埼玉県久羽宇市棚町シエル久羽宇西501号室

 村澤が後藤の自宅を訪れたのはある冷え込んだ日の午後のことだった。居間に通された村澤はひととおり室内を眺め回したあと、もっと儲かってるもんだと思ってたよ、と言った。そこはごく庶民的なマンションの一室で、台所と直に通じており、目につく家具といえば向かい合わせになった二組のソファとローテーブルのみといった殺風景な部屋だった。

「貯金が趣味なんだよ」

 後藤はあまり本当のことを言っているようには聞こえない口調でそう言ったあと、そんなことを言うために来たの、と口の端で笑ってみせた。

「ここに呼んだのはあんたのほうだろ」後藤がどうぞと指し示したソファに座り、村澤はため息とともにつぶやく。「おれは話ができればどこでもよかったんだけど」

 そうだね、と後藤は笑みを崩さないまま村澤の対面に腰を下ろした。それから、お茶の一杯も出さないの、と村澤が皮肉っぽく言うまで、少しばかり間があった。

「図々しいなあ。悪いけど、なんにもないんだよ、今」

 後藤はいかにも面倒そうに立ち上がって台所へ入り、適当なコップに水道水を注いだだけと思しきものを村澤に差し出した。村澤はやや眉をひそめて「どうも」と受け取ったが、飲もうとはせずテーブルの上にそれを置いた。

「元気してるみたいだね」

「ああ、別に世間話がしたいわけじゃないんだよ。おれって暇じゃないんだ。あんたもだろうけど」

 ぼくなんてちっとも、きみのような大俳優と比べたら、と後藤は大袈裟な手振りをして世辞を並べる。それをひと睨みしてから、村澤は感情を抑えた低い声で言った。

「おれがなんの件で来たか、わかってるよね。いや、わからないわけないよな。ああいうの困るんだ。一言もくれないで勝手にあんなの書かれちゃさあ、立つ瀬ないよ、こっちとしてもさ」

「うーん」後藤は足を組み、ソファの背もたれに寄りかかる。「まあ、とぼけるつもりもないけど。きみが何か損するようなこともないでしょう」

 あるんだよ、と村澤はあからさまに苛立ちを声に出した。

「実際あったことを書きたいなら、全部事実のとおり書いてくれよ。中途半端なことはやめてくれ。人死にが出たことまで事実と思われかねない。確かにおれたち昔芝居中に事故起こしたよ。でも後輩死なせたりなんかしてないし、大学出てから集まったことだってない。そうだろ」

 後藤は村澤の弁を黙って聞き終えたあと、ふと首をかしげた。

「全部事実のとおり書いて何が面白くなるっていうのか、わからないね」

「ああ……そういうこと言うかい」そうか、そうか、と村澤はしきりに頷いてみせる。「じゃ言わせてもらうけどね。おれたちが人殺しの後ろ暗い連中だってことにして、それで面白くなってるんならともかくだ、そもそもつまらなかったよ、あの芝居は」

 うすら笑いを浮かべたままの後藤の片眉がわずかに動いた。はは、と村澤は乾いた笑い声を上げ、「どうしたんだよ、呉凍寒ともあろうものが」と吐き捨てるようにつぶやいた。窓の外でひとつ強い風が吹き、ガラスがかたかたと音を立てる。

 後藤はゆっくりと一度まぶたを閉じ、また開いて「あれはね」と静かに言った。

「あれは、ぼくが書いたんだよ」

「……ああ。……ん? 何が、言いたいの」

 呆気にとられた村澤の顔を見据え、彼は淡々と「呉凍寒にはずっとゴーストライターがいたんだけどさ、逃げられて」と続ける。

「待て」村澤は片手を挙げてそれを制止しようとする。「待ってよ」その声はかすかに震えている。「待ってくれ。なんだ、その話。急すぎるよ」

「きみが知らなかっただけだ」

 後藤はただひたすら平然としていて、驚愕を隠せない村澤に取り合おうともしない。

「まあ、誰にも言ってなかったんだけどね。幼馴染の男でね、もとは小説家志望で、面白い話を書くやつで」

「だから待てよ、それって、ずっと、全部、そのゴーストライターが書いてたっていうのか」

「大学の頃はぼくも書いてたよ。だけどあいつの書く話のほうが評判だったから、任せるようになった。あいつ男が好きでさ、ぼくに惚れてたから、一緒にいてやる代わりにね」

 村澤は何か言おうとして口を動かしたが、どんな言葉も出ては来なかった。

「でも最近になってもうやめるなんて言い出してね。新しい相手ができたらしくてさ、そいつに唆されたのか知らないけど、まあ、要するにぼくに飽きたんだ、あいつは。説得できなくて出て行かれて、しかたないから久しぶりに自分で書いたらあの出来だろ、自分でも呆れたよ、そりゃあ。で、こんな体たらく見たらあいつだってさすがに情けのひとつでもかけてくれるんじゃないかと思って、呼び出して、あれ読ませて、頭下げたよ、戻ってきてくれって。だけど決裂。全部公表するって言われてさ」

 後藤はつらつらとそこまで喋り、突然口をつぐんだ。長い沈黙があった。壁掛け時計の針の音だけがしばらく室内に響いて、やがてしびれを切らした村澤が「それで?」と尋ねた。

「だから殺したよ」

 後藤は台所のほうへ顎をしゃくってみせる。村澤がそれに従って視線を動かした先に冷蔵庫があった。

「しょうがないね、こればっかりは。どうしようもなかったよ」

「はっ」村澤はせせら笑うような声を立てたが、それは動揺のあまりのことらしかった。「なに、言ってんだ」

 後藤は村澤の様子を眺め、肩をすくめて「開けてみても構わないよ」とうながす。村澤は引きつった顔で何か言いたげにして、しかし何も言わずにソファから立ち上がり、おそるおそる冷蔵庫へ近寄っていった。そしてその前に立ち、扉に手を伸ばして、しかし開ける寸前でぴたりと動きを止めた。

 一瞬だけ、凝固したような静寂があって、それから後藤が大笑いを始めた。村澤はぎょっとして振り向く。

「信じたね」後藤は咳き込みそうな勢いで笑っている。「そんなことあるわけないでしょう。次の芝居のネタなんだけどね、どうだろう。面白いかな」

「あ……はは。まあ……うん、そうだなあ」

 ぎこちないながらも笑い返し、おれはそんなに好きじゃないけど、と村澤は応えた。絞り出すような声音だった。

「そう。前が駄作だったから次こそはと思うんだけど。スランプってのはなかなか抜け出すのが大変だね」

 他人事のような口調でそうつぶやく後藤から視線を外し、村澤はソファへ戻る。

「もう……なんでもいいけどさ」

 空中を見つめ、何度かまばたきをするその姿には、疲れの色が濃く出ている。

「もしまたモデルに使ったりするなら、次からは先に一言くれよ、頼むから」

 村澤はテーブルに置いたままだったコップを持ち上げかけたが、ふと凍りついたようにして表情を固くし、コップと後藤の顔とを見比べて手を離した。

「……じゃあ、そろそろ」

 おいとまするよ、と言って立ち上がる彼に、後藤は非難するような眼差しを向けて「きみが出せって言ったんだよ。もったいないな」とコップを手に取る。村澤は何も応えず、深くため息をついて部屋を出ていった。

 玄関扉の開閉音がして、後藤はひとりきりになった。彼は台所へ向かい、冷蔵庫の扉を開けて、僕の顔をじっと見つめた。それから彼はにっこり笑って、手にしたままだったコップの中身を一気に飲み干したのだった。

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劇毒 クニシマ @yt66

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