春と悪夢とチョコレート(上)

 私が愛というものも見失った時、それは遠くにあった。無くなったんじゃない、どこかにやってしまったというのが近い気がする。感情というものは驚くくらいに雄弁で、けれど時間が経つと揮発して流れていってしまう。

 冷凍保存して何度でも取り出せたらいいのに、と思うけど辛い記憶や嫌な思い出も同じように薄れない人生は過酷すぎるから、きっとこれくらいが丁度いいのだろう。

 これは、私はフユキを世界から失う一歩手前であった時の話だ。彼女が透明になったことに、明確な理由はないし少なくとも私たちはそれを知覚するすべを知らない。たまたま、それがフユキであり、もしかしたら世界のどこかでは同じように人が透明になって、そのまま忘れ去られているのかもしれない。

 

 御伽話の定石なら、真実の愛のキスで奇跡が起こるはずだったのに、私がフユキにキスをしても何も起こらなかった。私はそれに大変なショックを受けた。

 私たちは、出会ってから随分経つし、共に生活するようになってお互いの嫌なところや、どうしようもないところを何度も見た。フユキは料理が苦手だし、私は掃除が嫌いだ。それでも、お互いの生活をするためにそれを避けられない。だから私たちは有無を言わさず下手くそな卵焼きを食べるし、ホコリの積もった床にクイックルワイパーをかける。共に暮らすというのは、そういうどうしようもなさの積み重ねで、妥協点の探り合いでもあった。好き、だけではやっていけない。

 フユキの、静かに燃える炎のような心臓の内側のきらめきだけに見惚れていては生活は成り立たない。でも、ちょっと焦げててそぼろになった卵を怒らず食べるのは、多分彼女が好きだからだ。逆に、フユキは多分私のいろんな無遠慮さを許容しているのだと思う。私は驚くくらいガサツだし、お世辞にも上品とは言えない。嫌いなものは嫌いだし、自分を損なわれたと感じた時の怒りはずっと持ち続ける。現実と生活に塗れて、それでも一緒にいることを選んだ。そうでなければ、フユキは陽だまりの雪のように、どこかに溶けて消えてしまいそうな気がした。

 フユキは、なんというか希薄なのだ。いろんなものが。出会った頃から執着がないというか、世捨て人のような雰囲気があった。私は、彼女をこの世に留めておくためのかすがいになりたかった。どれだけ浮き上がろうと決して飛び出せないように、その手を握っていたかった。

 あの子の軽やかな足取りが好きだった。

 私を名前を呼ぶ、平熱の声が好きだった。

 私が名前を呼ぶと、安堵するように微笑む唇が好きだった。でもその全部が失われた時、私は果たして彼女を愛することができたのだろうか。もちろん、フユキの外見だけを見て好きになったわけではない。けれど外見も好きだから、難しい。その人をその人たらしめる要素に、表層というものがあり私たちはそれしか見ることができない。一瞬、わからなくなった。その瞬間、私は自分が歩いてきた道筋をもう一度なぞることを決めた。私は過去の足取りに解を求めた。あなたが一番私を理解しているはずだ。だってあなたは私。

 

 フユキと初めて二人で出かけたのは鎌倉だった。大学からも、私たちの生活圏内からも随分離れていたけれど、私たちの共通点である文学の地だったので、そこを選んだ。

 その日は夏真っ盛りで、海に近いせいでどもかしこもものすごく湿っぽくて暑かった。私もフユキも汗みずくになりながら、小町通りを渡った。どこもかしこも人でごった返していたので、ごくごく自然に手を繋ぐことが出来た。それくらいしかいい思い出がない。手のひらはじっとりと湿気ていくし、拭いても拭いても汗は滝のように流れて止まらない。

 海も、文学の中のイメージとしての夏も大好きだけど、現実の夏は大嫌いだ。

 私があんまりにも暑い暑いと騒ぐものだなら、見かねたフユキが冷たいものを食べようと言って、私たちはカフェに入った。昔からあるレトロな雰囲気の内装はとても落ち着くものだったし、お喋りの声は小さく静かだった。不思議とこの場所だけ時間がゆるやかに流れているようだった。そこで飲んだ冷たいココアは今もお気に入りだ。私たちはそれなりに鎌倉を楽しんだし、来年は紫陽花の咲く季節に来ようと言う約束をした。

 

 そして大人になったら私はそこに一人で行った。

 有名なクレープ屋は相変わらず大層繁盛していたし、あれほど落ち着いて静かだったカフェはインフルエンサーに紹介されて、メディアに取り上げられたおかげで随分と賑やかになっていた。いくつかの店がなくなって、また新しい店が出来ていく。パズルのように組み替えられて組み立てられて、それでも共同体のように道は続いた。途中、道で大きなソーセージを買って食べた。酒によく合うので、ビールが欲しいと思った。酔い潰れては困るので、今回は飲むつもりはないけれど。

 フユキと付き合い始めてから、指輪を作れる店で、お揃いの指輪を作った。ちいさな、そう高価ではない指輪だ。それは今、私の部屋のアクセサリーボックスで眠っている。無くしてしまうのが嫌で、仕舞い込んでいる。 メイン通りの喧騒に疲れてしまったら、駅から遠く離れた方に向かう。寂れているわけではない、ただひっそりと海に向かって歩いていく。大きな道路をまっすぐ進んでいくと、住宅街や役所なんかがあってこんな観光地にも誰かの営みが根を張り巡らせているのだと実感する。海に続く道は、進めば進むほど風が強くなっているようだった。小柄な女性が犬を連れて散歩している。また別の男性が連れた大きな犬が砂まみれになって遊んでいる。親子連れがゴミともわからぬ何かをつついては楽しそうに笑い合っている。私は一人だった。

 海をひとしきり眺めて、私は江ノ島まで電車に乗った。暗くなり始めた空に、星が輝き始めていた。灯台まで行く頃には街はどっぷりと暗くなっているだろう。多分、もう少ししたら観光地から帰る人たちでごった返すのだろうと予想が付く混雑具合だった。私は彼らとは反対方向に向かう。

 江ノ島には子供の頃から何度か足を運んだことがある。それこそ幼馴染である大輝と、その家族たちと連れ立って水族館に行ったり、灯台まで続く坂を登ったりした。私はエスカレーターを使って頂上に行きたかったけれど、家族たちの大反対に遭いやむなく階段を使う羽目になったことをよく覚えている。水族館ではキラキラと輝く色とりどりの魚たちにうまそうだとかまずそうだとかコメントする大輝の、どうしようもなさに呆れたりもした。(あのデリカシーのなさで、どうして異性にもてはやされるのが理解し難い)

 大きくなって、フユキと江ノ島に行った時はバイトで稼いだ金を遺憾なく使い、エスカレーターを使って頂上に登った。みるみるうちに遠くなっていく地面たち、私とフユキ、そして他の人たち。正直、わあと珍しそうにエスカレーターの中をきょろきょろと眺めるフユキのことしか記憶していない。しらす丼は美味しかったけど、まあこんなもんだよなという味だった。たこせんべいを作る過程を見た時の方が、よっぽど感動してしまった。平べったい機会に潰されて、紙くらいに薄くなるタコには同情したけれど、あのパリパリとした感触は何者にも代え難い。

 私は江ノ島に着くと、宿にチェックインして、そこで夕飯を食べ眠った。フユキと二人で泊まった、こぢんまりとしたホテルだった。殺人事件でも起きそうな古めかしい内装とは裏腹に、水回りなんかはしっかり整備されていて、綺麗な部屋だった。広くて、一人で泊まるには随分持て余してしまう。窓の外からは海は見えない。ただ車の行き交う様子がぽんやりとすりガラスに反射していた。

 子供の時も大人になってからも、ここは観光地だ。海辺の街は住むのに向かない。なぜなら紙の本が湿気て痛む。読書家には致命的なデメリットだった。私たちはよく一緒に暮らすならどこが良いかな、と夢物語めいた話を膨らませた。家賃が多少高くとも、二人なら折半だったし、それなりに広い部屋を借りたいよねえなんて笑い合った。本当のことをいえば、毎日同じベッドで寝起きしたかった。だけども、私は壊滅的に寝相が悪いためそれを諦めた。それが理由でフユキに嫌われたくはなかったし、万が一にも彼女を蹴り飛ばしたりしたらと思うと不安で夜も眠れないだろう。もちろん、フユキはそんなこと気にしないだろうけど。

 私は自分の胸に浮かぶものがなんなのか、見ないふりをして一つのベットで丸まって眠り、ブランケットも枕もシーツもしっちゃかめっちゃかに投げ出した状態で朝を迎えた。彼女の声が聞きたかった。

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