夢見る悪意
男の子みたいな名前だね、と言われた。でもそれは正しい。なぜなら、これは本当なら兄のものになるはずだったから。それすら貰えやしなかった彼のことを、時々考える。
子供のときは陽射しの陰る場所に、カーテンの揺れた時の撓む布に、見上げた空の端に、兄を感じていた。言葉はない、姿もない。けれど、確かに頬を撫でる風に兄の温もりを感じた。誰にも言ったことはないけれど、兄は確かにそこにいたのだ。でもだんだん、兄の気配は薄れて、私が大人になる頃にはすっかり消え失せてしまった。
兄さん、一度も呼ぶことのできなかったその名前を呼ぶ。冬樹、と囁いた私の声は甘ったれの子供みたいに世界に投げ出されて、泣いていた。
ハルキは朝起きるとまず私の部屋にやってきて、私の姿があることを確かめる。私が起きてから眠るまで、そうして眠りから覚めた後、意識の断絶の狭間でどこかに取り込まれて消えてしまうことを、彼女は何よりも恐れた。私は別に、どこにも行きやしないのに。
別の部屋で寝ているし、リビングに行けば嫌でも顔を合わせることになるのに、ハルキはそれを良しとしない。朝一番に私の顔を見なくては、安心できないのだという。
「おはよう」
私は言った。
「……おはよう」
ハルキは大きくがっしりとした腕で、肋骨が軋むくらいに私を抱きしめる。ぎしぎし、と音がしているような気がした。寝起きのハルキの、大きな犬のように無造作な寝癖が見える。
「ハルキ、痛いよ」
「ごめん、でも、もうちょっと……」
ぐでん、と彼女の体が軟体動物のようにたわむ。全ての体重が私にかかって、体の輪郭が鮮明になっていく。ハルキに触れられている時、私は自分の心臓が正しく動いていることを知る。ちょうど、彼女の鼓動が私の鼓動と混ざり合うみたいに。
「仕事行きたくない」
ハルキは気だるげに呟いた。掠れて、普段よりも少し低くなった声が新鮮だった。
「だめだよ、今日は出社の日でしょう」
「そうだけど……」
こういう話をしていると、日常が戻って来たのだなぁと感じる。あの時は、随分と周りに迷惑を掛けてしまったし、すごく心が消耗した。ここにいるはずなのに、誰にも見つからない。世界に一人取り残されてしまったような、そんな気さえした。叫ぼうとして、声すら奪われていることを思い出した時の絶望を誰にもうまく伝えられる気がしない。兄さんも、こんな気持ちだったのだろうか。
「ほら、そろそろ準備しないと。本当に間に合わなくなるよ」
「うん……」
ハルキは諦めたように私から身体を離した。そうして、私たちはリビングに向かった。まずは、腹拵えからだ。
私は朝はあまりお腹が空かないので、ヨーグルトにフルーツを入れたものとか、トースト一枚だけとかで済ませてしまう。けれどハルキは、朝からしっかりご飯を食べる。昨日の残りの味噌汁に、白いご飯、お弁当用に焼いた鮭のあまり、作り置きの常備菜。たくさんのものが、彼女の口に吸い込まれて消えていく。ハルキの口が食べ物を咀嚼するたび、頬がまるく動く。
「よく食べるねえ」
「朝こそちゃんと食べないと」
きっぱりとハルキが言う。
一緒に住んでいるからこそ、生活の時間帯が合わない時は多い。合わせようとしなくては、どんどんズレていってしまう。それは、時計も人の関係も、そうして心や情景も同じに思えた。たぶん、それを怠ればすぐに離れ離れになってしまう。
「……あのさ」
ハルキが言った。
「うん?」
私は答えた。
「あんまり見られてると、食べにくいのですが……」
「ああ、ごめんね」
「いや、良いんだけど」
ハルキはごちそうさま、と手を合わせると、食卓から立ち上がった。そして皿を洗って、支度をするために洗面所に向かった。私はまだ、朝のニュースを流しながら、その左端に表示される時刻を見つめている。扉の向こう、彼女の身支度の音が聞こえる。目を閉じて耳を澄ませる。その時、私はまた透明になるような気がした。ぱたぱた、と彼女の足音がする。
「フユキ、鍵閉めておいて」
薄く化粧をしたハルキが、ひょこりとドアを開けてこちらに言う。私は食べ終わった皿を流しにおくと、そのまま玄関に向かった。
「いってらっしゃい」
靴を履くために玄関に座り込んだ彼女の背中に、そう言った。
「いってきます」
ハルキはローファーを履いて、仕事場に向かった。かけ出す時、揺れる彼女の影が伸びて、消えていく。今日は一日、暖かい日になるという予報だったから、彼女のコートはラックにかかったままだ。もうすぐ、春が来る。
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