六、
朝が来た。
四時を回ったあたりから、カーテンの向こうが白んできて、灯りを消したあと夜闇に溶け込んでいた居間の壁や家具が、少しずつ色かたちを取り戻していった。五時になると、ニュース番組が一斉にはじまるので、テレビを点けて、BGMがなくておとなしい、NHKをぼんやり見だした。
いつもこんなに早く起きているわけではない。眠れなかったのだ。
布団にくるまったは良いものの、二人掛けのコンパクトソファで横になるのは流石に無理があり過ぎて、結局、座った姿勢のまま休む羽目になったし、一夜の目まぐるしい展開で脳みそが興奮したのか、意識も冴えに冴えて、ちっとも睡魔が邪魔して来なかった。
スマホもパソコンも使えず、テレビの深夜番組もさしておもしろくないし、ゲームをする気力もなかったので、「眠れなくても目を
黙ってまぶたの裏の暗闇に意識をゆだねていると、いろいろな考えが浮かんでは沈み、また浮かんでは沈みしていった。朝、会社に電話を入れたらどんな反応をされるんだろう。ぼくの望みどおり、オルガさんを身ぎれいにできるだろうか。二十四時間、秘密扱いされたあと、オルガさんはどうなって、ぼくはどうなるんだろうか。等々。
そういう、いま答えの出ないことをついつい(どちらかというと、悪い方に)思案して、勝手に不安を募らせながら、延々と暗闇を漂っていたら、お外でスズメがちゅんちゅん言い出したのだった。
そんなコンディションで夜を明かしたせいか、やってきたこの日の朝が、とても特別に思えた。いや、思うまでもなく特別なんだけれど、負け戦というか、公開処刑というか、そういうものに臨むような、変な覚悟が決まっていた。徹夜しても仕事が終わらなかったときの、いやにすがすがしい諦めの境地にとても近い。
六時を過ぎたところで、早々に自分の朝ご飯を済ませることにして、洗面所でひげを
弁当は週替わりのやつで、
なんとか完食し、出たごみを分別して片付けていたら、ノックのあとで、西谷さん、ではなく杉原さんがドアを開け、「おはようございまーす」といっそうの低音で挨拶しながら、居間に入ってきた。
「あ、どうも……」
ぼくが会釈すると、彼はこの日も早速、こちらの目をじいっと見つめはじめた。良い加減もうやめて欲しい。
「眠れました?」
「全然、駄目でした」
「そうですか」
雑談もそこそこに、杉原さんはすぐ本題に入った。「七時になったら、オルガさんにお粥と味噌汁を持っていきますんで、五分前くらいまでに用意しておいてください」
「ああ、はい」まだこの件は根に持っていたけれど、事務的な応答につとめる。「了解です」
「それと、野々さんから西谷に相談のあった、追加の買い出しの件ですが」
「あっ、はい」
どちらかというと、こちらの方が本題だ。パジャマのままで姿勢を正す。
「署を通じて本部と協議した結果、確かに生活用品ではありますが、内容からして、警察の予算を使って調達するのは適切でない、という結論になりました」
「そうですか……」駄目元で頼んだこととはいえ、にべもなく断られるとがっかりする。「ということは、警察は、オルガさんを一切――」
喋っている途中で、杉原さんが前日に引き続き、手のジェスチャーで制止してきた。
「まだ、話には続きがあります。――突然ですが、警察から野々さんへ、謝礼金を出すことになりました」
「しゃれいきん?」
この流れでいきなりお金をくれると言われると、思い当たる理由はひとつしかなかった。
「口封じですか?」
「警察としては、あくまでも、オルガさんの保護にあたっての部屋の提供や、食事の用意に協力してもらったお礼として、お金をお渡しします。ちなみに金額は一万円です」
「口封じにしては安い」
「口封じではないです」ぼくのことが面倒になったのか、杉原さんがやっと否定した。「お金とは関係なしに、オルガさんのことは一切、表に出さないでください。最重要機密なんで」
「それは、はい、分かりました」
「で、その謝礼金ですが、今日の午前中に、昨日と同じ私服警官が、現金で、私たちや野々さんの食事と一緒に持ってくる
「はあ」すごい遠回しなものの言い方をされたので、慎重に考えながら確認する。「その……、つまり、寝る前にぼくがお願いしたものは、そちらの方で、そういう理屈立てをして、用意してくれる、ってことで良いん、ですね?」
「用意することはできません。ただし、野々さんの代わりに買ってくることは、可能です」
そこまで言うと、杉原さんは、はじめて、にやりと笑った。ぼくは内心ぎょっとしつつも、察しろよ、と言わんばかりのその顔を見て、やっとこのひとときもちが通じ合ったのかもしれないと思って、小さな感動で思わず、つられて半笑いになった。
「じゃあ、それで、お願いします」
「分かりました」
これで用件が全部済んだのか、杉原さんはぼくから目線を外し、それ以上なにも言わずにさっさと廊下へ引っ込んでいった。
ぼくは少し機嫌を直して、さて、やるか、とオルガさんの朝ご飯の支度をはじめた。カウンターキッチンのガスコンロに常時載っているやかんと、コンロの下の棚で眠らせていた片手鍋へ、それぞれ適当に水道水を入れて、コンロの強火であたためる。その間に紙カップのインスタント味噌汁の包装を剥いで、救急隊のアドバイスどおり、具材の袋は除け、味噌の袋だけ開けてカップに中身を出しておいた。
カウンター越しにテレビを見ていたら、まず、やかんの方が、注ぎ口からもくもく湯気を噴き出した。早速火を止めて、カップにできたての湯を注ぎ、ストックしていたあまりの割り箸で手早くかき混ぜる。これで味噌汁は良し。
しばらくして、片手鍋のお湯もぼこぼこ沸き出したので、白粥のレトルトパウチをひとつ投入……する直前になって、パウチの裏に電子レンジを使ったあたため方も書いてあるのに気がついた。杉原さんのことばに引きずられて、湯煎することしか頭になかった。鍋と水とガスの無駄遣いだと軽く後悔したけれど、もうここまで来たので続行する。
五分後に、パウチを鍋から菜箸で引き上げて、やけどしないように端っこをつまみながら、小さめのどんぶりへ、ほかほかになったお粥を空けた。プラスチックのれんげを出してきて、味噌汁と一緒にトレイに載せれば、白い流動食と土色の液体だけの、どう見ても重病人向けのお食事の完成だ。あまりにも見栄えしないので、ちょっと切なくなってくる。
果たしてこれが、夜中の時点で元気のかたまりと化していたオルガさんに、本当に見合った献立なのだろうか、と腕を組んで考えていたら、杉原さんが、ぼくのワーキングチェアを押しながら再び居間にやってきた。
「食事の準備、できました?」
「ちょうどできたところです」
「だったら、オルガさんが、野々さんと話したいそうなので、ついでに、できた食事も持って、部屋に行ってもらえますか?」
「ああ、はい、分かりました」
なんかもう、なし崩し的に、オルガさんの食事の世話の全部がぼくの役目になっちゃっていた。前の日あんなに反発したのはなんだったのか、と思わなくもなかったけれど、意地張ってお巡りさんに食事を運ばせるのも無意味な気がしたので、ぼくは素直に引き受けた。
「杉原さんは、その、来ないんですか?」
「見張りは西谷に交代しました。私は休憩します」彼はソファの隣までチェアを運ぶと、座面に載っていたお茶のペットボトルと菓子パンの袋を掴み上げ、そこにどっかり座ってテレビを見だした。「次の交代は、昼ごろですかね」
「なるほど。――では、持っていきます」
「お願いします」
トレイを持って廊下に出ると、確かに西谷さんが寝室の出入り口の脇に立っていた。ぼくが挨拶すると、向こうも普通に挨拶を返してくれたので、少し拍子抜けした。杉原さんとは、見張りの仕方に微妙な差があるようだ。
寝室に顔を出すと、無論、起きているオルガさんが……、
見当たらなかった。
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