第33話 転落のはじまり
なんだろう、わたしは変な気分にひたっていた。
ナナに「母さん」と呼ばれてなんだかいい気分になっていたが、冗談で言った『お母さんコース』に対して『おはようのハグ付き』がほしいという想定外の答えに、もっとおかしくなってしまった。
彼が起きてこなくて、部屋に行ってみたら寝たふりをしてわたしを待っていたので、そこで変なきもちがわたしを満たして、そのままへんなことをしてしまった。
まるでわたしじゃないみたいに気持ちがおかしくなって、しないはずだったハグを思いっきりしてしまった。なんのためらいもなく。
彼を放して、「今日はここまで」なんて言って、そのままのきもちで操舵室まで戻ってきた。
そこで冷静になって――
ナナの要求した『おはようのハグ』は冗談だってことくらい、分かっていた。なのに彼の同意もとらず、やってしまった。
気持ち悪かっただろうか。
わたしは勢い余ってやっていたからそうは思わなかったけど、あのひとはそう思ったかもしれない。さすがに変な人だと思っただろう。
どうしてあのとき、あんなきもちに……
これからさき、どうしよう――
・・・・・・
あれからリリィとは必要最低限の会話しかしなくなり、食事も交代でとるありさまとなった。
当然、もう起こしにくることもなかった。
古式海図のデータは正確で、船は快調に走った。最後のテレポートでようやく通常の海域に戻り、そこで海図を現行のものに戻した。
他船がレーダーに映るようになり、その数は少しずつ増していった。人の活動があるところまで来たのだ。
目的地、第57389恒星系に進入したのはそれからすぐだった。海図に示された航路管制と連絡をとり、遭難者を乗せていること、重大な機密情報があるため軍用艦艇の派遣が必要であることを伝えた。
リリィは、その遭難者のひとり。ここで下船することになる。
管制からは停船を指示され、軽巡洋艦が向かっていると伝えられた。
停船しつつ待つことしばし、レーダーに新たな輝点が映った。船種識別装置に「NAVY SHIP」と表示が出ており、これが派遣された艦らしい。
『GSL209、こちらは軽巡洋艦CL559。無線感度はどうか』
「CL559、こちらGSL209。感度良好です」
『了解、こちらも感度良好。貴船が所持しているという機密情報についての説明を求める』
説明か。正直に話したとして、もしこの無線を義勇団が傍受していたら大変なことになる。義勇団の「ぎ」の字さえ無線で言うべきではない。
「CL559、傍受の危険あり。無線で説明できません」
相手の応答まで少し間があった。
『GSL209、よろしい。本艦は遭難者の受け入れと、その情報についての説明を受けるため、これより貴船に接舷する。現在の位置で停船を継続せよ』
「現在位置での停船継続、了解。以上GSL209」
レーダー上でのCL559は速力をそのままに、本船に向かってくる。本船はあくまで動かず、向こうの操艦に接舷動作を託す。
セレクターを船内放送に切り替え、送信ボタンを押した。
「総員に伝達する。本船はただ今停船しており、このあと軽巡洋艦と接舷する。先方の指示により、TSL2198乗員はここで軽巡洋艦に移乗することに決まった。移乗の準備を整え、次の放送を待て」
リリィはもう操舵室にさえ来ていない。たぶん居室にいるのだろうが、ぼくもそれを確認していない。
・・・・・・
『GSL209、こちらCL559。貴船の左舷に接舷する。用意せよ』
「左舷に接舷、了解。接舷用意します。GSL209」
制御システム、モード切り替え。他船との接舷。左舷のセンサーと索具、タラップを準備して標識灯を点灯する。巡洋艦が正面に見えてきた。
船内放送に切り替え、乗船者たちに最後の案内を行う。
「総員へ伝達する。本船はまもなく巡洋艦と接舷する。仮設営倉の鍵は操舵室から解除する。営倉を出て、左舷の舷門へ集合せよ」
やってきた黒い巡洋艦は右に舵を切りつつ本船を行き過ぎたあと、反転しつつ近づいてきた。後ろから減速しつつ近づく巡洋艦に対し、誘導用レーザーを照射する。双方のシステムが互いの船を確認し合いながら接近し、相対速度を合わせてぴたりと横に並ぶ。
軽巡から索具が放たれ、本船が受け取って巻き取る。本船から送った索具も受け取られ、相手の船体が近づいてきた。
船体を直接当てないよう、防舷物を出して待ち構える。すぐ、ぐっと防舷物が両船に挟まれて、接舷状態となった。
索具のひとつには通信回路が仕込んである。有線通信ができるようになった。
『GSL209、本艦からタラップを繋ぐ。そちらはなにも操作するな』
「なにも操作するな、了解」
向こうとこちらのシステムが通信し、位置を確認し合うとあちらのタラップが伸びてきた。
こちらでも計器盤を確認する。
「タラップ接続よし、気密よし、圧力差なし」
乗降扉が開いたとの表示が出た。あちらがタラップを通ってきて開けたようだ。軍用艦艇と接舷するなら、まあこうされるだろう。こちらは何もしないほうがいい。
リリィもいまごろ舷門にいるだろうか。あれからずっと気まずいまま、ほとんど顔を合わせなかった。宇宙の片隅で出会ってたましいを分けあったふたりは、別れのあいさつも交わせないまま永遠に別れるのか。
まあ、そうだろう。そんなに甘い世界はない。そんなきれいに、別れのあいさつを交わして、納得して別れるなどめったにないことだ。
これはいつものこと。この世で幾度も繰り返された、別れのかたちだ。
「さよなら、リリィ――」
ぼくはひとりでつぶやく。ぼくが贈ったその名前を、彼女は覚えていてくれるだろうか。
・・・・・・
「……」
接舷まではスムーズだったが、そのあと妙に時間がかかっている。乗降用扉は開いたのだからすぐにこの操舵室まで来れそうなものだが、だれも来ない。有線通信も回線は繋がっているのに、なにも言ってこない。
安全上、軍用艦艇のすることに無暗に口出しするべきではないが、さすがに連絡がなさすぎる。こちらから呼んでみるか。
「CL559、こちらGSL209操舵室です。接舷してから連絡がありませんが、なにかありましたか」
こちらが持っている機密情報について確認するのだろう、なら早くここまで来るか、ぼくをそっちの艦に呼び寄せればいいのに。
応答がない。セレクターはちゃんと有線回線に合わせてあるが、どこかで断線しているのだろうか。
「CL559、こちらはGSL209操舵室です。そちらの音声が聞こえません」
だめなら無線で呼びかけよう。これは本来なら軍艦がきちんと対処すべきで、民間船に対応をとられるまで何もできないようではいけないだろうに。
セレクターを無線に合わせようとした時、ようやく有線回線で通信が入った。
『GSL209、乗員の人数と配置場所を申告し、船内見取り図を送れ』
なんだ、変なことを言ってきた。
妙に警戒している。これではまるで不審船に対する臨検だ。
ただ指示に反する理由はないし、何かやらかして騒動になると厄介なので、一人乗務であることを明記したうえで指示通り見取り図のデータを送った。
返信はすぐにあった。
『GSL209、乗員は現在の位置から動くな。武器を身体から離し、両手を上げてその場に立て』
なんだ、どうしたんだ。
両手を上げて立っていろだなんて、海賊船を捕まえたんじゃあるまいし、しがない民間船に対してなんて対応だ。そもそも、武器なんて積んでないぞ。
なにか誤解があるのは間違いない。どうしてこちらを敵視するのか理由を問い合わせたいが、むしろ逆効果になりそうだ。指示通りに手を上げたまま向こうが来るのを待って、それからその誤解を解こう。
「了解。両手を上げて待ちます。以降は通信をとれません。以上GSL209」
とりあえず席を立って、裾の長い上着は脱いで座席にかけておく。腰に武器を隠しているとみられないように。誰もいないのに両手を上げているのは変だし疲れるが、仕方がない。
しばらくすると、ドタドタと足音がして、操舵室の前で止まった。すぐに入ってこないのは、相当警戒している証拠だ。いったいどんな誤解をしているんだ。
扉が開いた、と思った瞬間、なにかが投げ込まれた。
手榴弾――?
とっさに防御フィールドを展開させ、顔を両手でかばう。投げ込まれたものはどこかへ転がっていった。もし手榴弾なら計器が危ないが、どこに行ったか分からないから防げない。見つけて両手で抑えれば、ぼくのちからで爆発を押し込められるが、これでは――
なにかの噴射音、そして若干の白煙。これは手榴弾じゃない、毒ガスのたぐいか。
能力を使い成分を大まかに分析……そうか催涙弾か。空調システムのフィルターが心配だが、生体防御フィールドを展開したぼくには効かない。
だが催涙弾を投げ込んできたということは、話をしにきたわけではなさそうだ。こちらを制圧しようとしている。
普通の人間ならもう目に強い刺激を受けて無力化されているはず。ここでぼくが平気な顔をしていたら、ぼくの出自がばれてしまう。つらい思いはしたくないが、ここは――仕方ない。
防御フィールドを解除すると、猛烈な刺激が両目を刺してきた。涙がぼろぼろ出てとまらない。手を上げていろと言われていたが、思わず目をおさえてしゃがみ込んだ。
催涙弾は暴動鎮圧を人道的に行うためのものらしいが……くそう、なにが人道的だばかやろう。こいつを開発したやつぶん殴ってやる。てめえ自分でこいつを食らってみたことあるか、どうせ動物実験でもして自分は見物してただけだろうが。
両目の刺激に涙を流していると、何人分かの足音が聞こえ、急に身体を引き起こされて両手を後ろに回された。痛い痛い、そんな乱雑にやらんでもいい。
全身くまなく触られる。胸も腹も足も、股間まで執拗に。性的な興味とかじゃない、これは武器を持っていないか調べられている。
小さな金属音と、両手首のつめたい感触。ついに手錠までかけられた。
「立て」
相手はそう言いながら、ぼくが立つより前に服ごと引っ張り上げる。思わず両手を動かしてしまい、手錠が締まって手首に食い込んだ。痛い痛い痛い――
「確保した!」
だれかがそう言う。
どうして確保なんかするんだ。抵抗するそぶりなんか見せなかっただろう。
「艦へ連行する。来い」
催涙弾のせいでろくに返事もできなかったが、相手はかまわずぼくを引きずっていった。
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