第6話 ムニエルとシャルドネワイン

 すばるの居住区は、驚くことに旅館の母屋の一角にあった。

 温めた皿に乗せたますのムニエル。付け合わせは茹でたじゃがいもにほうれん草とベーコンのソテー。


 間違いない、鉄板のネタである。

 対、人間であればだが。


 鱒に小麦を薄くはたき、熱したオイルでこんがりとソテー。ソテーしたニジマスの油を切っている間に、焦しバターソースを作る。味付けはひと垂らしした醤油、それからニンニクで風味づけ。


「最初からバターで焼かないのかい?」


 かまどの火力調整のため、周りで見守っていたおとをはじめとした皆が心配そうに見に来てきたが、咲良は余裕たっぷりに答えた。


「バターは、焦げやすいから最後に入れるんですよ。本当は、最初にソテーするオイルにオリーブオイルがあるとよかったんですけど」


 今度、仕入れておこうと厨房担当の皆が頷き合っている。


 さて、ここの主である昴が納得してくれるだろうか。

 おとに教わったとおりの所作で障子を開けた。


 膝が緊張でがくがく震えた。よし、頑張れわたし。その気概を奮い立たせ、咲良は恐る恐るその一品を差し出した。


虹鱒にじますのムニエルです。こちらの白ワインを一緒にどうぞ」


 用意した白ワインのシールキャップを手早くソムリエナイフで開けた。

 ワインがあるくらいだ、もちろんソムリエナイフもあったのだ。栓を抜くと、きゅぽんっと小気味よい音がした。


 このムニエルを平らげてさらに腹が減っていると言うならば、残っている冷やご飯でリゾットを作るくらいの余裕はある。準備は万端。


 咲良はごくりと唾を飲み込んでボトルの底を掴んでワインを注いだ。


「いただこう」


 彼は杯を優雅に口に運び、彼は寂しげな笑みを浮かべた。


「旨いな。このワインは……上條の家の、元彦が供えていったものだな」


 元彦もとひこ。つまり、咲良の亡き父親であった。

 心臓がどきりと跳ねた。


「おれの好みをよく弁えていて、よくワインを供えくれた。先日亡くなったようだ。残念なことよ……しかし、実に美味い酒だな。人間と交流することは基本的には許されていないが、あの男とは一度酒を酌み交わしたいと思っていた」


 そうだったのか、本当にワインが好みで喜んでいたのか。

 父に聞かせてやりたかった。


「……つまらない話をした。気にするな、ほんの戯言だ。おぬしも飲めるんだろ?」

「はい」

「ちょっと待て、硝子杯がある」


 咲良は動揺を押し殺すように視線を彷徨わせた。

 昴は立ち上がって戸棚の中からグラスを一脚取り出していたので、彼女には目もくれていなかった。


「江戸切子のグラスですね、とてもいい色です」

「一杯付き合ってくれ」


 彼がワインを注いでくれて、ふたりは静かに乾杯した。

 咲良がワインを口に含むと安心したように彼も鱒に箸をつけた。


「旨いな」

「お口に合ったようでよかったです」


 彼は流れるような所作でワインを口に含んだ。

 グラスの中でゆらめく黄金色に目を見張る。

 先ほどの単体で口に含んだとは印象が違ったのだろう。


「これは……」

「樽熟成の濃厚な白ワインなので、バターのソテーに合うかと思います」


 咲良はそう静かに告げ、己もグラスを傾けた。

 リッチで酸味はどこまでも穏やか。バターのような濃厚な風味に樽のニュアンス。

 間違いなく、バターの風味たっぷりの、柔らかな白身魚のムニエルに合う。


「旨いな……」


 彼は箸を止める気配もない。


「よかったです。どうぞ今後とも、お取り立て頂けたら嬉しいです」

「まずはおれの食事を作ってもらいたい」


 彼は視線の高さにグラスを掲げた。


「綺麗な色だな」

「シャルドネです。産地はアメリカのカリフォルニアです」

「シャルドネはよく聞くな」

「はい、最もオーソドックスな白ワイン用の品種だと思いますが、土壌や気候、それから樽。ステンレスか木の樽での熟成かによって風味は七変化します。ある意味難しい品種です」


 小さく頭を下げた。流石に本も何も調べる術もなくシェフとソムリエの真似事は少々骨が折れた。

 しかし、心配は杞憂なようだ。彼はあっという間に平らげた。


「そうか、これからも色々と教えてほしい」

「ありがとうございます」


 沙羅は頭を上げぬままに言った。

 いくら好青年に見えても、相手は齢を重ねた神である。


「そう畏まるな。さくと言ったな? まだ若いだろうに」

「二十五です」

「おれは江戸時代、元禄の生まれだ。西暦で言うと……一七〇〇年」


 咲良は言葉を失って目を丸くした。齢三百年を超えている。


「おれとて若造と呼ばれるんだ。粗相なんて気にするな、肩の力を抜くといい。馳走になった」


 結局、ワイン半分で彼は満足したらしい。「残りは明日。期待している」そう言われて困ったように笑うしかなかった。

 咲良は膳を持ち、彼の部屋を後にした。


***

 

「大丈夫だったかい?」


 厨房に戻ると心配した表情のおととすいが飛んできた。


「大丈夫です、喜んでました」

「よかったねぇ! ちょっくら茶でも飲むかい?」

「はい!」


 おとが淹れてくれた茶が染み渡る。

 おとと粋の夫婦ふたりもゆったりと茶を飲みながら口々に言う。


「まあ、胃袋を掴んだなら大丈夫さ」

「でも、いつまでもこのままってわけにはいかないだろ、どうするんだ?」

「どうって、頃合いを見計らってごめんなさいするしかないでしょうよ」

「大将、絶対怒るぞ」

「それは自局を見計らって誠心誠意謝るしかないだろう?」

「そりゃあそうだろうが……」

「わたしとあんた、それから隆爺が頭下げりゃ、大将は無体なことしないだろ?」


 おとは茶を美味そうにずず、とすすった。


「そりゃそうだろうけど……最初っから謝っといたほうがよかったんじゃないか?」

「大将は人間が大っ嫌いだ。今日、咲良ちゃんが飯も酒も出さないまま、わたしがこの人間を頼む、現世に戻してあげてほしい。難しければ匿いたいって言って大将にぶつかりに行ったらどうなってたと思う?」

「元いた場所に捨ててきなさい。人間を養う余裕はない。わざわざなんで現世に返さなきゃならないんだ、面倒くさい」

「だろ? よくわかってんじゃないか!」


 その会話で、咲良は自分の立場をよくよく理解した。


「でも上條の娘だろ? 流石の大将も……」

「社は今や町内で管理することが決まったんだ。大将は社を失ったあやかしや売られた娘には優しいけど、人間相手は情に流されないさっぱりした性格だろ? あんたもわかってんならそんなよわっちい顔してんじゃないよ、腹をくくりな!」


 おとは粋の背を思いっきりぶっ叩いた。


 そうなのだ、上條家が管理していた大口真神社は、咲良の父親が亡くなって町の面々で管理することになっていた。

 咲良も東京に出ていたし、皆で守ろうという話になったらしい。


 もはや咲良は、社を守ってくれる一族の最後の生き残りとも思われていないのだ。


 こうして、咲良の綱渡りの日々がはじまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る