――もちゃ ~橘警部の名推理~

よし ひろし

――もちゃ ~橘警部の名推理~

「――?」


 床に縦書きで書かれた血文字を見て、たちばな警部は首を傾げた。


 春うららな日曜日の午後、西武池袋線の保谷駅近くにある五階建てマンションの三階にある一室で殺人事件が起こった。本来は非番であったが、溜まった書類の整理のために出勤していた橘が、否という間もなく駆り出された。


「えー、被害者はこの部屋の住人で小林稔こばやし みのる、四十五歳。現場の状況から玄関で訪問者を出迎えたところを包丁でみぞおち付近を一突きされ、その際恐らく犯人を廊下へと追い出し玄関の扉を閉めることに成功したものと思われます。施錠後、自ら腹に刺さった凶器を抜き、電話を掛けるためと思いますが、居間へと向かおうとしたところで昏倒。そのまま出血多量で死に至った可能性が高い、とのことです」


 そう報告したのは現場に先に駆けつけていた北川きたがわ巡査だ。


「なるほど…、で、力尽きる直前に書いたのが、この『もちゃ』か……」


 渋い顔をする橘警部。その意味するところが何なのか考えるが、一向に思いつかない様子だ。


「北川くん、この『もちゃ』については何かわかっているのかね?」

「いえ、今のところはなにも。ただ『もちゃ』の前に少し波打った縦線が伸びていますので、何々もちゃ、とか何からもちゃ、などという可能性もあるかと。“や”が大きい場合は『もちや』となりますので、どこかの餅屋、店か会社を示している場合もあるかとも思いますが……」

「餅屋か。ふむ……。ところで、第一発見者は?」

「はい、それは被害者の妻でして、朝から池袋の方に買い物に出ていて、帰宅したところで発見、すぐに救急に連絡したようです。その際玄関は施錠されていたとのことです」

「で、その奥さんは今?」

「はい、被害者は蘇生の可能性もあったので緊急搬送され、彼女も付き添って病院に。今もそのままそこにいるはずです」

「そうか…、で、室内は荒らされていないのか?」

「はい、見たところ物色された形跡はありませんので、先程話したように、犯人は被害者に締め出され、そのまま逃走したものと思われます」


 北川の報告に橘は軽く頷きながら、廊下を奥へと歩き出した。


「電話はここか……」


 廊下の先、リビングの入口に電話が設置されていた。被害者がここを目指して来たという話も納得できる。

 電話の横に置かれたメモ帳を開いてみる橘警部。そこには人の名前と場所らしきものがひらがなで殴り書きにされていた。その文字の感じは、床に書かれた血文字と似ていた。


「……『もちゃ』のヒントはないか」


 軽くため息をつき、リビングへと歩を進める橘。ぐるりと室内を見回した。


「確かに物色された痕跡はないな。――窓の鍵はどうなっていた?」

「すべて施錠されていました。いわゆる密室って奴ですね。もっとも玄関の鍵には被害者の血の付いた指痕がしっかりと残っていましたので、彼が自ら施錠したのは間違いないと思われます。密室殺人は成り立ちませんね」

「ドラマじゃなんだ、密室殺人なんてありえんよ。――それよりも、このマンション、管理人は常駐していないようだな」

 先程下のエントランスを通った時、管理人室らしきものがなかったのを橘は確認していた。

「裏のマンションとオーナーが同じで、管理人室もそちらにだけあるようです。また監視カメラも設置されていないとのことでした」

「そうか……」


 橘は眉間にしわを寄せ何事かを考えてから、再びリビング内を見回した。そこであるものを見つけ近寄る。


「麻雀大会のトロフィーか」


 サイドボードの上にいくつか並ぶトロフィーのプレートを見て橘が呟く。どうやら被害者は麻雀好きのようだ。


「麻雀……、そうか、もしかしたら――。北川くん、奥さんに連絡は取れるか。確かめたいことがある」

「えっと、確か水瀬みなせがついているはずですから、電話してみます」


 そこで北川がスマホを取り出し、すぐに同僚に電話をかけた。そして、一分ほどで被害者の妻が電話の向こうに出る。そこで橘がいくつかのことを確認して、電話を切った。


「北川くん、下だ、この部屋の下の住人に事情を聴きにいくぞ!」

「え、あ、はい!」

 速足で部屋を出る橘の後を北川も急いでついていった。



▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽



「橘警部、どうして分かったんですか、すぐ下の住人が犯人だと?」


 犯人を無事逮捕し、署に戻って一休みしたところで北川が訊いた。


「『もちゃ』だよ『もちゃ』」

「『もちゃ』ですか?」

「あれは『もちゃ』ではなく、その上の縦棒の様なものも含めて『しもちゃ』と書かれていたんだ」

「しもちゃ……?」


 その言葉にピンとこないのか北川が首をかしげる。その様子を見て橘がしょうがないなといった感じで説明した。


「麻雀用語だよ。しもちゃ――下家とは、卓を囲んだ時の相手の座る場所をさす言葉だ。向かいが対面といめん。左手が上家かみちゃ。そして右手が下家しもちゃだ」

「へぇ~、そうなんですかぁ」

「被害者は相当の麻雀好きだったようだからな。そこで被害宅の左手、つまり室内から玄関に向かって左隣を指しているのかと思ったが、そこには部屋はない。となると、文字通り、下の家、つまりすぐ階下の部屋の住人を指しているのではないかと思ったのだ」


「なるほど。それで奥さんにご近所トラブルはなかったかを聞いていたんですね」

「ああ。どうやらしばらく前から足音がうるさいと苦情がきていたそうだ。もっとも被害者宅では心当たりがないと突っぱねていたようだがね。もしかしたら他の部屋の足音が伝わったのかもしれんな」

「確かに集合住宅って、変な風に音が響いていきますものね」

「ああ、それでも上の住人が音の根源だと思い込んでいた犯人が、あの日とうとう――ということだ」


「そうですか…。あれ、でも、なら犯人は顔見知りですよね。被害者は何故名前そのものを残さなかったんですか?」

「それが、被害者は人の名前を覚えるのが苦手らしい。みな自分なりのあだ名をつけて話すそうだ。奥さんの話では、犯人のことも下の奴とか、下家しもちゃ、とか呼んでいたそうだ。それに咄嗟にメモを取る時にはすべてひらがなで書く癖があるようだ。電話の横のメモ帳も全てひらがなで書かれていたからな」

「へぇ、それであのダイイングメッセージになったんですね。――でもさすがです橘警部。“閃きの橘”の面目躍如ですね」

「さすがでも何でもないさ。それよりも、また片づける書類が増えそうだ。勘弁してほしいね……」



おしまい

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