七、

 ぼくの寝室には椅子がないので、脚つきマットレスか、直に床へ座るしかくつろぎようがないのだけれど、中に入って、ざっと六畳間を見渡した限り、どこにもオルガさんがいない。

「あれ、オルガ、さん?」

「こっちだ!」

 後頭部の方から、出しぬけに声が降ってきた。

 びっくりして飛び跳ねそうになるのを、どうにか堪えて振り向くと、天井と二枚の壁が交わる角っこに、オルガさんが、四肢を突っ張って張りついていた。やっていることが、完全に忍者である。そしてその体勢のまま、ぼくに向けて、悪戯っぽい笑顔で挨拶をしてきた。

「おはよう!」

 なんていうか、突っ込みどころしかなかったので、ぼくはただただ困惑した。

「おはよう……ございます」

「驚いたか? からだ慣らしも兼ねて、、気配を殺して待っていたんだ」

「ああ、そういう趣旨……」

 どうやら、純粋にこちらを驚かせたくて、本番さながらの臨戦態勢を披露してくれたようだった。そんなおふざけができるくらい、こころの余裕を取り戻したのなら良かったけれど、とても心臓に悪い。ぼくは一瞬だけ、二度としないよう注意しようか迷ったものの、変に気落ちされても困るので、

「……まあ、お元気そうで、なによりです」と当たり障りないコメントを述べた。

「お、それは、わたしの朝飯か?」

 オルガさんは、ぼくがトレイに載せてきた食事に早速目をつけて、いっそう表情を明るくした。「いま降りる。ぶつかるといけないから、少し離れていてくれ」

 ぼくが寝室の奥に移動すると、彼女が壁と天井から一気に手足を離して、すっ、と真下に落ちた。うまくしゃがみ込んだせいなのか、鎧を着ているのに、着地して、そのあとは普通にがしゃんがしゃんと歩いてきた。そして、前の日の夜と同じように脚つきマットレスへ腰かけたので、ぼくはその隣にトレイを置いて、とりあえず、「白粥と、具なしの味噌汁です」とさみしい献立を紹介した。

 すると彼女は、「おお?」と心底意外そうな顔をした。これまでにない反応だ。

「粥と味噌のスープだ! にもあるのか!」

「えっ?」

 まさか、こんなもので二つの世界が繋がるとは思いもしなかった。「知ってるんですか?」

「もちろん。この白いのは米で、この茶色いのは大豆だろう?」

「はい。そうです」

の中の主流な料理ではないが、アルジャンという国では、煮た米と、味噌のスープが必ず飯に出てくるんだ。それで、そのアルジャンの、寺という宗教の施設に泊めてもらったときの朝飯が、そう、こんな感じの粥と、梅の実や大根の塩漬け、それっぽっちだった。米がべちゃべちゃに煮崩れていたから、はじめ、失敗したのかな、ってユーリヤと話していたら、寺の僧侶に、これは粥という料理で、こころとからだにとても良いものだから、しっかり味わって食べなさい、と説教されたのを思い出すなあ。懐かしい」

 思いのほかの好反応に、ぼくは安心したけれど、それと同時に、強烈なに襲われていた。オルガさんの語る「アルジャンという国」が、どう考えても、日本にしか思えなかったからだ。白飯に味噌汁、お粥に梅干しと漬物。これが和食じゃなかったらなんなのか。しまいにはお寺まで出てきたし。の違う国のはずなのに、いくらなんでも似過ぎやしないか?

 そもそも、本当にいまさらだけれど、日本という国自体知らなかった彼女が、初対面の瞬間からずっと、当たり前のように、日本語でぼくたちとコミュニケーションを(書く文字は意味不明だけれど)とっている時点でもう、充分におかしいじゃないか。

 駄目だ。疑念が止まらない止まらない。

「どれどれ」

 一方のオルガさんは、早速、手の防具を外してれんげを持つと、どんぶりからたっぷり白粥をすくってぱくりと口に入れ、それこそしっかり味わうように、ゆっくり何度も咀嚼そしゃくしたあと飲み込んだ。続けて、カップから味噌汁をすくい、音を立てずに口に吸い込むと、こちらはすぐに喉を通して、ああ……、と嘆声を漏らした。

「うまい。そして、優しい」

 彼女は目を細め、しみじみと頷いた。「米は不思議だな。最初は糊みたいな味なのに、めば噛むほど、ほのかな甘さが口の中に広がってくる。味噌のスープも、塩っぱいが、それを包み込むような独特な旨味があって、まったく嫌な感じがしない。どちらも、押し寄せるのではなく、寄り添ってくれる、優しい味。アルジャンで食べた味、そのままだ……」

 正直、白粥も味噌汁もあたたかかったのと、思い出の献立だったこと、そしてなにより、一週間ぶりの食事だったことで、オルガさんは相当ひいき目に食レポをしていると思った。けれど同時に、むしろそのことが、彼女の素直さを際立たせているような気がした。

 これまでのエネルギッシュな様子とは打って変わって、おだやかな表情で黙々と食事を進める彼女を見て、ぼくは、と彼女自身とを、あやうくごちゃ混ぜにして疑うところだった、とだいぶん反省した。

 あくまでも、不自然なのは彼女をとりまくエピソードであって、彼女自身は、生身の人間として、嘘偽りなくそこにいる。なにかの冗談ではない、だ。本気でいまを生きている存在なのだ。それを否定する資格なんか、ぼくにはないじゃないか。

 なんて、ひとりで勝手に自己嫌悪しているうちに、オルガさんが味噌汁の残りをカップから直接飲みきって、朝ご飯を完食した。

「本当に、うまかった……」目を閉じて、ひとしきり感慨にふけったあと、彼女はぼくに微笑みかけた。「ありがとう、ノノ」

「あの、……ええとですね、」どうもまた過大評価されている気がしたので、ぼくは誤解のないよう、正確に説明した。「ぼくは、料理が全然できないんです。これは、工場でつくられた食事で、買ってきたのも警察のひとで、ぼくは言われたとおりに、お湯であたためただけですから」

「飯は、あたたかいのが一番嬉しい。指示したのがケイサツなら、彼らにもお礼を言いたいが、実際に手間をかけてくれたのがあなたなら、わたしの感謝のきもちは、まったく変わらない」

「そういうもの……ですかね」

「そういうものだ」

 オルガさんが、力強く頷いた。「だから、胸を張って、このきもちを受け取ってくれ」

「はあ、その……、痛み入ります……」

 謙遜に失敗したぼくは、なんだかむずがゆくなってきたので、杉原さんの言っていたことを思い出して、さっさと話題を変えた。

「そう言えば、ぼくになにか、話があるとか……」

「ああ、そうだったそうだった。飯に感激して忘れていた」

 言うと、彼女は自分の左手のひらに目を落とし、それからその手を、トレイを挟んで並んで座るぼくに向けて、開いてみせた。「あなたの手を、ここに重ねてみてくれないか?」

「あっ、はい」

 ぼくはパジャマで手汗を拭いてから、一瞬左右を迷いつつも、ちゃんと右手のひらを選んで、そっと、オルガさんの手のひらに重ねた。触れたところからじんわりと、彼女のぬくもりや、彼女が人差し指につけている指輪の硬い感触が伝わってきて、なぜだかどきどきしてくる。

「うん、やはり、ひと回りノノの方が大きいな……」

 彼女は少し顔を遠ざけて、重なり合った手をじっくり眺めたあと、ぱっと自分の手を離して、おもむろに、人差し指の銀色の指輪を外した。

 そして、

 ぼくが出したままの右手小指に、あっさりそれを嵌めてしまった。

〈……へ?〉

 ぼくはただ、愕然がくぜんとした。

 指輪というものは、少なくともでは大事なものなので、それを託すということは、でも、なにか、重大なを意味するんじゃないかと思って、しっかり指輪を嵌められた自分の小指と、いたって平然としている彼女のことを、泡食って交互に見た。

〈オルガさん、この、この指輪は、その、どういう意味……〉

 動揺丸出しで問いかけるぼくに、彼女はにやりと、したり顔をしてこう応じた。

〈――さあ、密談をしよう。ノノ〉

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