十八、
「え?」
唐突に現実離れしたことが起こりだしたので、ぼくは頭を切り替えるのに、二、三秒かかってしまった。
はじまったのだ。呪術とやらが。しかもその矛先は、ぼくだ。
「事案番号
千秋刑事が、光って浮かぶ書類を見つめながら、中学生とは思えないお堅いことばを喋っているうちに、ぼくは、寝室に逃げ込もうと、たたきにだらんと出していた足を大至急引っ込め――られなかった。ぼくが身動きするより早く、土倉刑事が玄関の中に踏み込んで、すかさずぼくの両足首を押さえ込んだからだ。
「悪いね」彼はその腕に力をこめながら、相変わらずの苦笑いで言った。「私は、こういう役回りなんだ」
「このことにつきまして、」千秋刑事の口上が続く。「本日、対象者全五十一名に対し、措置の趣旨を説明し、理解を得たうえで順次、本事案に係る情報の消去を行っておりますが、対象者のうち一名について、当該措置を拒否する旨の意思表示がありました」
その最中、ぼくは、なんとかして脱出できないか考えを巡らせたけれど、いかんせん、両足ががっつり押さえられてしまったので、やりようがなかった。寝室のオルガさんへ報告する。
「行けないです!」
「それなら、」彼女はすぐに別の案を出してきた。「手だけでも、ここまで届かないか?」
「手?」
と発するやいなや、土倉刑事がぼくの足を放し、いきなりぼくに雪崩れかかって、上半身を押し倒した。えらい重いわ床に頭をぶつけて痛いわで、ぼくが混乱しているうちに、彼は素早くぼくの右腕を掴むと、背後に引っ張って、捻りあげてきた。これがまた、腕や肩がもげるんじゃないかと思うくらい痛くて、余計なことが全然考えられなくなる。
「ノノ!」
「ギブギブ、ギブギブギブギブ」
たまらず降参の意を述べて、残りの手足をばたばたさせた。けれど、土倉刑事は全然解放してくれない。少し力んだ声で、こう返してきた。
「君たちの、思いどおりにはさせないよ。このままじっとしててね」
「無理無理無理無理」
「本事案にあっては、その高い異常性から、情報の消去を緊急かつ確実に完了する必要があります。つきましては、課長通達第二十八の一の二により、この者の身柄を、超自然力を行使して確保することとしてよろしいか、」
そこでことばをいったん切ると、千秋刑事はぱん、と手を合わせ、張り切ってこう続けた。
「う、か、が、い、ます!」
かすかにぶうん、という低い音がして、浮かんでいる書類がひと回り、いや、二回りも大きくなった。そして、表側の方にじわり、漢字を崩したような記号が、青黒くにじみ出すのが透けて見えた。記号はひとつ、またひとつとにじみ出して、三つきれいに横に並んだ。間隔の空き方からして、もうひとつ記号が出てくるように思えたけれど、しばらくなにも起こらない。
手を合わせたままで千秋刑事が怒鳴った。
「理事官遅い!」
すぐに四つ目の記号がにじみ出てきた。
書類が、なにかを待つように明滅しはじめる。
「決裁完了」
彼女はつぶやき、息を細く吐いてから一気に吸い込んで、勢いよく宣言した。
「
足元から強い風が湧き出して、玄関のひとやものをもてあそびながら、天井へと巻き上がっていく。その真っただ中、青いきらめきが書類の角を焦がしたかと思うと、瞬く間に全面に広がって、書類を焼き尽くした。
灰ひとつ残さずにきらめきは消え、風も嘘のようにやんだ。
千秋刑事が、両手のひらをぼくの方へ向けた。そこに、青い光の球が生まれ、ばちばちと放電しながら、パスケットボールほどの大きさまで急速にふくらんでいく。
「いまから、あんたを完全に動けなくしまーす」
これまでで一番楽しそうな顔をして、彼女は言った。「いま土倉さんに腕をロックされてるのより、はるかに痛いし、痺れますけど、全然我慢しなくて良いですよお」
ぼくを無理矢理このうちから引きずり出すにしても、もっと穏便な、動きを止めるだけの呪術はないんだろうか。というか、この右腕を捻りあげられただけでもう充分動けないのに。どうしてもその呪術でとどめを刺したいんだろうか。どっちにしろ、良い趣味だ。悪い意味で。
万事休す、と頭の中が真っ黒になりかけた
そのとき、
「ノノ! 諦めるな!」
オルガさんの
万事休してない、と彼女は言った。思い込みを捨てろとも言った。どういうことだろう?
ぼくは苦痛でどうにかなりそうな頭の、ほんの片隅をかろうじて回しはじめた。そうだ。まだゲームオーバーじゃない。ぼくがこのまま電撃? みたいなのを食らってからだを動かせなくなり、土倉刑事あたりに担がれてマンションの外の黒いワゴンに運ばれ、いかれた技官にきれいきれいされるまでが勝負なのだ。
その間に、このぼくがやれることはなんだ?
「じゃ、いっきまーす」ノリノリな千秋刑事のもと、光の球がまとう火花が盛りに盛られる。
そして、彼女がまた、息を細く吐き、思いきり吸い込んだ途端、
急に右腕が楽になって、土倉刑事の気配がぱっ、と後ろに引いた。
それでぼくははっとした。
オルガさんの言わんとしたことが、電光石火のように頭の中で繋がったからだ。電撃? から逃げる時間は、たぶんもうない。けれど、そもそも、逃げる必要はなかったのだ。
断末魔の叫びを上げる覚悟だけ、あれば良い。
あとは、
「【
千秋刑事がそう唱え、ばん、という破裂音とともに、光の球を解き放った。
と同時にぼくは、この一秒もない時間を使って、体勢を、わずかに斜めにずらした。
なにせ玄関でのこと、光の球は、ものすごい至近距離を弾丸みたいにすっ飛んで、容赦なくぼくのお腹に命中した。けれどぼくは、そのときにはもう両手を挙げはじめていた。お腹から瞬時に、幾千本ものど太い針で刺されるような、壮絶な痛みと痺れが全身へ駆けめぐるまでの間に、万歳が完成した。
あとは、
「ぐええええええ!」
覚悟したとおり、とてもじゃないけれど絶叫せずにはいられなかった。ただし、なぜか、どう叫ぶかを考える余裕だけは残っていたので、ちょっとおもしろ目の声を出した。千秋刑事にもややウケくらいはしただろう。火花の向こうに見える彼女の顔からは、笑顔が消えたけれど。
気づかれたか。
でももう遅い。
気が遠くなる。
そこをなんとか頑張って、整理してみよう。
なにせ玄関でのこと、ぼくは上がり口に座り込んでいた。そこから寝室の出入り口までは、実のところ、たった二十センチほどしか離れていない。そしてオルガさんは、手だけでも寝室に届かないか、とぼくに言った。つまり、手だけでも寝室に入れば、勝機はあるということだ。
だから、飛電とやらが発動するぎりぎりのタイミングで、感電しないよう土倉刑事が離れたことに気づいたぼくは、自由に動けるようになったほんの一瞬の隙に、からだの向きをずらして、背中を寝室の出入り口に向けたのだ。で、ありったけ両腕を伸ばすために、万歳した。
あとは――、
「ぐええええええ……」
おもしろ断末魔を吐き続け(あくまでも、ふざけていたのは声だけであって、信じられないような激痛と痺れが、からだじゅういっぺんに炸裂してもう最悪だったことは申し添えておきたい)、火花を散らし、びくんびくんと
薄れゆく意識の中で、千秋刑事の「確保! 確保!」という怒号が聞こえ、ぼくの右手が、なんかごわごわしたものに、がっしりと掴まれるのを感じた。一瞬の風というか、空気抵抗的なものを後ろから浴びたあと、最終的には、太ももと背中が、なんかごつごつしたものに支えられ、だらんと完全に脱力したからだ全体が、持ち上げられているような浮遊感に包まれて、落ち着いた。
ぼくを確保したのは果たして、警察か、オルガさんか、どっちだろう……、と思いながら、完全に気絶しかけた、その瞬間、
頭上からのことばが、この耳をつんざいた。
「痛みに耐えて、よく頑張った!」
昔の総理大臣みたいな喝采で、ぼくは意識を取り戻した。全身、超痛くて超痺れているので、ひどいしかめっ面をして固く閉じていたまぶたを、薄目まで開けてみる。
少し涙でにじんだ視界は、なぜか、一面に金色の光のつぶがきらきらと舞い、ちょっとうっとりするくらいの絶景になっていた。そしてそのただ中に、ぼくを抱きかかえるオルガさんの、爛々とした瞳と、弾けるような笑顔があった。
「あとはわたしにまかせてくれ、ノノ」
絶対の自信がこもった揺るぎない声で、彼女は言った。
「いまこそ、約束を果たしてみせよう」
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