第9話 ―ミストレムの裂け目―

沼道は、どういうわけか迷いを許さなかった。右にも左にも曲がれず、ただ前へ進むしかない。足を踏み外せば、そのまま沈む。理屈では簡単な話だが、実際にそう告げられると、感情は土壁に爪を立てたみたいに脆く崩れる。

 

 前を行く祭祀は、揺らぎのない背中を晒していた。葬列を導く僧のようでもあり、死出の旅を取り仕切る仲介人のようでもある。そのどちらにせよ、僕に口を挟む余地はなかった。

 足音は泥に吸い込まれ、残るのは湿った空気のにおいだけだ。湿気は人を重たくし、血のにおいを思い出させる。鉄を噛んだ後に歯茎に残る、不快で取れにくい味。そんな感じだ。


 やがて霧が割れ、石柱が立ち上がる。苔に覆われ、骨を縫い合わせたような布が垂れ下がり、風もないのにわずかに揺れていた。喉を掴むような空気があたりを覆う。悪意ではない。だが、悪夢と現の継ぎ目で身を捻るような、不安定で厭な濃霧だ。

 中央に黒い石の祭壇があった。かつて聖杯を手にした場所だ。今はそこに、目に見えない熱がこもっている。皮膚の裏側でじりじりと疼く気配。炎というより、塞がったはずの古傷がひそかに開き始める感覚に近かった。


 心のどこかで、嫌な予感が澱のように溜まっていた。

 ここで何を得るのか。もし何も起きなければ、怪物にすらなれない。空洞として残されるだけの方が、なお救いがない。そう思うと、胸の奥にひびが入ったような痛みが走る。

 得られなかったらどうなる? 渇きは増し、僕はますます怪物に似ていくだけではないか。

 そう自問しながらも、足は止まらなかった。止まるより進むほうが楽だからだ。理屈ではなく、ただの習性として。


 祭祀は祭壇の前で立ち止まり、黒布に包まれた器を持ち上げた。布を剥ぐと、光を吸い込むような艶を帯びた器が姿を現した。僕の持つ聖杯と寸分違わぬ形。しかし、同じものが二つあるという事実は、どこか不安を掻き立てる。影が二つに分かれたときの、あの居心地の悪さと同じだ。


 周囲の吸血鬼たちが一斉に膝を折った。泥に沈む鈍い音が重なり、空気の密度が急に高まる。儀礼は、言葉より先に空気を変える。


 祭祀は無言のまま、左の前腕を晒した。骨飾りの刃で皮膚を割る。溢れた血は泥より濃く、鉄よりも生々しい。杯に注がれたそれは、底でゆるやかな渦を描き、沈黙のまま呼吸しているように見えた。


「口にすれバ、力ヲ得よウ」


 簡潔に言い、器を僕へ差し出した。その声音は、覚えたての言葉を無理やり並べているようにも聞こえたが、不思議と意味はわかった。

 それでも、僕の指先はわずかに震えていた。それが恐れなのか、期待なのか、それとも聖杯そのものの脈動に呼応しているのか――もはや自分でも見分けがつかなかった。 

   

 僕は杯を受け取り、縁に口を寄せる。血は温い。喉を落ちるその重みは、古い鐘の音に似ていた。胸の奥で一度だけ響き、やがて散る。――何も起きない。

 ただ、胸腔のどこかがぬるく熱を帯び、輪郭がひと呼吸だけ曇る。半端な顫え――そこまでだ。

 

 顔を上げると、祭祀は静観のまま瞼を細めていた。責めるでも、嘲るでもない。


「足りヌ。血ガ薄イ……案ずるナ」


 その一言のあと、彼は口を噤んだ。言葉に不慣れな者の、ぎこちない沈黙だった。目を巡らせると、周囲の吸血鬼たちの姿はすでに消えていた。祭祀もまた、霧と同じように気配ごと溶けていた。

 残されたのは、濡れた石の匂いを放つ祭壇だけ。


 杯の底に残った渦は、やがて平らになった。息を吐き、背を向ける。沼は来るときと同じ手順で、何事もなく僕を飲み込み、また吐き出す。世界は往還の運動でできている。けれど、往と還が同じだとは限らない。


 帰路の霧は薄く、風がわずかに通っていた。そこで声が落ちた。靄の奥から、低い音色が寄ってくる。


「……血族の血」

 

 しゃがれた声の主はローウェン。いつの間にか僕の隣に立っていた。一枚の葉を地面に落とし、杖の先で泥を突く。そのたびに濁った水が退き、細い道が生まれる。彼は振り返らず、そのまま前を歩いた。


「かつては……高潔な一族だった」

「だが、争いに巻き込まれ、ここへ追われた」

「彼らは孤独に耐えきれず、血を混ぜた」


 その声は霧の目地から滲むみたいに、近くも遠くもなかった。 

 独白でもしているかのような立ち振る舞い。 

 何の話かと訝しみながらも、意味はわかった。幼い頃、文献の端で見た覚えがある。ミストレムに国を築いた血族のこと。だが、彼が語る「その後」の記述はなかった。


 血は濁ったはずなのに、奇妙に濃度だけは落ちない。沼に沈んでも、むしろ呪いのように研ぎ澄まされた。

 皮膚から血を吸う――それは獣の本能に近い。呪いの名残。人はかつて、それを“吸血孔”と呼んだらしい。今では忘れ去られた言葉だと。


 歩を止めると、胸の奥がわずかに疼いた。掌を開けば、見えぬ潮流のような引き。あるいは、重力のような引力。これが――血の濃さ、というものか。


 湿りついたミストレム特有の気配が薄らぎはじめた、その時。顔を上げると、前を陣取っていたローウェンの姿はなかった。まるで夜そのものに溶け込んだかのように。道はすでに消え、そこには林が広がっていた。最初からそうであったかのように。


 血が不足している。何が欠けている?

 僕に必要なものは何だ。芽吹いたのは確かだが、それを力と呼べるのかはわからない。ただ、眼前の曇り空に、細い裂け目が走った気配があった。

 騎士の野営地をひとつずつ襲っても、何も変わらない。

 真に討つべきは、ゾルディナ帝国の法王、ルキウス・アークレイド。人間至上主義を掲げんとする、今回の騒動の元凶だ。

 名を胸の内で発すると、空気がわずかに硬くなる。言葉には、ときに胸郭の圧を変える力がある。だが、相手は王。壁と兵の層が渦を巻く。その奥へ進むのは、折れかけの枝一本を握って、鉄の嵐を抜けるようなものだ。

  

 だが、その前に父上と母上を殺した奴を先に探し出すのが先決だ。

 

 出立の支度は簡単だ。赤の眼は煤けた黒に偽装し、所々薄汚れた黒装束を選ぶ。

 目立たないことは正義でも不義でもなく、ただの技術。それでも……人間に擬態するという行為は、屈辱以外の何物でもなかった。虫唾が脚を這い登るように、冷たい嫌悪が皮膚の下を逆流する。吐き気に似た感覚に、奥歯を噛みしめる。

 だが、表には出さない。不快だけが残る。足を止めるほどではない。 

 

 紅月は黒布で包み、脈を殺す。刃は時に、自分より前に出たがるもの。たしなめ方を知らないと、ひとりでに食卓をひっくり返す。

 南にゾルディナ帝国がある。道は幾筋にも分かれ、どれも確かで、どれも不確かだった。僕は最も影の濃い筋を選ぶ。歩みだすと、湿った風が背を押した。

 聖杯は無言だ。だが、無言は沈黙の同義語ではない。器は器の方法で話す。血を受け、溜め、脈打ち、黙る。その先を読み取るのは、こちらの役目だった。


 森の端で一度だけ振り返る。霧はもうこちらを知らぬ顔をして、ただ地を這っていた。

 僕は前を向く。復讐は円環か、あるいは遠ざかる線か。どちらが救済に近いかは、まだわからない。

 蝙蝠に変じれば帝都までひと息だ。だが、速さは答えを遠ざける。 

 だから――歩く。わからないものは、歩きながら考えるしかない。


 掌に残る熱だけが、確かだった。

 

 

 ――to be continued――

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VAMPIRE LORD -序- 野衾 @nobusuma9696

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