春風の消失

大堂林

春風の消失

金曜日の夕暮れ。

駅のホームに吹き込む生暖かい春の風が、大吾の頬をなでた。

その風は、彼の緊張を見透かすかのように、

軽く彼をもてあそぶと、すぐにどこかへ去っていった。

大吾は気づかぬうちに前髪を押さえていた。

何度目かも知れぬ手櫛を入れる。

指先に絡む汗は、近年のたがが外れたような気温上昇によるものだけではない。

緊張しているな、と大吾は思った。

手にしたスマートフォンをちらりと確認する。


――待ち合わせ時刻まで、あと10分。

無機質なデジタル表示の時計が進むたび、どうしようもなく胸が高鳴る。

大吾は目を閉じて深く息を吸った。

ぬるい空気が肺に入り込み、心臓の鼓動をわずかに穏やかにする。

それでも、まだ心の奥では、何かが震えているようだった。

もう20分も前から、同じ行動を繰り返していた。

スマートフォンの画面を見る。

待ち合わせの時間が迫るたび、何度も何度も確認してしまう。

足元を見つめ再び顔を上げ、駅のホームをぼんやりと見渡す。

あまりにも時間の進みが遅く感じて、かと思えば早く過ぎ去ってしまうような、

ある種、現実離れした時間感覚の中で大吾は何度も手を、

学生服のポケットに突っ込んでは、また出すという動作を繰り返していた。


隣の県に、夜の桜を見に行く。

依子と付き合い始めてから、初めての待ち合わせ。

初めての彼女、そして初めてのデートというものに、

緊張と不安、そして過大な期待を抱いている自分に気づき、思わず苦笑する。

汗ばんだ手でスマートフォンを握りしめ、首を振った。

それでも浮かび上がってくる、

可愛らしい後輩の微笑みに、大吾は知らず口元を緩めた。


ふと、視界の端に人影が映った。


「ねえ、大吾?」


大吾の名を呼ぶ、どこか懐かしい声。

その声を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。

顔を上げると、そこには長い黒髪を揺らす女性が立っていた。



「……依子?」



――いや、違う。





「ゆり……?」




信じられない思いで目を見開く。

幼なじみのゆり。

最後に会ったのはもう何年、前の事だろうか。

幼いころ2人きりで、ゆりと遊んでいた記憶が、堰を切ったようにあふれ出した。

まるで現実離れした美しさだった。

白いワンピースが風に揺れ、凛とした空気をまとっている。

ゆりは“女性”になっていた。


「久しぶりだね、大吾。元気にしてた?」


「え、ああ……久しぶり、だね。なんか、すごく……変わった?」


ゆりは微笑んだ。


「そりゃ、時間も経ってるしね。色々変わるよ。」


じっと見つめるような視線に、大吾は居心地の悪さを感じ、眼をそらす。

自分の学生服姿と、大人びたゆりとの対比を、やけに恥ずかしく感じた。


1つ年上のゆりは、すでに大学生か。

ゆりは懐かしいはずなのに、どこか掴みどころのない雰囲気を漂わせていた。

昔からミステリアスなところがあったが、

今はそれが一層強くなっているように感じる。


「ところで、大吾は今、誰か待ってるの?」


その問いに、大吾は思わず言葉を濁した。


「えっと……まあ、うん。」



「ふーん。デート?」



大吾は言葉に詰まる。

その一瞬の間が答えになったようなものだった。


「そっか。大吾にも、そういう相手ができたんだね」


ゆりは優しく微笑んだ。

そうなのだ、昔からゆりに隠し事ができた試しがないのだった。

いつも何かを見抜くような、ゆりの視線に、

再び懐かしさを感じると同時に、何か言い知れぬ気まずさを感じ、身を固くした。

「ゆりは・・・・・・」と言いかけて、言い淀む。

その答えを大吾は、できれば知りたくないような気がした。


「・・・・・・あ、いや、なんでもない」


取り繕うように視線を戻すと、

ゆりは笑みを深くして、手の平をゆっくり、振るようにして言った。


「ありがとう。会えて嬉しかったよ!」


「あ、ああ・・・・・・」


「じゃあ、ね」


そのまま踵を返すゆりの満面の笑みは驚く事に、どこか寂しげにも見えた。

何か言葉が浮かんだ訳ではない。

何か言わなくてはと思って、立ち上がり口を開きかけたとき。



――轟音。



特急電車が通過する、その音に気をとられたのは、ほんの一瞬。



意識を戻した瞬間――




――ゆりが、消えた。




目の前から、音もなく、影もなく、たった一瞬で。


「……え?」


大吾は信じられない思いで、辺りを見回した。


「ゆり……?」


さっきまで確かにそこにいたのに。確かに話していたのに。

大吾の心臓が、激しく脈打つ。


――今のは・・・・・・?


そして、そのとき――。


「大吾くん!」


明るい声が響き、大吾の思考を引き戻した。

振り向くと、依子が嬉しそうに駆け寄ってくる。

彼女は制服姿のまま、小さなショルダーバッグを提げていた。


「待たせちゃった?」


「いや……ううん。」


大吾はぎこちなく笑ってみせた。

目の前にいる依子は、眩しいくらいに現実的な存在だった。

だが、大吾の脳裏には、まださっきの出来事がこびりついて離れない。


「どうしたの・・・・・・?」


「いや、なんでも・・・・・・」


歯切れの悪い答えに、依子は訝しげな視線を向ける。


「あ、大吾くんスマホ、光ってるよ!」


「え?」


見ると、大吾が握りしめているスマートフォンのライトが点灯していた。


気がつかなかった。

汗ばんだ手で何度もスマートフォンを操作していたから、

いつしか誤操作してしまったのだろう。

急いで消灯の操作をしていると、大吾はさらにボイスメモのアプリが

意図せず起動している事に気がついた。

思わずスマートフォンを耳にあてて、先ほどのゆりとの会話を再生する。


「何、電話!?」


依子は思い詰めたような大吾の様相にただ困惑していた。


聞き返すのは、ほんの数十秒で良かった。

ゆりが消えたのはたった今なのだから。

自分の声が止み、依子の明るい声が響いたとき、全てを悟った。


「・・・・・・大丈夫? 具合悪いなら・・・・・・」


言いかけた依子の手を大吾が強く握る。


「大丈夫、行こう!」


途端、顔を赤くした依子を半ば引っ張るように歩きながら、

幼い頃の記憶を思い起こしていた。


公園の砂場で落とし穴を作ったこと、用水路でカエルを捕まえたこと。

森でキレイな石を集めたこと。秘密基地に花を植えたこと。


ゆりと遊んでいた頃の記憶。


遠く忘れ去ってしまった数々の思い出が蘇る。

いつも、2人きりだった。

ゆりと遊んでいた記憶の中に、他の誰かがいたことはない。




――――――イマジナリーフレンド。




児童期にみられる空想上の友人。

孤独だった幼い頃、大吾も理想の友人を作り出していた。

自分を理解し、そばにいてくれる存在。


大切な宝物。

それが、いつしか姿を消してしまった事に、

自分は何故、気がつかなかったのだろうか。


最後に会いに来たのは――――――。


『ありがとう。会えて嬉しかったよ!』


――大吾は静かに目を閉じた。


「大吾くん?」


依子が不思議そうに覗き込む。

大吾は彼女を見つめ、微笑んだ。


「……いや、なんでもない。桜、たくさん咲いてるといいね」


ゆりのいた場所をもう一度振り返る。

生暖かい春の風が、大吾の頬をなでた。


そこにはもう何もなかった。










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春風の消失 大堂林 @DydoLynn

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