第3話 おとと隆爺

「わたしはおと」


 シンプルな着物をまとってたすき掛けし、日本髪を結っている。

 髪の色は少し灰色がかった茶褐色で、目は金色だ。

 カラコンを入れているようには見えない、自然なオレンジがかった金の瞳である。


 うっとりするほど綺麗な目だ。先ほど火をつけた火鉢から、パチパチと火の爆ぜる音がしてきた。


「おとさん、なんでわたしのことを知ってるんですか?」

「わたしは、上條かみじょう家が大切にしてくれている大口真神社おおくちのまかみしゃに仕える狼……山犬だ。言うなれば、左右並んでる石像の狼の片方がわたしってこと。だから咲良ちゃんのことは、生まれた時からよく知ってる」


 咲良は言葉を失った。

 あの社のおいぬさまである。


「お、おいぬさま!? ってことは狼ですか?」

「そう。人間みたいな姿だけど、わたしは人間じゃない。わたしらは狼を山犬って言う。わたしの旦那が社を守るもう片割れ。そんで、大口真神社おおくちまかみしゃの主、すばるさまの補佐をしてる。ここは、大将が商売してる温泉宿だ。わたしはここで中居もしてる。大将は今不在だ、熊野の烏との会合があって、花街に行ってる。宴会だね、夜半になる前には帰ってきて腹が減ったって言うと思う!」


 彼女は捲し立てるように言った。

 情報量が多すぎる。狼のことはどうやら山犬と呼ぶらしい。


 おいぬさま、熊野の烏。

 熊野の烏といえば、かの有名な八咫烏やたがらすだ。


 座っているにもかかわらず、地面がぐらぐら揺れているような心地がした。

 ここは神さまやそのお使いの住む世界だと咲良もいいかげん気づいたのだ。


「わたし、帰れるんですか?」

「ああ、帰れるさ。でも、わたしみたいな下級の神使だと返してあげるのは無理だね。うちの大将の神格なら返してあげられるけど……大将、人間嫌いが極まってるから……」


 人間嫌いな大口真神社おおくちまかみしゃの主のおいぬさま。なんということだ。


「食われます?」


 咲良が顔面蒼白で問いかけると、おとは苦笑してみせた。


「さすがに人間食う趣味はないと思うけど、最悪身包み剥がれて川にポイだね。そんで川のあやかしどもの餌さ。そのダウンジャケット、こっちの世界じゃ高く売れそうだし……」


 咲良はさらに顔を青くした。


「お願いです、助けてください。あの……これ、よかったらどうぞ」


 咲良はスーパーで買った食材をどうぞと並べた。

 まずはお供えする予定だったワインとオレンジを置き、夕飯にする予定だった虹鱒にじます二匹、そのほか、野菜や芋、パン、顆粒コンソメにバターにとろけるチーズと粉チーズ。


「お、ワインだ! いいねぇ! あ、来たな」


 おとが顔を上げた。つづいてバタバタと階段をのぼる足音が咲良の耳にも飛び込んできた。


「もう気づいたか!」

「おと、人間クセェぞ」


 その言葉とともに、障子がぱぁんっと開いた。


隆爺たかじい、さすが鼻は衰えてないようで」


 そこに現れたのは、痩せ型で白髪の年配男性だった。


「おんめぇ人間匿って、一体どうす……咲良ちゃん! なんてこった!」

「このジジイは隆久たかひさの御大。狐さ。みんな隆爺たかじいって呼んでる。この宿の一番番頭」


 狐か、なるほど、彼も目が金色だ。

 隆爺は膝をついて咲良の手を取ると、急に涙をボロボロとこぼし始めた。


「大変だったなぁおとっつぁんも死んじまって……おと! 何があったんだ?」


 おとは隆爺の手をひっぺがして言った。


「表に出たら立ってたんだ!」

「鳥居を通ったらここに来てて……あの、隆爺さん? わたしをご存知なんですね」

「隆爺で構わねぇ。知ってるも何も昔っから知ってる! どうしたもんか……」

「うちで匿ってやろう。もうそれしかないよ」

「まず風呂だ……匂いのある湯だから人の匂いも薄れる」

「わたしの着物を着てもらおう、風呂から上がったら手伝うよ」

「食材は土間で保管しとく、全部任せな。大丈夫、咲良ちゃんはおれたちみんなの娘とか孫みたいなもんだからな」


 怒涛の展開に、咲良は目を白黒させてふたりを見た。どうやら、匿ってくれるらしい。


 助かった。いい人たちだ。


 涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔の隆爺は、咲良の肩を抱いて何度も勇気づけてくれた。

 訳のわからない世界に紛れ込んでしまったが、皆優しい。

 すぐには戻れなくとも、これならなんとかしばらく暮らしていけそうだ。


 あの社を大切にしていた父親に心から感謝した。

 ここの主が人間嫌いだということだけが、少し気にかかった咲良であった。

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