第10話 釣りと変化(へんげ)と咲良の正体

 河原に行くと、焚き火に当たっている隆爺がいた。

 遠くに釣りをする見知った顔も見える。


 金のない宿屋の主人と従業員たちは、肉は山で調達し、魚を川で調達するらしい。もうまたぎと漁師に転職したらいかがだろうか。


「大将、お疲れさまです。さく! 寒くないか? 早く火に当たれ! 干し肉でも食うか?」


 めちゃくちゃ固そうな鹿肉っぽい干し肉をすすめられる。いえ、結構です。そう率直に言うのもはばかられ、咲良は丁重にお断りすることに決めた。

 咲良はまず隆爺の隣に腰掛けた。

 温かい。空間が、何かベールに包まれているかのようだ。彼はおそらく、なんらかのを使っている。


「今おそば食べてきました! それは隆爺が食べてください!」

「そうか……大将とそば屋行ってきたのか、よかったな」


 昴はそばに転がっていた釣竿を手に取った。   


「釣果はどうだ?」

「まあまあですね。大将も一緒に釣ります?」

「ああ、行こうか」


 昴が視線を向ける場所には、かわうその男、かなめがいた。彼は先日副料理長から料理長になった男だ。痩せ気味で茶色っぽい髪をした塩顔の爽やかな男だ。


 口数は少ないが、彼も咲良のことを心配してくれた。「身寄りがないなら、ここで一緒に頑張ろう」と言うのである。


 彼は現世の料理をいろいろ教えてほしいとも言った。

 年下にも教えを請うその姿勢は、限りなく紳士的で技術に貪欲な職人そのものである。


 咲良はいい加減、皆を騙しているのが心苦しくなってきた。

 人間であるとバレたらどうなるかわからないが、今のままはどう考えても無理がある。


「隆爺……わたしこのままでいいんですかね? みんなを騙して……」

「……おれも、なかなか苦しいなとは思ってる。おともあんまり深いこと考えない性分だからなぁ」


 なんとなくわかっていた。おとは結構脳筋なのである。頼る人を間違えたと言うべきか、いや、でも咲良が頼れるのは彼女しかいなかった。咲良は他にすべがなかった。


 それにあの時昴に人間だと気づかれていたらこの川にポイ捨てされて、あやかしの餌になっていたかもしれない。彼は人が嫌いなのだと、仲間たちも口々に言っていた。


 そう、今の状況は最善だ。彼女は自分自身に心の中で言い聞かせた。


 咲良の言葉が途切れると、隆爺は話題を変えるかのように明るい声を出した。


「今日、大将と一緒にいてわからないこととかなかったか? 大丈夫だったか?」

「あー、なんだか、おそば屋さんでからかわれて……大将にもついに冬が? とか聞かれて否定してたんですけど……春じゃなくて冬なんです?」

「ああ、そういうことか。山犬や狐の恋の季節は冬だからな。ここいらの界隈は狐が多い、そういう時は春じゃなくて冬って言ってからかう」


 なるほどそうか、狼の繁殖期は冬なのか……動物の本能がどこまで彼らに影響を及ぼしているかわからないが、多少なりともなにかがあるに違いない。


 ふたりは雑談しながら釣りをする面々をしばし眺めた。時折釣れているようだ。

 途中咲良も挑戦してみた。昴は一緒に竿を持って熱心に教えてくれたが、寒すぎてのこのこ戻ってきて、火の番をしている隆爺の隣に収まった。

 彼は深めの鍋で何かを煮ていた。


「甘酒、飲むか?」

「いただきます!」


 大喜びで椀を受け取ったその時だ、遠くの方でばっしゃばっしゃと激しい水音が聞こえてきた。

 咲良がそちらに目を向けると、ひぐまをゆうに超えるほどの巨体の真っ黒な狼が網に向かって魚を追い立てていた。


(え……?)


「大将の変化へんげした姿だ。いやいつみても惚れ惚れするような神狗しんくだよ本当に」


 咲良の目には、河原ではしゃぐでっかくて黒い犬にしか見えない昴の姿があった。そうか、あれが彼の本性か。

 遠目だが、モッフモフの漆黒の冬毛は寒々とした河原とのコントラスト鮮やかである。一見、シェパードやハスキーのようなフォルムだが、耳は小さめで首が太くてがっしりとしている。鼻もシェパードより短めでどちらかというと日本犬に近いかもしれない。


 全身真っ黒かと思いきや、胸のところが一部分だけ白い。まるで夜空の星のようだ。


 ちびちび、温かい甘酒を舐めるように口にする。

 咲良はだんだん訳がわからなくなってきていた。


 昴は神さまだ。稲荷の狐は神使しんし。そして、かわうそはあやかし。

 そもそも、あやかしってなんなのだ。


「隆爺、ちょっと教えてもらいたいんですけど。あやかしってそもそもなんですか? 隆爺は神使ですよね?」

「おれはあやかし。昔は神使だったけど、今は仕える社も持ってないしな。大将は社を持ってる神であり、山犬だから一応山神に仕える神使でもある。おとと粋は大将に仕える神使。社持ちや山とか川の主でもない限り、基本はみーんなあやかしって覚えとけ」


 隆爺は詳しく教えてくれた。隠り世で霊力を持ち、人のような姿で暮らす生き物があやかし。その中でも、神に仕える稲荷の狐などは神使、昴のように社を守っていれば神の端くれ。もしくは河川や山の主も神の仲間。


「神話に出てくるようななんとかのミコトとかそういうのはもう次元が違う、おれたちにだって見えない。本当にいるのかだってわからん」

「伏見稲荷の御祭神は……いないんですか?」

「いる。いる、とは聞いてる。だが、見たことも話したこともない。神棚の鏡にご報告申し上げるだけだ。向こうからはこちらが見えているらしい」

「そうなんですか……じゃあ、この隠り世を政治的な意味でまとめてるような神さまっているんですか?」

「名のある河川や山の主、それからそれぞれの神使の族長は集まって出雲で政を行ってる。だから税も徴収されるし、人間と変わらない生活を送ってると考えりゃあいい。その器、もらうぞ。もう空だろ?」


 いつの間にか甘酒を飲み干していた。隆爺に器を返す。

 好き勝手に皆生きているのかと思いきや、意外とそうでもないらしい。

 その時だ、視界の端に川から上がってぶるぶる身震いをして水を弾き飛ばす昴の姿が見えた。

 その姿はやっぱりただの巨大な犬にしか見えない。


 皆がどれだけ人っぽく見えても、人間ではない。

 咲良を気にかけて相談に乗ってくれても、人間ではない。


 咲良は視線を赤々と燃える火に移した。


 でも、現世に戻ってもひとりぼっち。父親も亡くなった。母親は小さい頃に亡くなった。祖父母も少し前に亡くなった。


 田舎の村なので、かつての友人たちもみんな都会に出てしまい、てんでバラバラ。でも、今ここには親身になってくれる隆爺やおともいる。

 ここ数日の生活を気に入っている咲良がいた。


 その時だ、砂利を踏む音が聞こえて咲良は顔を上げる。


「流石に手足が冷えたな……」


 昴がそこにいた。すでに人の姿に変わっていた。

 彼の背後、川辺には網を片付ける面々がいた。片付けを任せて戻ってきたようだ。

 彼は咲良と隆爺の間に座ると、火に当たっている隆爺の手首をむんずと掴んだ。


「ぎゃぁぁぁっ! 冷てぇっすよ大将! 何するんですか!」


 隆爺は飛び上がった。一方の昴は声を出して笑っている。

 そんなに冷え切っているのか、と咲良は片手を彼の方に差し出した。

 その手のひらを見て、彼は無言で手を重ねてきた。


「冷た!」


 咲良も声を上げた。彼女の手を、昴は冷え切った両手で包んだ。

 体温が彼に移っていく。いや、奪われていく。

 咲良の手がすっぽり隠れてしまうがっしりとして大きな手だった。手のひらにたこがある。刀を握る男の手である。


「温かいな……」


 昴はうっとりと目を細めた。

 咲良は見事にうろたえた。心臓がばくばくいいはじめる。


「ちょっと大将、女の子の手ェにぎにぎして鼻の下伸ばさないでくださいよ!」

「はぁ? 手を差し伸べてくれたのはさくだ。あんなふうに手を出されたら、をするのが犬のさがだろう」

「そこいらの飼い犬みたいなセリフ吐かない! この甘酒でも飲んでください!」


 隆爺は咲良と昴の手首を引っ掴んでべりっと引き離した。

 昴は咲良の方にちらりと金色の目を向けてクールな笑みを浮かべた。


 昴は咲良にヒントを出していたのだ。

 咲良を飼い主に、そして自らを犬にたとえた昴。彼はとっくに咲良が人であることに気づいていたのである。


 しかし、もちろんのこと咲良はまったくこれっぽっちも気づいていなかった。

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