第9話 あられそば、戦前以来の洋食ブーム
「ここの通りはうちと同じ宿屋が並んでいるが、他に食い物の屋台が多いな」
錦屋の門を出て、ふたりは通りをそぞろ歩いていた。
咲良はおとが貸してくれた道行にマフラーを巻いている。昴は羽織に薄手の襟巻きのみ。寒くないのだろうか。
彼は足元も裸足に下駄である。
石の階段などを歩くとカランコロンと音が鳴るのが耳に心地いい。
周囲は錦屋と同じような温泉宿、それから焼きイカ、団子、それから天ぷら屋などの屋台が並ぶ。
たまに賑わっている茶屋や食事処も目に映る。時間も昼前だからか、チェックアウトする客で賑わう宿も多い。
咲良が世話になってる宿、錦屋とは雲泥の差だ。
見た目は普通の温泉街だ。
確かに、現世、咲良の家の周りにも数件温泉宿があった。現世と隠り世は表裏一体だと聞いていた。
咲良の実家の近所もかつては宿場として栄えていたらしいが、今や寂れてもうかつての栄華は見えない。しかし、隠り世は少し違った。
「ここの通りは呉服屋や履物屋、それから小間物屋や荒物屋が多い、あそこの小間物屋の髪飾りは人気だな」
へぇ、なるほど。咲良は相槌を適当に打ちながらきょろきょろとあたりを見回してくっついていく。
小間物屋。荒物屋。なんだそれは。
咲良は内心焦りを覚えながら頷いた。
小間物屋とは女性用のくしやかんざしなどの髪飾りや化粧品、そのほかたばこ入れや小さな雑貨を扱う店で、荒物屋はほうきやちりとり、料理器具など、もっと大きな日用品を扱う店である。
咲良はのちほどおとに泣きついて教えてもらうことになる。
不思議な街並みだった。何時代と言えばいいんだろうか。
服装は、やはり和装が多い。皆人間ではないらしいが、どこからどう見ても人に見える。
ちょっと目や髪の色の変わった人物がいるな、という程度の違和感しか感じない。
今まで祖母と見てきた時代劇などを思い出すに、江戸と明治と大正を足して三で割ったようなイメージか。昭和の初期にも片足を突っ込んでいるかもしれない。腰に刀を帯びているのは、昴くらいだ。
「……本当にこちらに慣れていないんだな?」
日本に初めて来た海外の旅行客ばりにあっちこっちを見回していた咲良に、昴は小さく噴き出した。
「ひどい、笑わないでくださいよぉ……」
「悪かった、悪かった。もう昼時だ。何か食べに行こう。何か気になる店でもあるか?」
彼は懐から懐中時計を取り出してそう微笑みかけてきた。どきりとするほどの整った顔で、咲良は一瞬視線をさまよわせた。
ちょっと目の色の変わった人間にしか見えない。本当に狼なのか。全くそんな猛獣感などない。とにかく親身になってくれる優しい男である。
咲良は「気になる店ですか……」と曖昧にほほえんだ。問われても困る。咲良はあいにくこちらの食事事情にも詳しくないのだから。
「好き嫌いはないので、何かおすすめ、ありますか?」
「おれはよく向こうのそば屋に行く。案内しよう」
昴の行きつけのそば屋に向かい、腰を下ろす。彼のおすすめは、あられそば。オーダーして出てきたそのそばに咲良は目を輝かせた。
温かいそばの上に磯の風味たっぷりの海苔を敷き、その上に角切りにした貝柱を散らしてある。
湯気とともに、かぐわしいだしの香りが立ち昇る。
「これ、なんの貝ですか?」
「初めてかい? バカガイの貝柱だ」
給仕してくれた女性に、「はい! 初めてです!」と答える。バカガイ、つまり
「珍しいね、昴の旦那が女の子連れてるなんて?」
給仕してくれた女性が意味ありげな視線を昴に向けた。彼はすでに給仕されていた鴨南蛮を一口すすったあとに、もったいぶったように言った。
「美人だろ?」
咲良は噴き出しそうになった。何を言っているんだ、この男は。
彼の方を見れば、金色の目が悪戯っぽくほほえんだ。
咲良は動揺し、慌てて視線をそらした。どうしてこんなに感情を揺さぶってくるのだろうか。向こうはちょっと冗談を言っただけだろう。そう思い込もうとしつつも、咲良の千々に乱れた感情はさらにぐちゃぐちゃになった。
「え、大将もついに冬が来たのかい?」
冬? 春じゃないのか? 何を言っているんだ、といった視線を向けていると、彼は小さく笑った。
「いいや、違う。うちの新入りなんだ。さくと言う。よろしく頼む」
「そうかいそうかい、また食べにおいでね」
女性はそう言って、厨房に戻って行った。
「全く……こんな身体患ってる男に嫁なんて来るわけがないだろうが」
その言葉に、咲良は発言の主である昴を見た。
どこか身体が悪いのだろうか。
聞くのはどうかと思ったが、でも彼から言い出したことだ。
「どこか、お身体悪いんですか?」
「昔はよく……人に請われて、妖怪退治をした。オランダ人や南蛮人と一緒に船で渡来してきた妖怪だ。その時に毒を食らってな。今でもたまに古傷が疼いてたまらない」
「そうでしたか……」
「ここには元々湯治に訪れて、上條家の一族が
咲良は先祖の話を聞くことになって驚きに目を見開く。
しかも幕末、つまり江戸時代。咲良は絶句するほかない。
そうだ、彼は三百歳を超える神さまだ。
「まあ昔の話だ。そばが冷めるぞ、早く食うといい」
咲良は慌てて「いただきます」と手を合わせ、箸を手にそばをすすった。
噛めばじわりと旨味が染み出す貝柱に、海苔の磯の風味がマッチしており、おすすめされたとおりで、あられそばはめっぽう美味しかった。
こちらの食事はなんでも美味しい。甘味も、大福だって羊羹だってなんだって美味しい。
「どうだ? 気に入ったか?」
「はい!」
「おれもここのそばは好きだが……」
彼は小声でつづける。
「目新しさはない。あられそばは江戸時代からずっと食べているからな」
彼は玄関の向こう、表通りに目を向けた。
「賑わっていた宿があるだろう? あそこは八つ時に石窯で焼いたチーズケーキとコーヒーを出しているらしい。店主じゃ現世で働いていたゆえ知識があるらしい。昭和初期以来の洋食人気が微かに伺える」
ええ!? と咲良は彼を見た。「真似しろよオーナー、今すぐ何かやれ!」咲良はそう言いたくてうずうずしたが、流石に自分の十倍以上の年長者に出過ぎた真似はよそうと口をつぐんだ。
昭和初期以来の洋食ブーム。
周期が人間のそれではない。
それにしても石窯か。つまりオーブンだ。
いいなぁと思った。ピザやパンも焼けるではないか。グラタンだって食べられるだろう。
「で、うちの宿は金がない。だからこれから、川に調達に行きたい」
「川?」
「寒い思いはさせないから、少し付き合ってほしい」
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