横断歩道のない夢を見る

 信号が一斉に赤になる瞬間、私は立ち尽くす。私の目の前の信号は、そこから一向に動かない。かっこん、かっこん、と時間を示すメーターが目減りしていく。向かい側、私の顔をした私が通り過ぎる。横断歩道もない道を、そのまま歩く。私は少し躊躇って、待って、と声をかけるのにその私はこちらを振り向きもしなかった。あ、信号無視。

 

 私は目を覚ます。現実の私は一人だし、体はベッドの上にある。夢に概して意味などはない。というのが私の持論だ。夢は、記憶の整理のために脳が流す映像らしい。だから、あれも現実の記憶がごちゃごちゃになって悲鳴を上げた私の哀れな脳が作り出した、不条理な映像なのだろう。夢占いも話半分に聞くくらいがちょうどいい。朝のお供に流しているニュース番組の星占いのコーナーみたいなもの。信ぴょう性なんてなくても、誰かとの話の種になるような当たり障りがなくて、どうでもいい話。だから私の星座の順位が最下位でも悲しくなったりしない。星に願いをかけるような純真さはとうに失って久しい。

 

 支度を終え、電車に乗る。信号は青、一度も止まることはなかった。だから、何があるわけでもない。職場に向かい、荷物をロッカーに預け、自分のデスクに座る。パソコンを開けば、未読のメールが山ほど溜まっていて目眩がする。

「清水さん、おはようございます」

「おはよう、柊」

 向かいのデスクに座っている柊フユキが声を掛けてくる。もう直ぐ春だというのに、まだ肌寒い日が続いているせいか、彼女は冬用のコートを羽織っていた。

「あれ、今日リモートじゃなかった?」

「それは明後日ですよ」

 柊は困ったように言った。

「勘違いしてた、ごめん」

 ここには同僚がいたりいなかったり、休んでたりリモートで仕事をしていたりする。子供の発熱で、とかそういう理由の人も少なくない。そういうのを聞くたび、他人事のように大変だなと思う。

「いえ、大丈夫です」

 彼女は言った。

「……柊」

「はい?」

「何かあったら、すぐ言うんだよ」

 私は言う。余計なお世話かもしれない、と口にして後悔する。けれど、今さらどうにかなるわけじゃない。

「はい、……?ありがとうございます」

 柊は一瞬固まって、それだけ言うと、会釈して業務に戻った。その無関心加減に安堵する。無駄話はしない子なのだ。ドライというか、言葉を弄さないというか。けれど、コミュニケーションが苦手というわけでもない。雑談をすればそつなく返すし、世間話が嫌いというわけでもなさそうだった。こちらが手を伸ばせば握り返す、されどそちらから手を伸ばしはしない。こうしているうちにも、タスクが降りかかる。私も諦めてパソコンに向き合い始めた。

 

 業務をしていると、どうしようもなく行き詰まる瞬間というものがある。それは、たとえば先方との意思疎通が上手くいかなかったり、情報に行き違いがある時。逃避したくなる瞬間、舌打ちをこぼしてしまいそうになる。少なくともオフィスではやめなくては、と思うのに長年染みついた癖が消えない。口寂しく、朝コンビニで適当に買ったミントガムを噛む。

 普段あまり吸わないのに、こう言う時無性にタバコが吸いたくなる。健康を損なうのはわかっているし、昨今の禁煙の波に逆らっているのも理解している。会社の喫煙所は数ヶ月前に封鎖されてしまったし、煙草を吸うためだけに外の喫煙所に行くわけにもいかない。煙草なんて、吸わない方がいいに決まっている。匂いもつくし、百害あって一利なし。それでも、今はそれが無性に恋しい。

 タバコを吸い始めたのはなんとなくだった。確か、大学生の時に周りに勧められて吸うようになって、結婚した時にやめたのだ。別にヘヴィスモーカーだったわけでもないので、ニコチンはさっさと私の中から出ていった。

 やめて欲しいと言ったのは元夫の桂一だった。圭一は子供を欲しがっていた。私は、別にどっちだって良かったから、それをきっかけにすっぱりとタバコをやめた。タバコを買わなくなればお金も溜まるし、肺がんにもならない。良いことづくめだ。まあ、一緒に住んでいた桂一はタバコを吸い続けていたので副流煙で肺がんになる可能性は大いにあったけど。そして私たちは繁殖のために体を繋げて、結局のところそれが実ることはなかった。お互い、どちらが原因かと調べる勇気がなかったのだ。そうしているうちに、私たちは離婚してしまった。桂一と私の間には確かにお互いを尊重し合う、世間一般的に愛と呼ばれるようなものがあったはずだ。そうでなくては、少なくとも一緒に暮らそうとは思わなかったし、ましてや側にいたいとは考えない。養ってくれるなら専業主婦になっても良いと思っていたし、言ってくれたら圭一の苗字になったってよかった。名前が変わることは確かにアイデンティティの喪失かもしれないし、現状の日本の法ではどちらかが必ずそれを味わう。婚姻という制度は、そうやって色んなものを奪い去るし、与えもする。どう捉えるかは、当人次第だ。

 彼はタバコをやめて欲しいとは言えるのに、どうして俺の名字になってほしいは言えなかったんだろう。

 

 

 時々私たちはオフィスのフリースペースのデスクに隣り合って座り、昼食を共にした。他愛のない話をすることもあるし、仕事のことを話している時もある。いつもじゃない、タイミングが合う時だけだ。

 柊はいつも、小さなお弁当箱を持っている。彼女の弁当の中身のクオリティにはムラがあり、私はそれを見るのが密かな楽しみになっていた。絵に描いたような綺麗なお弁当の時もあるし、親が寝坊してお金を握らせたような無茶苦茶な中身の時もあった。柊と彼女のパートナーが交互に作っているそうなので、そのせいだと彼女は照れながら笑った。

 なんでそんな話になったのかは、覚えていない。多分、私が何か余計なことを言ったのだろう。じゃなきゃ彼女がそんなプライベートな話をするとは思えない。パートナーの話をする彼女は、まあ随分幸せそうな顔をしていた。

「卵焼きが、苦手なんです……こう、上手くまとまらないというか」

 と、彼女は言った。確かその時のお弁当は三色のそぼろ丼だった。なるほど、焦がす前によく混ぜて失敗を回避したのだろう。

「料理苦手?」

 私が言った。

「そう、ですね。あんまり」

 へへ、と薄笑いを浮かべて柊は言った。彼女が笑うと、目尻がとろりとゆるんで、懐かない猫に餌付けが成功したような気持ちになる。

「まあ、今どき料理できなくても生きていけるよ」

 私は言う。自炊の面倒くささが身に染みて、最近は出来合いのものを買うことが多い。一人分の料理を作るのは案外大変なのだ。

 めぐちゃんは、料理できなくても大丈夫。俺が代わりにやるから、桂一の言葉を思い出す。過不足を補い合うんじゃなくて、他方に委ねてしまう。だから、私たちはダメになってしまったんだろうか。私はコンビニで買った参鶏湯を口に運んだ。

「今日さぁ」

「はい」

「占い、最下位だったんだよね」

「そうなんですか。私は七位でしたよ」

「微妙だなぁ」

 今となっては、どうしようもない話だ。

 

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