田園
増田朋美
田園
寒さ少し和らいで、過ごしやすくなって来たようだ。たまに、寒い日もあるが、以前よりだいぶ過ごしやすくなってきたような気がする。
その日も、製鉄所では、いつもと変わらず、水穂さんがピアノを弾いていた。今西由紀子は、心配そうにそれを眺めていたが、演奏が突然止まってしまったので、由紀子はすぐ水穂さんのそばへ行く。水穂さんは、疲れてしまったのか、えらく咳き込んでしまっていた。鍵盤を汚してはたまらないと思った由紀子は、すぐに口元を拭いてやるが、そのちり紙はすぐ赤く染まった。
「水穂さん大丈夫?苦しい?いま薬持ってくるから待って。」
由紀子は、すぐそういって、枕元にあった水のみを取って、水穂さんに渡した。水穂さんは、すみませんと言ってそれを受け取り、中身を飲んだ。それを飲んで数分ほどして、やっと咳が止まってくれた。
「横になりましょうか。もうゴドフスキーを弾くのは辞めて、ね。」
「ゴドフスキーではございません。ベートーベンの田園です。」
由紀子は、そんなことはどうでもよいから、とにかく水穂さんに横になってもらいたかった。すぐに水穂さんに肩を貸してあげて、なんとか布団に横にならせ、かけふとんをかけてあげた。
それと同時に、製鉄所の玄関の扉がガラッとあいて、
「こんにちは、竹村です。クリスタルボウルのセッションに来ました。」
と台車を押す音がして、竹村さんがやってきた。
「竹村さんだ。」
水穂さんはねていてはいられないという顔をして布団に座ろうとするが、由紀子はそれを止めた。それより、休んで眠ってほしいと思ったが、水穂さんは、布団の上に座ってしまう。由紀子は、竹村さんのセッションを断ろうとしたが、竹村さんは、台車を動かしながら、水穂さんの部屋に入ってしまった。
「こんにちは。今日はだいぶ暖かくなりましたね。これからもっと楽になるから、よい季節になりますよ。これからも、おいしいものたくさん食べて、楽しく生活できますよ。」
そういいながら竹村さんは、縁側にクリスタルボウルを置く。クリスタルボウルは全部で、7つあり、持ち運びが大変重たい楽器であることは、由紀子も知っている。だけど、竹村さんを手伝う気にはなれなかった。
「美代子さん、ちょっと手伝っていただけますか?」
竹村さんは、そう声をかけた。
「美代子さん?」
由紀子が思わずそういうと、
「はじめまして。鷲尾と申します。鷲尾美代子。よろしくお願い致します。今月から竹村さんのところで、クリスタルボウルを習わせていただいています。」
と、女性がひとり入ってきた。かわいいピンクの着物を着た彼女は、ちょっとあどけない感じがある若い女性だった。どこか、何かワケアリという雰囲気も持っていた。まあ確かに、ヒーリングを習いたがる女性は多い。しかし、ヒーラーになる人がこれだけ多いのに、クライアントの数が減らないのはなぜだろう?
美代子さんは、竹村さんといっしょに、クリスタルボウルを7つ、縁側に置いた。
「じゃあ、これから30分聞いていただきましょうか。眠っても構いませんし、疲れたらやめても構わないですよ。」
竹村さんはそういってマレットを取ったが、
「竹村さんごめんなさい。水穂さん、先ほど発作を起こしたばかりなの。だから今日は、眠らせてあげたいの。」
由紀子は、思わずそういうが、
「いいえ、クリスタルボウルを30分聴くと、8時間眠ったのと同じくらいのリラックスが得られますよ。」
と、隣に座っていた美代子さんがいった。
「でも眠らせてあげたくて。」
由紀子がそういうと、
「そうですか。それは大変。お医者さんには見せたんですか?」
と、美代子さんはいう。
「それができたら、苦労しないわ!」
由紀子は思わず言った。
「まあ落ち着いてください、由紀子さん。そういうことなら介護する由紀子さんも大変でしょう。水穂さん、事情がありまして、対症療法しか受けられないんですよね。そういうことなら、美代子さんに手伝って貰うのはいかがですか?美代子さんも、いい経験になると思いますよ。」
竹村さんの提案に、由紀子はびっくりした。
「わかりました。介護の手伝いというのはあまり経験がないですけれど、その気になりましたら、頑張ってやらせていただきます。」
美代子さんがそう言うので更にびっくりしてしまう。
「じゃあそうさせてもらったほうがいいですね。こんな風になっているんじゃ、誰かに手伝ってもらったほうがいいでしょう。僕が理事長さんに言っておきますから、美代子さん、水穂さんの世話をしてあげてください。」
竹村さんがそういった。由紀子は不服そうに水穂さんを見ると、水穂さんは、疲れ切った表情で、眠ってしまっている。
そういうわけで、理事長のジョチさんにも了承をもらって、鷲尾美代子さんは、水穂さんの世話係として、製鉄所に出入りが許可された。美代子さん本人は、介護の仕事などしたことはないと話していたが、実に手際よく水穂さんの世話をしてくれた。食事の世話をするのも、排泄の世話をするのも、着替えをさせるのも、美代子さんはすごくなれた手つきで、世話をしてくれた。
それは本当に、素晴らしいものであったが、美代子さんは少し不可解なところがあった。美代子さんは、自分のこととか、家族のこととか、あまり人に話さない。他の利用者が、美代子さんの親のことを聞いても、また彼女の職業のことを聞かれても、
「ごめんなさい、家のことはあまり人に話したくないの。」
と、いうだけであった。それも、ちょっと軽い笑みを浮かべた、変な表情で。それに、服装がいつも同じピンクの色無地の着物であるのもおかしい。本人は単に着物が好きだからと言っているだけであるが。
「どうもわからないわ。あの女性。」
由紀子は、杉ちゃんとご飯を食べながらそう言ってしまった。
「まあそうだねえ。よく働いてはくれるけどね。」
杉ちゃんもうどんを食べながら言った。
「確かに水穂さんの世話をしてくれるのはありがたいんですけど。でも、ちょっと変なんですよ。なんで自分のことは、あれほど話さないんだろう。まるで拒絶しているみたいだわ。ちょっとは、自分の事を言ってもいいのではないかな?」
由紀子は思っていることを吐き出すつもりで言った。
「そうだねえ、いつまでも家のことはあまり話したくないで通すわけにも行かないだろう。でも、どう見てもあれは訳アリだな。まあ、そのうち、彼女が自分から話してくれるんじゃないのかな。」
杉ちゃんはそう言うと、
「本当に彼女は話してくれるかしら?」
由紀子は、疑い深く言った。
「まあ、ねえ。そのうち話さなければならない場面も出てくるんじゃないか?」
「杉ちゃんほんとのんびりしてるのね。あたしは、なにか危険なことが起きそうで仕方ない。なにかいけないことが起きて、この製鉄所の平和も壊されるような気がしちゃうわ。」
杉ちゃんに言われて由紀子は、不安そうに言った。
「はあ、由紀子さんヤキモチか?」
杉ちゃんはそういうのである。
「そういうことじゃないけど。杉ちゃん、何でも軽く考えないでよ。あたしは、これでも真剣に悩んでいるのよ。」
由紀子は、真剣な顔つきでそういったのであるが、
「ほら、やっぱりヤキモチだ。いわゆる三角関係かな。」
杉ちゃんはカラカラと笑った。それと同時に、水穂さんがまた咳き込んでいる声が聞こえてくるのだった。由紀子は、急いで水穂さんの部屋に直行しようとしたが、その前に、美代子さんが、水穂さんの部屋にいって、手際よく背中を叩いたり、薬を飲ませたりしている。由紀子はそれを見て、なんだか水穂さんが、美代子さんにとられてしまうような気がした。
その日、製鉄所に電話がかかってきた。今どき固定電話を設置している事業所も珍しいが、電話は杉ちゃんが出た。
「はいもしもし。何だ蘭か。どうしたの、こんな時に電話なんかよこしてきて。」
「いやあ、たいしたことないんだけど、みんな元気?」
そういう蘭の声は、いかにも心配そうだった。
「そっちへいきたいんだけど、今、刺青の仕事が忙しくてね。それで電話をかけさせてもらった。」
「はあそうか。刺青師が忙しいってことは、リスカあととか消したい女性が多いってことか。まあ世の中病んでるよね。こっちは皆元気だと言いたいところだが、水穂さんが、毎日毎日咳き込んで血を出す発作を繰り返していてね。」
杉ちゃんはでかい声でそう言っている。
「そうか。それでお医者さんは?」
蘭は、そう言っている。
「ああ、どうせね。無理なものは無理!蘭も非現実的な事言うな。きっと、そういうことがない国家へ逃げるしかないって、ジョチさんも言ってた。」
杉ちゃんはでかい声で言った。それと同時に、
「ああそうなんだね!」
とやけくそになって蘭が電話を切ったのだろう。プープーという電話の音が聞こえてくる。
「全く、蘭は、こういうところが困るよ。すぐ感情的になって、金でなんとかしようとするんだから。それでは困るよな。ははははは。」
杉ちゃんは、そう言って電話機を離れたが、それを、鷲尾美代子さんが、見ていたのには気が付かなかった。
その日の午後も、水穂さんは、発作を繰り返した。これではまずいと杉ちゃんたちも思ったが、薬を飲ませるしか対処法がない。その夜は、歩けない杉ちゃんでは頼りにならないので、由紀子が廊下で寝させてもらうことにした。みんなが夕食を食べていたとき、水穂さんは静かに眠っていた。
その真夜中頃。水穂さんはまた咳き込んで苦しみだした。由紀子は、すぐに目がさめて水穂さんの部屋に行く。電気をつけてみると、またはいた内容物で畳が汚れていた。由紀子は、横になったままより、座らせたほうが楽だろうと思ったので、水穂さんを布団に座らせて、自分の肩に頭を乗せるようにさせ、とにかく背中を擦ったが、咳き込むのは止まらなかった。由紀子は、薬を飲ませたが、それでもおさまらない。由紀子は、誰か呼んでこなければと思って、急いでスマートフォンを取ってみた。すぐに電話がつながった。
「もしもし、水穂さんが大変なの。早く来て!」
とりあえずそれだけ言ったが、水穂さんが更に激しく咳き込むので、由紀子は電話をかけることも忘れて、水穂さんの背中をさすった。こうするしかできないことが、本当に切なかった。
「水穂さんお願い!戻ってきて!」
由紀子はそう言うしかできなかった。何回も何回も水穂さんの背中をさすって長い長い時間待っていたような。それと同時にさっとふすまを開ける音がした。
「由紀子さん。」
女性の声であった。誰だと思ったら、鷲尾美代子さんだった。
「病院へ連れていきましょう。」
美代子さんはきっぱりと言った。
「そんな!無理よ!無理なのよ!」
由紀子が言うと、
「どうして無理なのよ。みんな医療を受ける権利は誰でもあるじゃないの。命だけは平等だってスローガンにしている病院もあるわ。」
美代子さんはそういう。由紀子はこの人に、同和問題のことを説明しても理解できないだろうなと思って、
「世の中には、そういうことが当てはまらない人もいる。着物着てるんだったら、銘仙の着物のことくらい知ってるでしょ!」
と、思わずきつく言ってしまった。
「そうなのね。」
美代子さんは即答した。
「わかったわ、そういうことなら私にも考えがある。だったら、私の言う通りに動いてくれればいい。そういうことなら、救急車を呼ぶのも難しいでしょうから、私達で連れていきましょう。由紀子さん、車の運転を頼むわ。」
美代子さんがそう言ったので、今度は由紀子のほうが驚いてしまった。そういうことを彼女がまさか口にするとは。でも、美代子さんの顔は真剣だった。由紀子はこの人なら信用してもいいと思った。
「わかりました。じゃあそれでお願いします!」
美代子さんが、咳き込んでいる、水穂さんを背中に背負った。由紀子はすぐに自分の軽自動車のほうへ走っていき、エンジンを掛けた。美代子さんは、水穂さんを助手席を倒してそこに乗せ、自分は後部座席に座った。由紀子はどこへ行ったら良いというと、美代子さんは、ここであれば桜ヶ丘クリニックが一番近いと言った。由紀子は、スマートフォンのカーナビアプリを頼りにして、その桜ヶ丘クリニックという病院に言った。
桜ヶ丘クリニックという病院は、本当にこじんまりしていて、古臭い感じの病院であったが、美代子さんはこれで良いと言った。そして、水穂さんをまた背負うと、すぐに、病院の正面玄関のドアを叩いた。
「すみません!この人を見てやってくれませんか。咳き込んで苦しんでいるのです。お願いします!」
美代子さんがそう言うと、中から、一人の女性が出てきた。多分医者だということがすぐわかる。女性医師は、水穂さんが、銘仙の着物を身に着けていることはわかったようであった。
「とりあえず入ってください。」
そう言われて、美代子さんは水穂さんと病院内に入った。由紀子も心配になって、一緒についていく。
女性医師の指示で、水穂さんは診察台に寝かされた。女性医師は、水穂さんを聴診すると、
「これはひどいわね。」
と一言だけ言った。
「それだけでも良いんです。とにかく、咳き込んで苦しんでいるのを止めてやってください。」
美代子さんはそう懇願した。
「じゃあ点滴だけ打っておきましょうか。」
女性医師はそう冷たく言って、水穂さんの腕に点滴を刺してくれた。それにより、水穂さんは、咳き込むのをやっとやめてくれて、診察台の上で静かに寝ているだけであった。
「これでしばらくは大丈夫だと思います。まあ、とにかくひどいので、なんとかしてあげてください。そのときは、他の病院をあたってね。それでは。」
女性医師は点滴がなくなると、そういったのであった。美代子さんは、水穂さんをまた背負って、
「ええ、わかりました!そうさせていただきます!」
と、女性医師に言った。診察料は由紀子が払った。
由紀子と、美代子さんは、車に乗った。ふたりとも力が抜けてしまっていて、もうフラフラになりそうだったが、頑張って車を運転して、製鉄所に戻った。楽になって眠っている水穂さんを、布団に寝かせて、掛ふとんをかけてやった。美代子さんは、汚れた畳を拭いたが、もう血液が染み付いていて、汚れは落ちなかった。
「美代子さんって意外に強いのね。介護の仕事も上手だし。あのとき無理やり診察させることもできたでしょ。なんかすごいと思ったわ。ごめんなさい。なんかあなたってすごいことができるんだと思ったわ。」
由紀子は、思わず言ってしまった。
「なにか、そういう仕事でもしていらしたんですか?」
好奇心から由紀子はそういうのであるが、美代子さんは、あまりいいたくないような顔をする。
「いいえ、あたしは、何も大したことしてないのよ。」
そういう彼女に、
「そんなこと絶対ないでしょう。あなたなにか理由があるって、私ずっと思ってたのよ。水穂さんが、銘仙の着物着てるって言ったときも、あなた何も動じなかったでしょう?それも不思議だったのよ。だって、銘仙の着物を着てるってなれば、みんなすごく驚くか、逃げていくか、どっちかでしょ。」
由紀子は、にこやかに言った。美代子さんは、バレてしまったかという感じの顔をする。
「必要なときは、横車を押して、意思を貫き通すことも必要なのよ。あたしは、そういう仕事してたから、何となく分かるわ。」
美代子さんはそういった。
「それはどういうことですか?」
由紀子は、思わず言ってしまう。
「いやあ、大したことはないけど、あたしは、不法滞在とか、刑法に反したとか、そういう人の世話をしていた時期もあったから、それでそういう差別的な扱いをされていた人に、なれていただけよ。」
美代子さんは小さな声で言った。
「そうなんですか。」
由紀子は思わず言ってしまう。
「それじゃあ、そういうところって、つまり、刑務所みたいなところだったの?」
「そうかも知れないわね。」
美代子さんはにこやかに笑った。
「そうなんだ。」
由紀子は、少し納得した。
「でも、刑務所で働いていたのはほんの少しの時期だけよ。だって、あまりにも過酷な労働だったから、あたしは、辛くなってやめてしまったのよ。だから、全うすることはできなかった。だめな人間よ。」
「そうなのね。それで美代子さんは、ヒーラーになろうと思ったのね。それでは、理由もよく分かるわ。」
「そうなのよ。刑務所で、罪を犯した人の世話をするより、ヒーリングして、刑務所に入るような人を、減らすことをしようと思ったのよ。そのほうがあたしの性格にあっているかなと思ったのよ。」
美代子さんは、由紀子の言葉に対し、そういったのであった。
「そうかあ。明確な人生の目的があってすごいわね。あたしはただの、駅員に過ぎないし、何も大した事ない。」
由紀子が思わずいうと、
「由紀子さんは、水穂さんのことを支えてあげられる目的があるじゃないの。知ってるわよ。由紀子さんが、水穂さんのこと、本気で好きなの。」
美代子さんはそういうのであった。それを言われて由紀子は更に驚いた顔をする。
「そうなの?」
由紀子は、思わず言ってしまった。
「ええ。ちゃんとわかってるわよ。だから、由紀子さんがあたしのことを嫌ってるのもよく分かるの。」
美代子さんはにこやかに言う。
「どうしてそんなことを。あたしは、そんなこと全くわからなかったのに。」
由紀子は思わずいうが、
「いいのよ。一人の人を、一生懸命追いかけることができるというのは、幸せなことよ。それを忘れないで、これからも頑張っていきてちょうだいね。」
と、美代子さんに肩を叩かれて、
「そうなのね。」
と、言ってしまった。
それと同時にどこかで鶏が鳴いた。朝が来たことを知らせる鶏なのだろう。あたりが少しづつ明るくなって行く。
由紀子は電気をけした。もう朝の光が製鉄所を静かに照らしている。その光で水穂産を見ると、水穂さんは先程の血の気が失せたような顔ではなく、もう楽になった顔で、静かに眠っていた。美代子さんはこのまま寝かしてあげようと言った。由紀子もそのほうが良いと思った。
製鉄所の周りの田園風景に、静かに日が照っている。もうすぐ春なんだろう。
田園 増田朋美 @masubuchi4996
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