十七、②
「ぼくが出ていく」
趣旨は分かる。道理とかいうふわっとした言い方をしたけれど、要は、オルガさんが別の世界の法則のままにこの世界で動き回ると、この世界にどんなレベルでどんな影響が起きるか分かったもんじゃないので、当人が予想していたとおり、彼女を名実ともに封印し続けるというのが、警察の最終決定なのだ。それは良いとして、ちょっと引っかかるのは、
「記憶を消したぼくに、そんな無茶な立ち退きのこと、なんて説明するんですか?」
「簡単ですよ。マンションの管理会社の人間から、『このうちに施工不良があることが分かって、最悪崩壊のおそれがあるんで、緊急で長期の工事することになったから、とにかくホテルに避難してください』っていう話をさせます。そんで、ホテル暮らしをしてもらっている間に、こちらが別のうちを用意して家財道具をまるごと移して、あとは身ひとつ、って感じであんたに引っ越してもらうんです」
「ははあ」ぼくは素直に感心した。「そんな筋書きまで考えてくれたんだ」
「当然でしょ」なぜかむっとされた。「こちとら、遊びでやってんじゃないんですよ。あらゆるケースは想定済みです。――ま、あんたにとっても、悪い話じゃないと思いますけど」
「というと?」
千秋刑事はそこで、書類に書き込むのをやめて、勢いよくぺりっと帳面から切り離した。ざっと書類の表裏に目を通しながら、
「あんた、昨日の夜、オルガさんと一緒に生活するのを渋ってたそうじゃないですか。ほんとは嫌なんでしょ? 彼女と関わるの。ここから離れるためのホテル代や引っ越し代を要求したのだって、ちゃんと耳に入ってますよ。……今回のホテル代や引っ越し代は、全額あたしたち警察が負担します。オルガさんとおさらばする、絶好のチャンスなんじゃないんですか?」
そして小さく頷くと、ぼくを見上げ、また不敵に笑んで、こう
「いまを逃せば、もう二度と、現実に引き返せないよ」
「……」
これは、ただの脅し文句だと思った。この先どんなタイミングだろうと、ぼくの記憶を消しさえすれば、ぼくの中のオルガさんは抹殺されて、積み上げてきたぼくと彼女の繋がりは消滅するのだから。問題は、その前段の問いかけだ。
『オルガさんとおさらばする、絶好のチャンスなんじゃないんですか?』
そう、絶好のチャンスなのだ。彼女の元気を取り戻せたし、身ぎれいにもしてあげられた。キマイラから守ってもらったご恩は、ToTubeとheXunを使って充分返せた。これ以上、ぼくの果たすべき役目はない。この舞台から降りるとしたら、このときを逃す理由なんてない。
『ほんとは嫌なんでしょ? 彼女と関わるの』
そう、オルガさんと、というよりも、余計なひとと関わるのが嫌なのだ。静かな湖のほとりのように、どこまでも平穏で、だれにも邪魔されず、振り回されない、自由なひとりの世界にぼくは暮らしていたい。けれど、オルガさんがここにいる限り、とうていそれは望めない。
流石警察だ。ぼくの本心を的確に突いて、彼らの持っていきたい方へ誘導してくる。一歩、このうちの外に出さえすれば、オルガさんのことは警察が適切に対応してくれるし、ぼくは、警察に身をゆだねているうちに、彼女についての全部、最後に見捨てることへのそれなりの後ろめたさや罪悪感さえ、きれいさっぱり忘れて、いつもの孤独を取り戻すことができる。
たった一歩。
それだけで解放されるのだ。
ぼくは、深く長いため息をついて、
「そうですね」
刑事さんたちに数回、頷いてみせた。
それから、ひと思いに右足を引き上げて、玄関の外へ、
出そうとして、
元どおり引っ込めてしまった。
その足元を、じっと見つめる。
「確かに、ぼくは、ひとりになりたかったんです」
今度は左足を上げて、同じように、前へ踏み出そうとした。
片足立ちになったまま、ふらふらしつつ、結構粘った。
粘ったけれど、それでもどうしても、足を戻してしまう。
「そう、ひとりになりたかった……」
もう一度右足を上げてみたところで、
「喋りと動きが合ってない」と突っ込まれた。「なにをためらってるんですか?」
その瞬間、ぼくの中のなにかの糸が、ぷつりと切れた。それは、これまで守ろうとしてきた、価値観や信条のようなものだったと思う。そうしたら、これまでおのれの本心だと思っていたもののベールが、ほんの少しだけめくれて、本当の本心が、ちらりと見えた。
自覚してしまったのだ。
ぼくは、再び長いため息をついて、足をだらんと下ろすと、
「駄ぁ目だあ」
こころからの声を漏らして、天を仰いだ。そして、ゆらゆらたたきを後ずさりして、上がり口に座り込み、顔を見合わせている刑事さんたちに向けて、それはもうへらへらと、ことばを投げ出した。「駄目です。できません」
「このうちから出ていかない、と」千秋刑事が、ぼくを冷ややかに見下ろす。「なぜ?」
「だって、なんかちょっと、おもしろくなってきちゃったんだもん」
「おもしろくなってきちゃった?」
「そう。こんな機会、またとないじゃないですか。別の世界から、ほんものの
「へーえ」彼女が、挑発的に声のトーンを上げた。「なるほどね、ワトソン気取りだったんだ。思い上がりもここまで来ると、すがすがしいや」
「思い上がり。そうかもしれない。けれど、そういうきもちが抑えられないんです」お手上げして、ぼくは言った。「もうちょっと、うまいこと、ぼくを説得してくれませんか?」
「あんたにこれ以上説得する価値はないです。調子に乗んな」
にっこり一蹴したあと、千秋刑事はいきなり、高らかにひと言発した。
「起案ようし!」
「ようし!」土倉刑事がそれに呼応する。
それからただちに、彼女は手でつまんでいた書類を、ぼくに向けてフリスビーみたく水平に投げ放った。薄っぺらな一枚紙だったから、まっすぐ飛ばずに舞いあがり、ひらりはらりと舞いおりて来る。そして、たたきの真ん中に滑り込んだ途端、
ぴたりと静止し、宙に浮いたまま、ぼうっと青く光りだした。
「ノノ!」
直後、頭の斜め上からオルガさんの声がした。振り向いて見上げると、寝室の出入り口の、ぎりぎり手前まで出てきた彼女が、ぼくに鋭く叫んだ。
「そこは危ない! こっちへ来るんだ!」
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