裏切りのキス

鳥尾巻

ひみつのキス

 思えばずっと奪われ続けてきた。私は会社の飲み会を抜け出し、なるべく人目につかない場所でインストグラムのストーリーを眺めていた。折しも今日はバレンタインデー。恋人たちにとっては一大イベントだ。お洒落なレストランのテーブルに置かれた二つのグラス、手元だけ映したお揃いの指輪、顔は隠しているけれど親密に寄り添う若い男女の特徴にはどちらも覚えがあった。会場である居酒屋のトイレに近い廊下は少し寒くて、白けた気分と共にアルコールの酩酊感も薄れる。

 大学で知り合って友達になった坂崎さかざき智絵里ちえりは、人の彼氏をことごとく奪う。背が高くてきつい顔立ちで態度も生意気な私に比べて、小柄でふわふわな雰囲気の智絵里は男の子に人気があった。「ごめんね、好きになっちゃったの」なんて涙目で見上げられ、そこで許さないといつの間にか私が悪者になってしまうことはよくあった。社会人になったら離れられると思ったら、同じ会社に入社してきて腐れ縁は続いている。

 携帯アプリの通知が鳴って、メッセージが届く。

茉奈まなちゃんよぉ、智絵里またやってない? あれ、茉奈の彼氏じゃない?』

 同じく彼氏を奪われたことのある友人の新田恭子ことキョンちゃんからだ。

「想定の範囲内」

『なんか冷静』

 私は適当なスタンプで返事をして、壁に背中をつけた。ストーリーには次々とラブラブバカップルの映像が流れてくる。あらキスしちゃってない、これ? でも私はすこぶる冷静だった。これから起こそうとしていることを考えると心臓が尋常ではないくらいバクバクしているけれど、彼らに興味はない。

 携帯を弄るふりをしてそわそわと会場の方を見ていると、個室のドアが開いてお目当ての人がやってくる。背が高く硬そうな黒髪を後ろに撫でつけたスーツ姿の男性は、会社の同期の久保くぼ郁人いくとだ。会場で浴びるほど飲まされていたにも拘らず涼しい顔でこちらに歩いてくると、私の前で立ち止まった。

各務かがみ、どした~?」

「ちょっと酔ったみたいで……」

「嘘つけや、ザルだろ!」

 カラカラと明るく笑われて、いつもなら言い返すところをしおらしく俯いてみせる。普段の久保はちょっとチャラく見せているけれど、仕事ぶりは真面目で人への接し方も丁寧だ。いつも周りの様子を気にかけていて、多分、元気がなさそうに見えた私にも声を掛けてくれたのだろう。

「そういうことにしといて」

 言いながら、先ほど開いたインストグラムのストーリーを久保に見せた。そこには智絵里と私の彼氏と思われている男が映っている。取引先の会社の人で、たしかにしつこく誘われて何度か食事には行ったし、私もインストでそれっぽい映像を流して「気になってる人がいる」と智絵里に匂わせたこともあるけどそれだけだ。

「あー、これ坂崎さん?」

「彼氏とバレンタインデートみたいだね」

「あれ? こっちの人○○社の向井さんじゃない? 各務と付き合ってるのかと思ってた」

「いや別に付き合ってないし。久保こそ智絵里に甘えられてその気になってなかった? 大丈夫?」

「別に」

 よし、確認OK。久保にその気はなし、と。私はホッと胸を撫でおろした。

「よかった」

「なんで?」

 ふざけるように顔を覗き込まれて、心臓の音がますます大きくなる。近くで見ると睫毛が長いのがよく分かる。ああ、いつもの軽口が出てこない。この日の為に入念に準備をしてきたんだ、勇気を出せ。

 私はポケットに忍ばせておいた小箱を取り出し、久保の前に差し出した。耳の傍で血がドクドク流れて、騒がしい周りの音が遠くなる。反射で手を出しかけて戸惑った様子の久保が訝し気な声を上げた。

「……なにこれ?」

「今日バレンタインでしょ。久保君にあげます」

「え、なに、なんで敬語」

「緊張してるの。これは本命チョコです。ずっと好きでした。酔った勢いじゃなくて、いやそうかもしれないけど、当たって砕けることにします!」

 自分でも支離滅裂で何を言っているのか分からなくなってきた。そういえば久保を好きになったきっかけも面接の時も緊張しまくって挙動不審だった私に、彼が声を掛けて落ち着かせてくれたからだった。

 もう奪われたくない。周りにも智絵里にもその気がないふりをしてひた隠しにしてきた私の恋心。これでダメでも告白まで辿り着けたことに満足しよう。

 チョコを差し出したまま涙目でぷるぷる震えていると、その手をそっと上から包まれる。

「砕けないでよ」

 久保の声が囁きになって私の耳に落ちる。酔客の声や食器の触れ合う音が溢れているはずなのに、不思議なくらいよく通る声が私の鼓膜を震わせる。こういうのカクテルパーティー効果って言うんだっけ、とぼんやり余計なことを考えていると、いつの間にか私は久保の体と壁に挟まれていた。アルコールが入って高くなった体温がスーツ越しに伝わってきて心臓が破裂しそう。

「ありがとう。嬉しい。各務いつも素っ気ないからただの同期だと思われてるんだと思ってた」

「それには事情がありまして……」

 恥ずかしさも手伝ってチラと携帯を見下ろすと、久保は何か納得したように頷いた。

「あーね……理解した。めでたく両想いだしオレ達もキスする? 動画撮って載せちゃう?」

 携帯のカメラを構えてニヤけながら近づいてくる端正な顔を両手で押しとどめる。

「ヤダ、ダメ」

「なんで?」

「そんなの載せたら智絵里に盗られるもん。あとまだちゃんと久保の口から『好き』って聞いてない」

「なにそれかわいい。今、両想いって言ったじゃん」

「うるさい。どうなの」

 こうなってくるとただのイチャイチャなのは自分でも分かっている。それでもちゃんと聞きたい乙女心を分かってない。むくれる私の頬を久保は大きな手でつまんで空気を押し出して遊んでいる。近づいた額が触れ合い、互いの息が唇にかかる。そうしてアヒルみたいになっている私の唇に、久保の唇がチョンと触れた。

「オレも好き」

 いつもの久保らしくなく早口でぶっきらぼうな物言いに、彼も緊張しているのだと分かった。熱に浮かされた頭で「もっとちゃんとして」と囁くと、久保は大きく息を吐き出して私をぎゅっと抱き締めた。

「こんなところで濃厚なのしていいの? 舌入れるけど?」

「入れて」

 茶化すように言われて挑むように答えてしまう。あ、これは乙女じゃなかったわ。告白が成功して欲望駄々漏れになっちゃった。すると一瞬息を詰めた久保が何かを堪えるように首をブンブン振った。

「いやいやいやいや」

「こういうのダメだった?」

「むしろ大歓迎です! いつも澄ましてる各務さんがそんなエロいと思わなかった。よし帰ろう今すぐ帰ろう出来立て彼女お持ち帰りしまーす」

 ふざけた言葉で体を離されても握られた手は熱い。二人でクスクス笑いながら廊下を歩く。今頃智絵里は私の偽彼氏と仲良くやっていることだろう。今度の恋は絶対に奪われない。


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