第5話 椎名梓桜




 午後になり、コミュニケーション英語の授業が始まった。


 この授業にはルーティンがあり、最初の五分間、隣の席の人との英会話をしなくてはならない。


 実践的な学習なのかもしれないが、この高校は学習意欲の高い生徒が来る学校ではなかった。大半のクラスメイトはこの時間に日本語を話し、自由なおしゃべりの時間と捉えている。


 しかし、僕にとっては違った。


 隣の席に座る椎名しいな梓桜あずさと僕は、この五分間、いつも真面目に英語で会話のラリーを行う。


 理由は二つ。


 一つ目は、特に仲良く話をするような間柄ではないから。


 そして二つ目は、この学校で最も期待されている彼女の邪魔をするのは気が引けるから。


 教師やクラスメイトたちが彼女の人柄を三つの四字熟語を用いて説明する。


 容姿端麗、頭脳明晰、聖人君子。

 成績は常に学年トップを維持し、クラスの学級委員長を担っている椎名梓桜は正にこの学校の星である。


 彼女がなぜ北高を選ばず西高に来たのかは西高七不思議の一つらしい。まぁ、残りの六つを僕は聞いたこともないが。


 ところで、学校と学年は違えど、そのような人物が最近まで僕の身近にいたはずだ。


 そう、百合恵さんである。


 厄介なことに、椎名は百合恵さんに似ているところが多々あった。


 多角的に秀でている点もそうだし、見た目においても、緩やかに垂れた目尻や艶のある黒いロングヘアーが百合恵さんの面影を感じさせる。


 ただ、僕が思う椎名と百合恵さんの明確な共通点は人望だと思う。


 彼女を嫌う人間なんているのだろうか。百合恵さんに抱いていた印象が、椎名にも当てはまった。


 人を魅了し、期待せざるを得ない雰囲気。


 そんな佇まいが似ていることを、百合恵さんが死ぬまで僕はあまり意識していなかった。


 けれど百合恵さんが亡くなってからのこの一ヶ月間、僕は無意識に百合恵さんの姿を椎名に重ねてしまうようになった。


 つまりは、椎名の存在もまた、心の中で百合恵さんを思い出すきっかけになってしまったということだ。


 二人に接点など無かっただろうに、ひどく失礼な話である。


 しかしそれがおかしなことだと分かっていても、脳が勝手に二人を重ねて見てしまい、どうしたらいいのか分からない。


 そういった理不尽な幻覚のせいで、百合恵さんの死後、僕は椎名に若干の苦手意識を持っていた。


 当然のことだけど、駿矢も椎名も何一つ悪くなくて、勝手に思い出して勝手に傷付いてる僕が一番悪いのだと分かっている。


 本当にどうすればこの脳を切り替えることができるのだろう。


 そしていい加減、心に空いた穴を埋めたくて仕方がない。



「はい、じゃあいつも通り五分間、英会話コミュニケーションはじめてねー」



 若い英語教師が教室の壁にかかるアナログ時計で時間を確認してから生徒たちに呼びかけた。


 とにかく、椎名が真剣に英会話に取り組む以上、僕も合わせる必要があるということだ。


 先に英語で質問されると質問文の意味を理解し、それに英語で返事を考えるという大変面倒な脳の処理をしなくてはならない。そのため、今日も英会話スタートの決まり文句である「How are you?」を僕から言おうとすると



「三島くんって、八木くんと仲良かったんだね」



 珍しく彼女が、僕に日本語で話しかけた。

 なお、三島は僕の苗字で、八木は駿矢の苗字である。



「ノー。ヒーイズマイいとこ」


「英語で続けるの? 三島くん真面目だね。あと、いとこは英語でカズンだったと思うよ」



 知らないし、初めて聞いた。さすがは西高の誇る才女。


 椎名は納得したように胸の前で両の手のひらを合わせた。



「そっか、いとこだったんだね。今朝喋ってたから気になったの。ノーって言ったけど、私には仲良さそうに見えたよ」


「別に。親戚付き合いで昔から一緒なだけで、仲が良いかって聞かれると違う気がする」


「そう? 親戚同士でも仲悪いことあるだろうし、全然仲良しでいいと思うけどなぁ」



 椎名と話していて、椎名と百合恵さんの共通点がまた一つ見つかってしまった。


 人の目を見て話をするところ。


 そういう何気ない所作が多くの人を惹きつけているのかもしれない。



「でもほんとに、学校来てくれて良かったね。私、心配してたんだ」



 学級委員長を務めるものとしての心配なのか、それともただただクラスメイトとしての心配なのか、どちらにせよ椎名は安心したような顔をした。



「まぁ、それは僕も良かったと思ってる」



 学校に来る来ないは尊重されるべき本人の意思だ。


 だから僕は駿矢に一度たりとも学校へ来るよう説得したことがない。


 でももし駿矢が留年して学年が一つ下にでもなったりしたら、気まずすぎて今の百倍関わりたくない。だから僕は、駿矢が学校に来てくれることを普通に喜ばしく思っている。



「だけど、あんなに明るい性格だったんだね。びっくりしちゃった」


「……あー、うん。かもね」



 はにかむ椎名に対して、歯切れの悪い返事をしてしまう。


 学校に来てくれたのは嬉しいが、問題はそこだ。


 あの駿矢の影武者。ニセ駿矢。駿矢の皮を被ったモンスター。


 こっちはもうびっくりどころではない。


 とはいえ椎名に対して、安易に肯定も否定もできない。


 あんな突飛な行動に出るのだから、おそらく駿矢なりの考えがあるはずだ。


 駿矢のために、ここは真実を告げることはしないと決めた。


 だけど同時に、もし何か聞かれたら、庇うための嘘は吐かない。


 僕は取り繕った発言をしたくないから。



「明日以降も、無理しない範囲で来てくれたらいいね」


「……そうだな」



 百合恵さんを重ねるまでもなく、椎名は良い人だった。





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