雲から落ちた

増田朋美

雲から落ちた

少し暖かくなったと思ったら、また寒波がやってきて、冬に逆戻りという感じの気候の日であった。それを何回か繰り返しながら、春になって行くのだろう。それは、たしかにそうなんだろうけど、それでも、寒い寒いとみんな言っている。

その日、杉ちゃんたちは、いつもと変わらないで製鉄所の掃除をしたり、水穂さんにご飯を食べさせたりしていたのであるが、いきなり玄関の引き戸がガラガラっと開いて、弁護士の小久保さんが一人の女性を連れてやって来た。

「小久保さんじゃないですか。一体どうなさったんです?」

水穂さんが驚いてそういうと、

「はい、実は、こちらの女性、佐藤志保さんと言う方ですが、何でも子供さんを亡くされて、半狂乱になってしまいましてね。それで、損害賠償など法律的なことは、僕達で対応できますが、その間彼女を預かってくれる場所がないというのが問題になりまして。ここなら、彼女のような女性を預かってくれるかなと思って連れてきました。」

小久保さんは冷静に話をした。

「佐藤志保さん。お住まいは?」

と、杉ちゃんが言うと、

「静岡県富士市です。」

そこまでは話が通じた。

「それで、子供さんを亡くされて、損害賠償取るって言うけど、どうして子供さんをなくされたの?医療ミスでもあったのか?」

杉ちゃんが聞くと、

「私に言わせないで!龍之介は雲から落ちて死んだの。他の人はどこにも手をつけられない雲から落ちて死んだのよ。」

と、彼女は言うのであった。

「雲から落ちたってことは、飛行機事故にでも巻き込まれた?」

杉ちゃんがそう言うと、

「違うわ。龍之介は雲から落ちたのよ。飛行機から落ちたわけじゃないわ。」

志保さんはそう答えるのである。

「雲から落ちたって、しかしあまりにも非現実的な。」

水穂さんがそう言うと、

「雲から落ちたのよ。びっくりしたから羽を広げるのも忘れて落っこちたのよ。」

志保さんは言うのであった。

「こういう状態なので、彼女は、統合失調症とか、そういうものであると考えられます。一応、向精神薬は飲んでいると言うことですが、それも、頼りになるかわかりませんしね。彼女は、何を言っても、龍之介くんは雲から落ちたとしかいいません。そんな状態ですので、支援センターに預けるのも、けんもほろろに断られましてね。病院も、空きがないということですから。それならこちらで預かっていただこうかと。」

と、小久保さんが申し訳無さそうに言った。

「わかりました。つまりどこにも行くところがないってわけだ。それでは、ここで預かろう。浮浪者にさせるわけにも行かないでしょう。彼女が、話を聞いてくれるのを望むんだったら、その専門家を呼び出そう。水穂さん、涼さんの電話番号は?」

「すぐにお電話をおかけします。」

水穂さんはスマートフォンを出して、涼さんにすぐに来てくれないかと言った。涼さんは、30分ほどかかるけど、すぐいきますと言ってくれた。

「今、あなたの話を聞いてくれる方をお呼び立ていたしました。彼であれば、何でも聞いてくれますから、話を聞いてもらってください。」

水穂さんがそう言うと、

「なんで!龍之介は、雲から落ちて死んだのよ。なんでみんな信じてくれないの?」

と、志保さんは言った。

「信じるとか信じないというよりも、お前さんは、今治療が必要だから、そのために話を聞いてもらうんだ。」

杉ちゃんがでかい声でそう言うと、

「治療なんて!あたしは、こんなに元気なんですよ。歩けるし、動けるし、こうしてお話もできる。それなのになんで、病院に行って見てもらわなければならないんです。それでは、まるであたしが、犯罪者みたいじゃない!」

と、彼女、志保さんは言った。

「でも、あなたは、今、龍之介くんは雲から落ちたとおっしゃりましたね。雲から落ちたという表現は、人間の死因には当てはまらないんですよ。飛行機事故で亡くなったというのなら話はわかりますが、それは否定なさって雲から落ちたと主張している。それが、病気の症状で、妄想というものなんです。誤った考えを、頑なに信じてしまう。それが症状なので、正常な判断ができるように、矯正してもらう必要があります。がんの治療に、手術やガンマナイフ、抗がん剤など様々な選択肢があるのと同じことで、心の病気にもいろんな手段があるのです。その第一歩として、あなたは専門家に話を聞いてもらう必要があるのです。」

水穂さんが慎重に説明すると、

「そうなんですね!でもあたしにはそんなことは必要ありません。それよりも早くあの学校に、龍ノ介を雲から落としたことを、認めさせるほうが先です!」

志保さんはそういうのであった。

「お恥ずかしいことですが、おそらく、あなたが雲から落ちたと説明しても、学校側は何も納得もしないでしょう。それよりも、事実を説明しなければ。それには、病気のあなたでは、対峙できません。」

小久保さんは、専門家らしく言った。

「そうだよ。時間はかかるけど、お前さんが自分のことをちゃんと成文化して、泣かないで話すことができるようにならないと、全く前には進まない。そのために、専門家の力を借りるんだ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「すみません。こさせていただきました。タクシーがすぐ見つかりましたので、すぐ来られました。」

と、玄関から声がした。杉ちゃんがすぐ上がってくれというと、

「玄関の扉から、時計まで13歩。」

と言っているのが聞こえてくる。小久保さんが、急いで手伝いましょうと言って、すぐに廊下にいる涼さんの体を掴み、手を引いて水穂さんの部屋へ連れて行った。

「こちらにいる女性が、クライエントさんです。名前は、佐藤志保さん。佐藤さん、先程の話を、こちらの盲目の方としてみてください。この方なら、親身になって話を聞いてくれるはずです。」

小久保さんがそう説明すると、志保さんは、涼さんに頭を下げた。涼さんが、志保さんと二人きりにさせてくれというので、杉ちゃんたちは、食堂で待つことにした。涼さんは、水穂さんの部屋で、志保さんの話を聞き始める。杉ちゃんたちも、その話を壁伝いに聞くが、どうやら彼女は、龍之介くんが、雲から落ちたということをひっきりなしに話し続けるようなのだ。涼さんは、ウンウンと話を聞いている。それでは何も進歩もないじゃないかと杉ちゃんが言ってしまうほど、彼女は、雲から落ちたというしかないのだった。

40分ほど話をして、涼さんが、終わったと言った。杉ちゃんたちは、水穂さんの部屋へ戻ると、彼女は、少しつかれた顔をしていた。

「どうだ。話をずっと聞いてもらえて満足したか?」

と、杉ちゃんが言った。

「なんだか、ずっと雲から落ちた、雲から落ちたと繰り返していたようだけど?」

涼さんは見えない目で、なにか考えているような顔だった。

「もちろん、雲から落ちて死亡するという例は、人間であればまずありえませんね。」

水穂さんがそう言うと、

「それ以外の言葉は、40分のカウンセリングの中でも、何も発せられませんでした。」

と、涼さんが言った。

「どうしてそんなに雲から落ちたにこだわるんだろう?」

杉ちゃんがそう言うと、

「必要だから言うんでしょうね。それが必要だから。それを言うこと、妄想を言うことによって、なにか真実を伝えているのでしょう。」

水穂さんが言った。

「うーん、それにしてはあまりにも非現実的だぞ。」

杉ちゃんが言うと、

「そうかも知れませんね。ある意味ではシュールレアリスムに近いものかもしれません。現実を超えた現実。言うことができないから、別のことで置き換えて表現する。」

水穂さんは、そう彼女に言った。

「でも、彼女が、同じことしか言わないんだったら、それでは、何も意味がないよなあ。」

杉ちゃんが言うと、

「突破口はあると思いますよ。」

と涼さんが言った。

「何回か、カウンセリングを繰り返していけば、彼女は真実を話してもいいと思ってくれるのではないでしょうか。もし、口に出して言うのが難しいようであれば、心の傷を和らげる作業から始めたほうがいいです。それでもだめなら、彼女を誘導し、真実を語るように持っていけばいい。」

「はあつまり、併用療法ってわけか。放射線と手術の併用みたいなもんかな。」

涼さんの話に杉ちゃんがすぐ乗った。

「ええ、心の病気というのは、悪性腫瘍と違いまして、抗がん剤も、ガンマナイフも効かないで、対症療法しかありませんが、それで少しづつ真実、つまり心の悪性腫瘍に立ち向かうしかないでしょう。」

涼さんは、そう杉ちゃんに言った。

「わかりました。じゃあ、そうしましょう。抗がん剤投与、つまりカウンセリングを中心に、必要があれば他の専門家に頼みながら、彼女の治療をしていくしかありませんね。」

水穂さんがそう言うと、

「あたしは、治療ということでどうなってしまうんでしょうか?」

と、佐藤志保さんは小さな声で言った。

「大丈夫です。今よりもっと楽になって、もっと楽しくいきていけるようになります。」

水穂さんが優しくそう言うと、志保さんはそうですかと小さい声で言った。水穂さんは、にこやかに彼女の肩を叩いた。

ここからは佐藤志保さんの治療が開始された。まず初めに、涼さんによるカウンセリングで、真実を話してもらうことを目標にしたのだが、それをさせることはまずできなかった。何度涼さんが何があったか話をしてくれと言っても、彼女は泣くばかりで、龍之介が雲から落ちたとしか言わない。それを話すだけでも大変つらそうなので、杉ちゃんたちは、竹村さんに来てもらい、涼さんがカウンセリングを続けている間、クリスタルボウルを叩いてもらって、すこし落ち着いてもらうことにした。音というのは、少し人間を癒やしてくれるものらしい。クリスタルボウルの音を聞いた志保さんは、緊張こそとれてくれて、話はしてくれても、肝心の息子さんのことについては、雲から落ちたとしか言わないのであった。

「それにしても、困りましたね。彼女が、そのような状態では、裁判で勝てなくなるのは明白ですよ。学校側は、もう退学してしまったので、関係ないの一点張りです。」

小久保さんがそういう通り、学校との話し合いはなかなか難しいようであった。やはり何かあったらすぐ隠してしまおうと言う、お役人根性は、今も昔も変わらない。

「本当なら退学しなければよかったんですけどね。退学しないで、不登校という形であれば、まだ、学校側も証言をしてくれたりすると思うんですがね。」

「そうですか。こちらも、難航していまして。彼女は、雲から落ちたとか、羽を広げるのを忘れて落ちたとか、そういうことしかいいません。まるで真実を言うのを拒んでいるようです。」

水穂さんが、布団に座ったまま、小久保さんの話を合わせた。

「話しているとかなりつらそうだったので、竹村さんにクリスタルボウルを叩いてもらっている中で話してもらうようにしていますが、それも全く意味がなくて。彼女は、妄想を口にすることで、自分を守っているように見えます。」

「そうですか。妄想を口にすることで自分を守るですか。本当に辛かったんでしょうね。きっと真実を伝えるのも辛くて、妄想でそれを和らげようとしているのでしょう。」

小久保さんは、ちょっとため息を付いた。

「大体、統合失調症にかかる方は、妄想を口にするけれど、それが必要な状況に立たされているから、そういうのですよね。彼女の場合も、それによって、自分への衝撃を和らげているのでしょう。」

「水穂さんすごいですな。そんなこと、弁護士の僕にも思いつきませんでした。そうですか。必要な状況に立たされているか。しかし、必要な状況とは何でしょうかね。」

水穂さんが、そう言うと、小久保さんは言った。

「ええ、葬式、初七日、四十九日など人の出入りがあるうちはまだいいのですけど、そのうちばったりと人が来なくなって、それで悲しみが本物になるんですよ。それから、妄想が始まるのかもしれないです。それを自分で受け入れることができないから。そのときに、しっかり彼女を支えてくれる人が、いてくれたら、そうはならなかったと思いますよ。それが誰なのかはわからないですけど、彼女は、一人では、息子さんの死を受け入れることができなかったんでしょうね。だから、妄想というものにすがって、自分の苦しみを和らげているんですね。」

「そうですなあ。水穂さん。そういうことはなんで、人間界にもっと広まらないのでしょうか。精神疾患のことを説明するのにも、症状ばかりが説明されていて、接し方とか、予防法がまるで書かれていないんですよ。だから、変な人だと見てしまうだけでしょう。」

と、小久保さんは、感心したように言った。確かに、水穂さんが言っているようなことが、もう少し、文献などで説明されていれば、精神疾患ももう少し減るのではないか。

「だから何度もいいましたが、龍之介は、雲から落ちて死んだのです。」

という、志保さんの声も聞こえてきた。涼さんの、今日のところはこれまでという声がして、竹村さんが帰っていく音も聞こえてきた。それと同時に、白い杖で、周りを探っている音がして、涼さんがやってくる音がした。

「今回もカウンセリングは、失敗でした。彼女は、雲から落ちた、そして、羽を広げるということを忘れて落ちたのだと言っています。何度も抗がん剤投与をしていますが、こんなに失敗を繰り返しているのですから、他の手段に切り替えたほうが良いと思います。」

涼さんは見えない目で真剣に言った。

「今回の悪性腫瘍は、グリオーマと同じくらい難しいものですね。それなら、もっと高度な治療法をお願いしたほうがいいでしょう。竹村さんには、引き続き一緒にいていただいて、次は天童先生にお願いしたほうが良いと思います。」

「天童先生?」

水穂さんがそう言うと、

「はい。天童先生に誘導していただいて、悪性腫瘍を、取り除いてもらいましょう。開胸手術とにたようなものです。顕在意識と呼ばれる、日頃から感じていない部分にアクセスさせてもらって、そこから真実、つまるところ、悪性腫瘍にたどり着きましょう。」

と、涼さんは言った。その顔は真剣だったので、水穂さんと小久保さんは、そうすることにした。すぐに天童あさ子先生に電話をかけて、佐藤志保さんの治療に当たらせることにした。

天童先生は翌日来てくれた。そして、居室の一つに布団を敷いて、佐藤志保さんに、そこで寝てもらう。天童先生は、枕元に、正座で座った。佐藤志保さんに目を閉じてもらい、

「それでは、まず、静かな森の中にいることをイメージしてみましょう。気持ちがとても落ち着いている。ここでは、あなたをバカにしたり、笑ったりする悪人は誰も降りません。」

と、佐藤志保さんにいう。

「さあ、そこで何が見えますか?見えるものを、順番に言ってください。」

「はい。学校が見えます。学校です。」

佐藤志保さんはそう言った。

「学校ですか。じゃあ、その中に入ってみましょう。何をしていますか?生徒はいますか?それとも先生がいますか?」

天童先生はそう志保さんに言った。

「ええと、ああ、体育の授業が行われているようです。笛に合わせて踊っているのでしょうか。」

志保さんは、そう言った。竹村さんが、静かにクリスタルボウルを叩いた。

「いや、違いますね。もっと軍隊的なもの、ああ何だろう。ああ、これは多分、体操でしょうか。あ、見える見える!龍之介が見えます。ああ、一番上に立って。あの子は、小柄な子だから、一番上に立たされたたのでしょうか。」

志保さんは、そういったのであった。その表情はとても苦しそうであった。竹村さんはその間にも叩き続ける。天童先生が一言、

「人間ピラミットを作っているのですね。」

と言った。

「ええ、そうなんです。龍之介は、そのピラミッドに乗ってたとうとしたとき。」

と、志保さんは言った。彼女は、目をつぶってくれているようであるが、それ以上話を続けさせると、大変そうだと思った天童先生は、

「では、息子さんに、これからどうなるのか、注意してあげましょう。」

と、静かに言った。

「お願い。もう10段のピラミッドを作らせるのはやめてください。これが崩れて、龍之介は頭から落ちて、他の生徒さんも大怪我を。そして、龍之介も死亡してしまったのですから!」

志保さんは、そういったのであった。

「わかりました。わかりましたよ。きっと息子さんはあなたの注意を聞いてくれていることでしょう。」

と、天童先生が言うと、志保さんは涙を見せた。心の悪性腫瘍である、真実がわかった瞬間であった。

「本当にそうでしょうか?」

志保さんがそう言うと、

「はい。それはちゃんと息子さんに伝わっています。それでは、現実世界に戻りましょう。息子さんには運動会へ向けて頑張れと言って、学校の校門をくぐってください。」

と、天童先生は言った。竹村さんがまたクリスタルボウルを叩いた。

「くぐりました。」

と、志保さんが言うと、

「では世界と世界との間の森に入りましょう。そしてしばらく横になって、のんびりしてください。」

と天童先生が言った。静かに、志保さんは大きくいきをした。そして、竹村さんのクリスタルボウルを、静かに聞いていた。それを数分聞き続けて、

「はい、ゆっくり目を開けてください。」

と、天童先生が言うと、志保さんは目を開けた。竹村さんは、マレットを置く。

「私、どうしたのかしら?」

と志保さんはいうと、

「ええ、真実を語ったのです。」

天童先生は言った。

「まだ、それをいうのに抵抗があるようなので、それでは何回かこのセッションを続けていきましょうね。そうすれば、心の傷も、苦しまずに口に出すことができるようになるでしょう。」

「つまり、雲から落ちたのではなくて、人間ピラミッドから落ちたということですか。」

水穂さんが小さな声で呟いた。真実はそれであるけれど、彼女にはできるだけ、小さな声で伝えてあげたほうがいいんだとみんな思った。やがてそれが、大きな声で言えるようになるまで、セッションを続けなければならないと、みな思っていた。

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雲から落ちた 増田朋美 @masubuchi4996

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