第13話 荒振神(あらぶるかみ)
午前中、真昼から二時間前。ようは客は退室の手続き後……つまりチェックアウト後なので従業員たちはひたすら掃除に勤しんでいた。
「さく、今日は湯殿……野風の湯の方の掃除、頼むわね」
それはあんたの割り当てだろうという言葉を咲良はなんとか飲み込んだ。
相手は狐の娘、あやめである。
「わかりました……」
完璧に目をつけられた。
別に、昴と特段親しくしているつもりはない。でも彼は悪い意味じゃなく、純粋に新入りの咲良のことを結構気にかけてくれていて、咲良が作る食事もいつも褒めてくれて、そうして、それが全て悪い方に転がっている。
彼は皆に分け隔てなく接するいいオーナーだ。
咲良は現世の東京で働いていた際、上長にセクハラめいたことを言われたり、客にも下品なことを言われたこともあるが、ここではそれが一切ない。
錦屋での仕事を咲良は気に入っていた。
しかし、このあやめという狐だけは少し苦手だった。
今日の咲良の割り当ては昴の部屋の掃除だったのだ。
それを相談もなしに、あやめは己の仕事と交代しろと言うのである。
実のところ咲良は昴にちょっと会いたかったから、彼の部屋に行くのを楽しみにしていた。でも、仕方なしに咲良は湯殿に向かった。
新入りだし、ことを荒立てたくなかったのである。
***
錦屋には二つの大浴場がある。日によって男女交代制となっている。
あやめによって押し付けられた「野風の湯」のうち、一通り露天風呂の清掃が終わった。もう二時間は経っている。昼だ。
昼食は各々、時間がないので皆各自で茶漬けと漬物などで簡単に済ませることが多い。
もちろん咲良も例外ではなく、簡単な昼食を済ませ、内湯を磨いた。つづいて脱衣所を掃除する前に少し休憩しようと廊下に出た時だ。
「さく! こんなところにいたのか? 探したぞ」
そこにいたのは厨房を取り仕切り、さくとも仲のいいかわうその男、
「昴さまが呼んでる」
(あやめさんの件かも……)
言われて、げんなりした顔が表に出ていたのだろう、要は「どうかしたのか?」と咲良の顔を不思議そうに覗き込んできた。咲良は慌てて言い訳を考えた。
「ああ、いえ。まだ脱衣所の掃除終わってないので」
「おれが変わっておく」
「でも今、要さん休憩しておかないと……」
朝も早くから朝食の準備をし、そして、あと少ししたら夕飯の仕込みがあるはず。
「気にするな、任せておけ」
咲良は恐縮しながらも礼を言い、彼に残りの掃除を任せて昴の部屋に向かった。
きっと何か言われるだろう。でも、彼と話したくて、少しうずうずした気持ちだった。よくわからないままに、あの大きくて真っ黒でしなやかで美しい狼の神さまに惹かれはじめているのかもしれない。咲良は自分が恐ろしくなった。
昴は咲良に腰掛けるように促すと、竹を割ったように切り出した。
「さく、何かあったらおれに言ってくれ。おぬしを探しておとに聞いたら、今日は本当は俺の部屋の掃除当番だったらしいじゃないか」
やはり、咲良の想像の通りだった。いの一番にあやめの件で苦言を呈された。
「変わってほしいと言われて……」
「本当に?」
「はい」
「押しつけられたんだろ? 正直に言ってくれ。怒ったりしないから」
「……実は、はい」
彼は額に手を当てため息をひとつ。「まったく、あの娘は」と呆れた声を出した。
咲良は気づいた、昴はあやめの気持ちに気づいているのだ。
「あやめもいい加減、困ったものだ……」
「昴さまのこと、大好きなんですね」
咲良はちょっとおかしくなってしまった。気高いわがままお嬢様っぽいが、彼女、可愛いところがあるのではないか。
「実は笑える状況じゃなくてな。おれは応えられんと何度も言った。もう諦めてほしいな」
「え、そうだったんですね……」
「ああ……まあ、今はその件は置いておこう。ちと一緒に離れの座敷に向かってほしい。あと少ししたら来客がある」
「離れの座敷ですか?」
彼にならって、咲良も腰を上げた。
縁側に続く障子を開けてくれたので、そろりと廊下に出る。
裏庭を通る渡り廊下で繋がっているのだ。
ひゅるりと風が吹き、身を震わせると彼が羽織を脱いで肩にかけてくれた。
「ここは冷えるな、急ごう」
「申し訳ないです、ありがとうございます……ところで来客とはどなたですか?」
「呉服屋だ。おぬし、まともな着物を持っておらんだろう。いくつか贈る」
咲良ははた、と足を止めた。
彼も足を止めた。咲良は頭ひとつ大きい昴を見上げた。
「そ、そんないいです着物なんて!」
「遠慮するな」
「しますよ! そんな、申し訳ないです!」
「若い娘が外を歩くのに、まともな着物ひとつ持ってなければ気分も上がらないだろう、うちの仲間になった祝いだ。別に一級品をと言っているわけではない、普段着だ。素直に貰っておくといい」
そ、そんな。
咲良は給金をもらったら古着を買いに行こうと思っていた。彼女は目に見えてうろたえた。
それじゃなくとも咲良は昴や錦屋の皆を騙している。
古着ならともかく、普段着だとしても呉服屋が一から仕立てる着物なんてとてもじゃないが貰えない。
「そんな……だめですよ、お気持ちだけで結構です」
「おぬしも大概、頑固だな……」
「昴さまから着物を贈られただなんてバレたら、あやめさんになんて言われるか」
「う……それを言われると痛いな。だが、あやめがここに来た時も、ろくに着物を持っていなかったから贈ってる。問題ない」
「いえ、結構です。お気持ちだけありがたくいただきます」
にこ、と咲良は微笑んで昴の金色の目を見つめた。その目が少し揺れた。昴はごまかすように顎のあたりをさすってみせた。
咲良は昴の目から視線を離せなかった。陽の光の元で見る彼の目は、昔、理科の実験で作ったつやつやのべっこう飴を思い起こさせた。
それか、たっぷりしたはちみつ。ちょっと美味しそうな色をしている。
その後も縁側で問答していたふたりであるが、ふと昴が顔を上げた。
視線は裏庭の向こうの池。
「なんだか、
彼はそう言って空気の匂いを嗅いだ。そして「気のせいか?」と腕を組んで首を傾げる。
「池……ため池……あ!」
咲良は声を上げた。
「どうかしたか?」
「ここに来る前、あの、現世で……看板が……」
看板を思い出した。池の埋め立ての看板だ。
どうして今の今まで忘れていたのだろう。
宿る川や池を失った主は、最悪正気を失うとおとから聞いていたのに。
(わたし、なんて馬鹿なんだ……)
「現世で何かあったか?」
「今日、六日ですよね? 現世であのため池を埋め立てるって……」
昴の顔色が変わった。
「さく、よく聞け……きっとあの池の主はうちの鳥居を通って現世で暴れようとするはずだ、おれはおとと粋とそれを抑える。おぬしは隆に守ってもらえ」
彼はそう言うと、庭に飛び降りた。その姿は真っ黒な狼の姿である。
艶やかでふさふさとした黒い毛が、風に揺れた。
彼は首をあげると空に向かって遠吠えをひとつ。
それから真っ直ぐ池の方を見た。尾を上げてゆるりと振り、首から背の毛が逆立っている。
咲良にもわかった。臨戦体制である。
一瞬ののち、どこからか血相を変えたおとが飛んできた。
「
「東雲どのだ。あの方の気性を鑑みるに、確実に堕ちる」
屋根から庭にどさりと何かが飛び降りて、何かと目を見張れば粋だ。
「遅れました」
「まだ時間がありそうだ。俺は獲物を取りに戻る」
昴が人の姿に戻り、駆け出してあっという間に自室に戻ったその時、鐘のような音がひっきりなしに聞こえてきた。
半鐘だ。
火事の時など周囲に避難を呼びかけるため鳴らすものだ。
次の瞬間、どんっと爆発音のようなものが聞こえた。
池の水が間欠泉のように空に向かって噴き上がったのだ。咲良はあまりの出来事に絶句する。
「来た……」
瞬く間に戻ってきた昴の冷静な声。一瞬遅れて、隆爺がどこからか飛んできた。
腰の二振りを携えている昴は咲良に目も向けず、唸るように言った。
「隆、さくを頼んだ」
「承知! 行くぞ、さく」
隆爺が背に腕を回してきた。彼に誘導されるように咲良は走りだした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます