君のいるセカイ

藍川 ゆの

夜明けのユメ

―― 嗚呼。

―― また、〝彼〟が呼んでいる。

―― その、泣きそうな声で。



――― いつも、見る夢がある。

それは毎日のように見る夢ではなくて、その頻度は月に二、三回。週に二、三回のときもある。

その夢を見たいと望めば見れるものではなく、何の前触れもなく現れる。不規則で不思議な夢だ。

その夢は、決まって酷く私を悲しませる。そこがどこかさえ分からない、その夢の中に出てくる〝彼〟が誰かさえ分からないのに、だ。



ふわっとした柔らかい風が頬を撫でるように吹く。その風は暖かくて、初夏を知らせる若葉風に近い。

どこからか、ざわざわと音を伴って、吹くその風。私のセミロングの髪が風になびくのが分かった。

(―――……あの、夢だ)

直感的にそう思った。

閉じていた瞼をゆっくりと開く。まだぼんやりとする視界に広がったのは、淡い光りを放つ向日葵畑と夜明けの空。私が見ているのは東の空だろうか。

向日葵畑のずっと先の空が濃紺色から淡い紅色に染めていくのが分かった。

風に吹かれて畑の向日葵がざわざわざわと音を鳴らした。

「やあ。久しぶり。来てくれたんだ」

突然、後ろから声がして、これもお決まりのパターンかと思いながら、ゆっくりと振り返る。

――― そこには、やはり〝彼〟がいた。

まるで初めからずっとそこにいたように――― 否、私が来るのを待っていたように〝彼〟は西の空に沈む白い三日月を背に向日葵畑の中にいた。

彼はいつものように時代錯誤を感じさせる柳色の着流しに狐のお面をつけている。

白い面に黄色の瞳、鼻や口は紅で描かれている、私にはもう見るのに随分馴染んだ不思議な面だ。

そして、その面からは栗色の少し跳ねた柔らかい髪が見える。身長と雰囲気から彼は私より、二、三つ年上のように感じる。

風に吹かれて、彼のすぐ横を向日葵の花びらが舞っていくのが見えた。

私と彼がいるこの場所はちょうど畑の小高い丘のようだった。

「寂しくはないかい?」

不意に彼が口を開く。

細身で長身の彼は狐のお面を被っているというのに、その雰囲気はどこか穏やかで、その存在を怖いとは思えない。

そして口調までも、どこかのんびりとしていて柔らかく、子守唄のようにすんなりと耳に入ってくる。

不思議なことに落ち着くのだ。何も答えない私に彼は困ったように笑った。

「最近の君は笑わないから心配していたんだよ」

そういう彼に私はこれでもかというほど不審な視線を送る。

――― 不思議なことに彼は、私に起きた出来事を知っている。夢の中の人間なのに、本当におかしなことだ。

まるで不審者を見るような私の視線に彼はさもおかしそうにころころと笑った。

夢の中の彼は、いつもどこか楽しそうだった。

でもそんな彼が悲しそうな、泣きそうな声で、言葉を紡ぐその瞬間を私は知っている。

「君から笑顔が消えてしまうなんて、僕は悲しいよ……まるで、世界から色が消えてしまったみたいだ」

と向日葵の花びらに触れながら、彼は言った。

別に私が笑わなくなろうがあなたに関係ないじゃない、と心の中で悪態を吐く。

でも彼があまりにも悲しげな声音で言うものだから、その言葉に心が揺れたのも事実だ。

「君には、笑っていてほしいんだ。―――……君に、だけは」

そう呟くように言った彼の髪をふわり、と風が揺らした。その姿は強い風が吹いたら、消えてしまいそうな儚いものに感じられた。

「ああ。もう時間みたいだ」

不意に彼が私の背後の空を仰ぎ見た。

見れば、先ほどまでただ紅色に染まっていたはずの空からは太陽が顔を出してきていた。徐々に向日葵畑が光を失っていくのが分かった。

「あなたは、ずっとここにいるの?」

私の問いかけに彼は、驚いたような、困ったような様子で頷いた。

それが私からはいつも何も言わない、聞かないから驚いたのか、はたまたその返答に困ったからかは分からない。数秒の沈黙の後、彼は私に言ったのだ。

「僕は、囚われているから」

その声音は少し憂いを孕んでいた。

〝トラワレテイル〟、その言葉の意味が何を指すのか分からない。

私が次に問いかけようとすれば、私と彼の間を強い風が吹いた。

風が収まった後、辺りを見れば一面に広がっていたはずの黄色がセピア色になっていた。

世界が、崩壊していく。どこかで世界が壊れる音がした。

いつも見るこの夢は、どういう訳かこれといった理由もなく、私をひどく悲しませる。

どんな時も私の心の奥底を燻っているようで、目に焼き付いて、離れない。

朝と夜の境界線を背に彼が光の粒となって消えていく。

「もうすぐ目覚めの時間だ―― すずめ

スズメ、そう言った彼の声が。

この夢の世界で一番儚くて脆い、悲しく切ないものだということを私は何年も前から――― いや、物心ついたときから知っている。

知って、いるのに。

その言葉に、彼に、私はいつもどう返していいか分からない。

そして、彼の名前を聞かないまま、いつも時間だけが過ぎて、夢が終わってしまうのだ。

名前さえ知らぬ彼に。

ここがどこかさえも、分からぬまま。

自分が作り出しているはずの夢の中で。

あたかもその夢が、その彼が、懐かしく、既視感さえ覚えてしまっている、というのに。

私は何もできず、知らないまま―――……その夢から、その世界から、まるで逃げ出すかのように。

―――……夢から、覚める。

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