鉄びんに残っていた白湯で手拭いを濡らして渡す。 


「すまないな。まだ毒にやられているみたいなんだ」


 彼がかなり回復傾向にあると思っていた咲良は猛省した。

 やっぱり、ここに来てはいけなかった。彼に負担をかけてしまった。彼は息を切らして肩で呼吸していた。

 

「着物は……汚れてないですね。辛ければ横になります? 寝巻きにお着替えするの手伝いましょうか?」


 呼吸器がやられていると、横になると息苦しくなるのではなかろうかと思いながらも提案する。


「大丈夫だ。すまん、気を遣わせたな」

「なんで昴さまが謝るんです?」

「いや……なんだろうな。これでおれに近寄るのを遠慮されたら嫌だなと……さくがいてくれて、最近本当に楽しいんだ……」


 彼に手を取られた。咲良は驚きに目を見開いた。


「責任を感じるようなことはない。それから……追い出す気はないんだ。またこの部屋に来てほしい。だが、よ、おれに言わなきゃならないことがあるだろ? 今なら守ってやれる」


 彼は咲良の名前を呼んだ。

 心臓が跳ねた。

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