第20話 あやめ

 その晩咲良は久しぶりに夢を見た。

 彼女はいつの間にか東京で再就職し、咲良を食事に誘って困らせていたかつての上司が新しい職場に現れ、連絡先をブロックしたことに文句をつけてきたのだ。


 同僚や客にも迷惑がかかり、お願いだから外で話しましょうと必死に声を上げた時に目が覚めた。


「夢か……」


 咲良は布団に横たわったまま、しばし天井を見つめてぼうっと物思いにふける。


 ホテルのレストランで働いていた時の上司にはいつも困らされていた。それを考えれば、昴はただただ咲良を気遣ってくれるものすごくいいオーナーだし、同僚たちは皆優しい。そう、あやめを除いて。


(なんか嫌な予感がする……)


 できるだけ、昴には近寄らないでおこう。昨日の夜のことは皆には秘密にして、彼に卵酒を頼まれたら誰か別の人に持って行ってもらおう。


 咲良は布団から這い出て、寒さを堪えながら朝の身支度を始めた。


***


 あやめが昴の食事後の膳を下げに来ると、昴は書類仕事をしており、部屋には粋もいた。せっかくふたりになれる機会だと思ったのだが、粋がいたのがあまりに残念で、消沈しながら仕事の手を動かす。


「大将、屋敷の修繕の方はおれが指示して進めておくのでもうお休みください」

「ああ、頼んだ。それから、十六日の藪入やぶいりは予定通りに頼む」

「大将、ですから……」


 膳は空。

 思ったよりも元気そうで、あやめは小さくほほえんだ。


「昴さま、何かご要望があればお申し付けくださいね」

「ああ、今は大丈夫だ。ご苦労」


 あやめは静かに退室し、障子を締めた。


「大将、ですからもうお休みください。ふらついてるじゃないですか」

「わかった、もう休むことにする」


 あやめが盆を持って立ち上がり、厨房の方へ足をすすめた時のこと。


「粋、最後にひとつ。昨晩さくが卵酒を作ってくれたんだ。あれをつ時に持ってきてもらいたい。では少し横になる」


 なんとか耳に聞き取れたその言葉に、あやめの歩みが一瞬止まる。

 なぜ昴はあの新入りを優遇するのだろう。

 他の面々もあまりにも過保護すぎる。


 確かに、山犬は年々数を減らしていて、若い娘というだけで貴重で、昴が大事にするのはわかるのだ。


 山犬は同族や家族を大切にする生き物だ。だが己は狐。そればかりはどうにもならなくて奥歯をぎりりと噛み締める。


 あやめが厨房に戻って膳を片付けていると、くだんの新入りの女が小さくぺこりと頭を下げて厨房に入ってきた。


「お疲れさまです」

「……」


 今何か言葉を発したら、またいらぬことを言ってしまいそうだった。

 彼女は山犬にしては霊力が弱いらしい。鬼火も使わず火種を炭に移しているその姿を見下ろして、あやめはきびすを返すように厨房を後にした。


(やっぱりおかしい……あんなか弱い山犬が昴さまに大事にされてるなんて!)

 

 この旅館にするりと入り込んで、何か悪いことを企んでいるのではないだろうか。そもそも、本当に山犬なのだろうか。


 昴は奥多摩、武蔵国むさしのくにの山犬の一族だ。

 山犬には三つの勢力がある。東京の奥多摩、埼玉の秩父、それから奈良の吉野。


 かつて、吉野の山犬は、一族の姫君を武蔵国の有力な家の出の昴に嫁がせようとしたのだ。しかし、結納を済ませたにも関わらずその姫君は人間の男に懸想してしまい、現世に駆け落ちしてしまったと聞く。


 噂では、奥多摩の長老衆が大激怒。

 人間なんぞに持って行かれて、矜持きょうじを傷付けられたと全面抗争にまで発展した。

 吉野の勢力に見つけ出され、男は殺された。引き戻された姫君は自害したという。

 それ以来、ずっと西国とは緊張関係が続いているらしい。


 当時、間を取りなしたのは秩父の勢力だったと聞く。しかし、奥多摩の一族はその秩父とも今やうまくやっているとは言い難い状態であるという。

 どちらが狼信仰の本拠地だと若い衆が小競り合いを繰り返しているらしいのだ。


(吉野か秩父の間者?)


 昴を籠絡しようとしているのではあるまいか。

 辻褄は合う。昴は自分自身を半分隠居身分だと言っているが、彼の出自は一流だ。奥多摩の勢力の裏事情にもかなり詳しいし、一定の発言力もある。


 あやめは密かにそのいけ好かない新入りが充てがわれている部屋に入り込んだ。持ち物を改めようと思ったのである。

 長火鉢の引き出しを開けると、現世のかばんがあった。財布を開ける。

 目に止まったのは、免許証だ。


「上條咲良?」


 上條の一族は、あやめもよく知っていた。

 昴の社の守り人。その最後の生き残りが咲良だ。


(上條咲良……だからね)


 あやめは痕跡を消し、そっと咲良の部屋から抜け出した。

 昴は彼女の正体に気づいているだろう。彼がしたのだろうか。


 神々が人を神隠しする理由はそうは多くない。

 大抵は痴情や執着。


 昴ほどの男が、人間の小娘などに情を向けるなんてにわかに信じがたいが、それくらいしか考えられない。


(昴さまが、二つ足を……?)


 何かの間違いではないか。

 彼女は、八つ時の少し前を見計らってさくに声をかけた。


「ねぇ、さく。昴さま、あなたに飲み物を頼んでいるわよね? わたしが持っていくわ」

「はい、お願いします!」

 

 裏なんて考えられない屈託のない笑顔が余計にしゃくに触ったが、なんとか堪えてそれを昴の部屋に持っていく。


「昴さま、さくからの飲み物です」

「ああ、あやめか。入ってくれ」


 昴は文机ふづくえに向かって何やら書類を読んでいた。彼は一瞬だけちらりとあやめの方に目を向けた。


「悪いな、そちらに置いておいてくれ」


 あまりにもそっけない。

 あやめが何も言わずにいると、金色の瞳が彼女を訝しげに見た。


「どうした?」

「上條咲良をいつまで置いておくのです?」


 文を机に置いた彼は、あやめの方を向き直った。


「誰に話した?」

「誰にも」

「ならそのまま、知らぬ存ぜぬで過ごしてほしい。いつまでも今の状態にはしておかないから」


 彼は観念したように言った。


「おそばに置くために神隠しなさったんですか?」

「まさか。なぜ彼女がこちらにきてしまったのか皆目見当がつかない」

「ならばなぜさっさと追い出さないんです? 一筆書けば、八咫烏あたりが羽なんて簡単にくれましょう!」

「……」


 昴の一瞬のためらいがあやめにも見てとれた。


(ああ、やっぱり……)


 多分、彼は上條咲良に多少なりとも惹かれている。


「……きちんと現世には返すつもりだ。だから、彼女に危害を加えないでくれ。上條の最後の生き残りだ」


 社は近隣の皆、つまり町内で管理するということをあやめも把握していた。

 彼女は上條の最後の人間なのに、社を捨てて東京で就職したのだ。なぜそんな者を大切にしようとするのか理解できなかった。

 しかし、これ以上彼を説得するのは無理だろう。


「……昴さまの方針には従います。出過ぎた真似を申し訳ありませんでした」

「おぬしの気持ちもわかる。おれとて上條の人間でなかったら即放り出していた。しかし、悪い娘ではない。なんとか穏便に済ませたい」


 昴の部屋を辞したあやめは鬱々と自室に戻った。  


「目を覚まさせてあげるわ。昴さま」


 山犬は一途だ。取り返しがつかなくなる前に引き離さなければならない。

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