NIHONJIN

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第1話

昭和の朝、愛の形

昭和34年のある朝、私が目を覚ますと、母が食事の用意をしていた。海苔、卵、味噌汁、そして炊き立てのごはんが並んでいる。こうして、一日はここから始まる。温かな日差しが差し込む中、家庭の香りに包まれたこの瞬間こそ、私の小さな幸せだった。

母は鹿児島の金持ちの家に生まれたが、果たしてその幸運が彼女をどれだけ守ったのかは分からない。母が生まれてすぐに父が亡くなり、その後、男好きの母のお母さんは男の家を転々とし、母を何度も置き去りにした。行く先々で大人の都合に翻弄され、いじめられ続けた母の心に宿る傷は、私の知らないところで深く刻まれているのだと思う。

いま振り返ると、母は両親の愛情を受けることなく育ったため、母性というものが欠けていた為、私たち3人の兄弟は、誰一人として母からの愛情を感じることはなかった。子供心に常に寂しさを感じていたものだ

私が7歳の頃、弟が生まれた。私は髪の毛の色が赤く、目鼻立ちがはっきりしていたため、よく近所のおばさんたちから「あいのこ」と呼ばれていた。

母も私のことを鬼子と呼んでいた。

私は、傷ついていたが何も言わず黙っていた。


父と母の仲は、この頃から崩れていった。父は外で女性を作り、母はその女性の家に怒鳴り込むという日々が続いた。怒鳴り込みに行く時は、必ず私が連れて行かれることになった。本当に嫌な時間だった。

父は男前で、この時代では珍しくムスタングという外車を乗っていた。

モテるのも無理はなかった。父は家族を大切に思っていたが、母のヒステリーと自己中心的な態度に次第にうんざりしていたに違いない。私が子どもの頃でさえ、女を作った父が悪いとは思えなかった。正直、今でも母のことは好きになれないし苦手だ。何歳になっても人を傷つけ続けている彼女を見ていると、哀れで可哀想な人だと思ってしまう。

母は平気で他人を傷つけ、陰口を叩かれると被害者面をし、相手を悪者にして攻撃していた。私も65年生きてきたが、こんなに性格の悪い女は今までに見たことがない。

しかし、母は誰もが振り返るほど美しい女性でもあった。その美しさが、彼女の心の闇を隠していたのかもしれない。

そうこうしているうちに、父が家に帰らなくなり、私が10歳の時に両親は離婚した。

母は昼も夜も働きに行くようになり、私と弟、そして兄の3人だけの生活が始まった。ついに、家事は全て私がやることになった。朝食を作り、兄弟に食べさせてから学校に行く。帰ってきたら、洗濯と掃除をして、弟を預かってもらっている家に迎えに行き、晩御飯を作っていた。

母が働いている間、私は家庭を守る役割を担わなければならなかった。ゆっくりできる時間は、後片付けをして弟を寝かせてからだった。宿題を片付け、眠りにつくのはだいたい毎日8時頃だった。


ある日いつも弟の智紀を預かってくれている家のおばさんが、「ご飯を食べて行ったら」と言ってくれたので、ありがたくいただくことにした。

この家族には5人の子供がいてお父さんは近くの私立の高校の用務員をしていた。

湯気の出ている味噌汁と温かいご飯とコロッケがおかずだった。

コロッケなんかなかなか食べれなかったので智紀も喜んでいた。

私も久しぶりに人に作ってもらったご飯を食べれて嬉しかった。

おじさんが、「いっぱいおかわりしたらいいからね」って言ってくれた時

大人とご飯を食べるのも久しぶりで、こんなに家族が楽しそうに食事をしているのを見るのも久しぶりで、智紀が羨ましいと思わないかと考えたら智紀が可哀想になってきて涙が出てきた。おばさんが「どうしたん?」って聞いてきたから、「こんなに美味しいご飯食べるの久しぶりやから」と言って誤魔化した。

智紀は私が泣いてるのを見て、智紀も泣き出した。

ご飯を食べ終わって智紀を抱いて家に帰った。

この日は、智紀を抱いて寝た。

本当なら、お母さんやお父さんがいていつでも甘えられる環境にあるはずの年齢なのにと思うと、かわいそうになってまた涙が出てきた。



母は、昼も夜も働いていたのに、時々ガスや電気水道が止まってしまって、ご飯すら食べられない状況になることがあった。学校に納める給食費すら払えない事もあった。

私は貧困な友達が新聞配達をしていたので先生に家の事情を伝えて新聞配達を始めることにした。

配った数だけお金がもらえるこの仕事は、私にとって希望の光だった。自分で地図を作り、効率よく配れるよう考えた。毎日朝刊を配り、最初の給料で1700円もらった。その時の嬉しさは、今も忘れない。初めての自分の稼ぎで、自由に使えるお金を手にしたのだ。2ヶ月目は2200円、3ヶ月目は2700円と、驚くほど早く給料が上がっていった。走るスピードも上がり、配る数も増えていった。

新聞屋のおじさんとおばさんにも褒められ、私の気持ちも高まった。家には大人がいないので、私が何でもやらなければならず、どんどん器用になり、要領も良くなっていた。

新聞配達の仕事に加えて、チラシ入れもするか?という提案を受けてから、毎日3時に行ってチラシを入れるようになった。その頃には、給料も6000円以上に達した。新聞屋のおばさんが「佐知子は子供だけど、器用で気がつくから働いてくれてとても助かる」と。海苔加工場のおばさんに自慢してくれた。これがきっかけで海苔工場からも仕事の誘いを受け、私は快く引き受けることにした。小学生だが身長158センチあったので、こちらの仕事も難なくこなせるようになった。

この頃、私はこっそりお金を貯めて、何があっても困らないように心掛けていた。小学校5年生で月に2万円以上稼いでいた。弟には不憫な思いをさせたくなく、必死に働いた。朝3時から5時まで、夕方3時から7時まで働いていた。

海苔のプレスでは1時間320円ももらえ、本当にありがたいと思った。漁師の家ということもあり、魚やわかめをよくもらって帰った。そのため、私の食生活は意外と充実していた。近所で豆腐屋をしていた同級生のお母さんが、厚揚げや豆腐をくれたり、果物屋やパン屋からもよく助けてもらった。ある意味、私の日常の中での小さな楽しみであった。


夏の日の蛆虫

母は相変わらず、帰ってきたり帰ってこなかったりの生活を送っていた。私たちの生活は、いつも不安定だった。

ある真夏の日、私は新聞屋の仕事が忙しく、ゴミ捨てを母に頼んでおいたのに、母はそれを忘れてしまい、ゴミの中にはいつの間にか蛆虫が湧いてしまった。隣の家の人に見つかって不衛生だと怒鳴られて、私はやむなく素手で蛆虫をすくい取って捨てた。

その光景を見ていた弟は、涙を浮かべて「お姉ちゃん、大丈夫?」と心配そうに言った。私は微笑みながら、「虫なんか怖くないから大丈夫やで」と言ったが、本当はすごく辛かった。

大人からの嫌がらせから、弟だけは何があっても守りたい。

その思いが、私の心の中でますます強くなっていった。年も離れているため、初めての子育てのようだった。

この世には優しい大人もいれば、そうでない大人もいるということを、私は徐々に学び始めていた。だから、いつの頃からか大人の顔色を見るようになっていた。

今、振り返ると、11歳の子供がする生活とは到底思えなかった。この時代の母子家庭は、他人の興味の対象でもあった。

近所の人々からは、しばしばひどいことを言われていた。母は夜仕事に出るとき、綺麗な服に身を包み、しっかりとお化粧をしてタクシーに乗っていった。その姿は、私たち兄弟とは対照的で、みすぼらしい服装の私たちに冷たい視線が向けられた。

「お母さんは、子供の服や靴が破れてても平気なんやなぁ」と、笑いながら言う者もいた。自分だけ綺麗な格好をして、商売女だから何をしているか分からない、いやらしいとも言われたこともある。私は子供心に深く傷つきながらも、弟が悲しまないようにすることだけを考えた。

弟には、給料が入ったら靴や靴下を買ってあげていた。これをすることで、私の精神状態が保たれていたように思う。

また、弟が喜ぶ姿を見ていると、それが自分の幸せにも変わっていた。


木村屋のパン屋のおばちゃんは、そんな私をいつも優しい目で見てくれ、悲しそうな顔を浮かべていた。その姿を見るだけで、何か救われたような思いがし、心が温かくなる瞬間で、ただそれだけで幸せな気持ちになれたものだ。

生活が厳しく、大人たちの無理解に傷つきながらも、弟の笑顔こそが私の支えであり、希望だった。夏の日差しの中で、無邪気な弟を守るために、これからも頑張れると思った。


中学進学

新聞配達をしていたおかげで、走るスピードも上がり、いつの間にかスポーツも得意になっていた。小学校も卒業し、中学校に進学することになった。制服は近所のお姉さんからのお下がりだが、新しい気持ちで中学に通うことができた。

しかし、中学に進学すると、また新たな問題が待ち受けていた。それは、全校生徒が部活動に参加することが義務づけられていたことだ。私が通っていた中学校には、県内でも有名なバレー部があり、小学校時代にスポーツのできる子たちが集められ、

私もその一人として、強制的にバレー部に入部せざるを得なかった。

家の事情を説明しバレー部は入らないと言ったが、聞き入れてもらえず、そのまま部活に加入した。

部員は140名ほど。練習は早朝6時から始まり、週3日はナイター練習もあって夜21時まで続く。最悪な状況だと思った。こんなに練習時間があったら、働くことができなくなってしまう。

2年間、フル稼働で働き続け、無駄遣いは一切しなかったので、実は30万円ほどの貯金があった。中学生活が始まったばかりなのに、1年生の私が、もう補欠になってしまった。

練習は厳しく、相変わらず家に帰ると家事が待っていた。ナイター練習の時には、一度家に帰って弟にご飯を食べさせ、一緒に学校に連れて行き、練習中は弟を遊ばせていた。練習が終わって帰ると、眠そうな弟をおんぶして家に戻る日々が続いていた。


そんなある秋、中学1年生の私に監督が声をかけた。「県大会に参加しなさい。」しかし、そのためには泊まりがけで行く必要があり、遠征費3000円が必要だと言われた。私はお金がないことを理由に断ったが、先生が「お前はうちの子供と同じようなものだから、遠征費は先生が出すから来い」と言ってくれた。

けれども、私の心の中での葛藤は続く。理由はお金だけではなく、まだ5歳の弟を一人にしたくなかったのだ。たとえ行ったとしても、心配で落ち着かないだろうという気持ちが強かった。今まで一度も弟と離れたことがなかったからだ。


小学校の修学旅行も弟が一人になるから行かなかったのだ。

自分の事より弟のことの方が大切だったからである。


昭和の良き時代

監督に、「お前はチームに必要な選手だから、ついて来い。」

その言葉は、期待と責任の重みを感じさせた。しかし、私は心の中で葛藤していた。正直、弟の智紀を置いて行きたくなかった。智紀はまだ小さい。もしこんなことがしょっちゅう続くようになれば、私はどうやって彼を守れるだろう。そんな不安が頭を悩ませた。ついに、私は監督に言った。「部活を辞めたいです。」

「辞めるのはあかん」と監督は毅然とした口調で言った。その声には、諦めのない強い意志が感じられた。その瞬間、どうしたらいいの?と思った。


すると、同級生が「佐知子が県大会に出場している間、私たちが智紀君の面倒を見るから心配しないで、思いっきり戦っておいで」と言ってくれた。その言葉は、私は、ありがたい気持ちでいっぱいで泣いた。


監督の奥さんも「うちに連れてきたらええ」と提案してくれたが、智紀は人の家に泊まったことがない。それがどんなものかも分からないから、やはり同級生に頼むのが良いと考えた。

部員は140名以上もおり、レギュラーがたった6人、補欠を含めても15人ほど。そんな中で、3年間一度も試合に出ない選手も多かった。そんな中で仲の良かった同級生たちが助けてくれることで、私は、感謝しかなかった。

この頃、もうひとつの問題が生じていた。それは、ナイター練習の時の智紀の晩御飯だった。練習が厳しく、私もレギュラーとしての責務に縛られ、身動きが取れなくなっていた。同級生の3人は、「智紀の面倒は私たちが見るから、今は試合のことだけ考えて」と言ってくれた。監督も「そうしてあげろ」と同意してくれた。そのおかげで、私は少し安心した。


今の時代では考えられないような出来事かもしれない。振り返ると、私はこの時代の温かさや人々の優しさがとても貴重なものだったと感じる。

近くの木村屋のパン屋のおじちゃんとおばちゃんも、部活の帰り道に店の前で私が通るのを待っていて、余ったパンをいつもくれていた。昭和の良き時代。貧乏であっても、何があっても明るく過ごしていたあの頃のなつかしさが、今も心の中に残っている。


むしろ今の時代よりも、昔の方が厳しさはあったが心ある人間関係があったとも思う。






















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