第5話 昴(すばる)
「おれだ、入っても?」
「大将ですか、どうぞ!」
低くしっとりとした声に、粋が答える。彼が例の
ガタガタと音を立てながら扉が開く。
皆が出入口に向かって頭を垂れたので、咲良も慌てて真似をする。
冷たい風と共に、雪がはらはらと土間に落ちたのが視界の隅に映り、また静かに扉が閉まる音がした。
「戻った」
「おかえりなさいませ、お勤めご苦労さまでした」
たっぷり頭を下げたのち、周りの気配から頭を上げた咲良は目を丸くした。漆黒の短髪、それから黄金の満月ような美しい色彩の瞳。
視線が、とらわれてしまった。
男女問わず好印象を持たずにはいられない、目鼻立ちの整ったひとりの男がそこにいたのである。
歳は咲良より少し上くらいに見える。
着流しに羽織という真冬にしてはいささか薄着な装いだが、その姿があまりにも似合っていた。
(時代劇の役者さんみたいだ……)
咲良はポカン、と長身の彼を見上げた。率直に格好いいと思った。
着物を着ているから時代劇の俳優っぽいなと思っただけで、ファッション誌のモデルもできそうだ。それくらい美しい顔立ちをしていた。
おとだって美人だし、
「……彼女は?」
昴は鋭い金色の視線を咲良に向けた。
警戒の色がその目ににじんでいるのが、咲良にも手にとるようにわかった。
「この子はさくといいます、わたしの血のつながらない親戚の子で、天涯孤独、かつての
おとの言葉に彼は何も言わず、囲炉裏の周りを見回し、ふと目を止めた。空になったワインのボトルがそこにあった。
「その酒、おぬしが持ってきたものか?」
「はい」
咲良は震える声を発した。
昴はゆっくりと土間を進んで、上がりかまちに腰掛けた。
「現世で働いていたのか?」
「はい」
「どこで?」
「宿泊所の飲食店です」
どこまで横文字が通じるかわからなくて、咲良はそう口を開く。
東京のホテルのレストランで働いていたのだ。彼は「なるほど」とかすかにほほえんだ。
「ホテルのレストランだな? それとも旅館か?」
「ホテルです」
「ワインの知識があるのか?」
「人並み以上にはあるかと存じます」
ベテランウェイターやソムリエにははるかに劣るが、この
「そうか……山犬の同胞か……社を失くしたとは、今まで苦労させたな」
彼は痛ましそうに言った。
「ずうっと現世で暮らしていたらしくて、こっちの生活には疎いですがわたしが教育しますので」
おとは頭を再度下げた。そこまでしてくれなくてもいいのに。「おとさん、ありがとうございます」と咲良は礼を言った。
昴は鷹揚に頷いた。
「いいだろう。おぬし、これから宿で働いてもらうが、衣食住には苦労はさせない」
「はい」
「うちは火の車だから、給金は小遣い程度だが……」
「ありがとうございます」
咲良は頭を下げて見せた。
いい人だと思った。見ず知らずの自分を雇ってくれるのだ。物腰だってとても柔らかい。
東京で散々揉まれた咲良はそう考えた。
「もしや皆の食事を作ったのか?」
「さく、ものすごくうめぇ飯を作るんですよ大将」
「そうそう、一度食べてみてくださいよ」
隆爺と粋が口々に言った。咲良は小さく頭を下げて見せた。
さく、というのは偽名である。
どうやら、皆の話を聞くに彼は出不精らしい。
おとや隆爺が咲良をひと目見てわかったのは、彼らが現世に買い出しに行く担当だからだ。
実際、今現在姿を見られてもバレてはいない様子。
咲良は内心安堵の息を漏らしていた。安心した彼女は、せっかくだからと昴にひとつ提案をすることにした。
「もしよろしければ、お夜食でも作りましょうか?」
「本当か? 実は少々小腹が空いていてな……だが今からはさすがに申し訳ない」
昴は少々申し訳なさそうに言った。おとが咲良を見た。
「わたしも手伝うよ!」
「ありがとうございます! 昴さま、お気になさらず」
「ではお言葉に甘えようか」
「それでは少々お時間をください。何かご要望はありますか?」
咲良は小さく頭を垂れた。
「先ほどまで花街で飲んでいたのだが、台の物はあまり食が進まなくてな……飲み直したい。酒に合うものを何か作ってほしい。せっかくだからワインが飲みたい、白がいいな」
「喜んで」
咲良は営業スマイルでにっこりと彼を見上げた。
昴は彫刻のように整った口元に、微かに笑みを浮かべた。
咲良の心臓がどきりと跳ねた。
目が眩むほどの美しい顔に浮かんだ、実に美しい非の打ちどころのない微笑。
「悪いなさく。隆、彼女を地下のワインセラーに案内してくれ。おれは軽く湯を浴びてくるから、その間になんの酒でもいい、合うものを見繕ってくれ。洋酒が飲めるのは嬉しいな」
「お任せください!」
咲良の心は躍った。
よおし! 彼女は気合を入れた。
昴は大して酒も飲んでいないから、と湯殿に向かっていった。
時間は十分ある。
「咲良ちゃん、何作るんだい?」
おとが心配そうに問いかけてきた。
「バターもあるし、ニジマスもあるし、せっかくだからムニエル、洋風の焼き魚……って言えばいいんですかね? それを。魚料理、昴さま、大丈夫ですかね?」
「大将、川魚大好きだから喜ぶと思うよ」
「よかった、台の物ってあれですよね? 遊郭とかで出てくる仕出し屋のかまぼことかパッサパサの魚の焼き物とか、あんまり美味しくない酒のつまみですよね?」
「よく知ってるねぇ」
言うなれば、正月のおせち料理のようなものが足つきの台に乗って出てるのだ。それが台の物である。
咲良は祖母に感謝した。
彼女は祖母の影響で時代劇や時代小説が大好きなのだ。
「時代劇で見ました! おばあちゃんからも教わりました!」
大して食べるものにもありつけず、ちびちびと茶や酒を飲んで話をし、そうして帰って来たようだ。
いい。
付き合いで花街に行き、朝帰りもせずに酒盛りだけで帰って来た男。悪くない。
そうして、たいそう申し訳なさそうに夜食を頼む男。ちょっとかわいい。
咲良のテンションはかつてないほど高かった。
彼女は早速厨房に移動した。
スーパーで買ってきた
まずは隆爺と地下の蔵に足を伸ばす。
「この辺、いっぱい大将は保存してて、たまに売りに出して現世の金にしてる」
「すっごい!」
ピンからキリまで、シャンパンやウイスキーなども保存してあった。なるほど、ウイスキーは投資にもってこい。寿命が長いゆえ、適切なタイミングで売りに出しているのだろう。
「大将はどれ使ってもいいって言ったから好きにすりゃあいいと思うぜ」
彼は洋食が大好きと聞いていた。
バターをたっぷり使おう。
仕上げに、少しだけ醤油を垂らすのもいいかもしれない。
咲良は一本のワインを手にした。
カリフォルニアのワインである。
どっしりとしてコク深い樽熟成。バターやローストアーモンドような濃厚なアロマが特徴で、リッチでグラマラスな余韻が長続きする白ワインにした。
バターをたっぷり使った料理に抜群に合うが、好き嫌いはもちろんある。
咲良、一世一代の大勝負である。
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