五、②

 ぼくは一度居間に行ってコップを片付けてきたあと、急いで寝室のクローゼットを開けて、上の棚から収納袋に入れた夏布団を引っ張り出し、下に積んでいた衣装ケースからパジャマを取りだした。もちろん、自分が居間で寝るのに持っていくためだ。

 早いとこ退室しようとそれらを抱えたところで、はっと、またしてもぼくが自分のことしか考えていないことに気づいた。それで、サイズが合うかはともかく、オルガさん用にもうひと組パジャマを出して、持っていった。

「オルガさん、これ、ぼくの寝間着なんですけど、もし着れそうだったら……」

「おお、着替えか」

 彼女はそれを手に取ると、興味深そうに広げて持ち上げたり、逆に顔に近づけて、くんくん匂いを嗅いだりした。そして、

「良い香りがするな。それに、良い布地だ。こんな上物をわたしに貸してくれるなんて、ありがたい。――ありがたいが、いまは遠慮しておくよ。魔物がまた、いつここに送り込まれてくるか分からないからな。しばらくはこの格好で、戦いに備えておきたい」

 またしてもこころ配りをお断りされたけれど、言われ方の問題か、不思議と落胆はしなかった。元どおりに畳まれたパジャマを受け取ったぼくは、オルガさんに寝室の灯りのスイッチのオン・オフのことを簡単に説明し、軽く驚かれたあと、今度こそ自分の寝具を抱えて、

「それじゃあ、おやすみなさい」と彼女へ一礼した。

「ああ。おやすみ」

 向こうは微笑みながら、こう言った。「わたしはいま、とても眠いが、きもちは真逆だ。まるで、悪い夢から覚めたみたいだ」

「ええと、」ぼくは、ことばの意味をはかりかねた。「それは、良いこと、なんですよね?」

「もちろん。……牢屋の中で縛られて、食べることも眠ることも許されなかった、地獄のような日々から、やっと解放されたんだ。そうしたら、暗闇のような絶望が、一気に吹き飛んだ。に流されて、封印までされてしまって、状況は最悪なのにな」

 オルガさんはそう笑い飛ばしてから、ぼくを見つめた。

「そんなきもちになれたのは、きっと、ノノや、キュウキュウタイが、わたしをで生かそうとしてくれたからだ。いまのわたしには、ひと筋の希望の光が見える。そして、その光のはじまりがノノ、あなたなんだ。本当に、ありがとう」

 どうやら、ぼくに改めて最大限の感謝を伝えたかったようだった。けれどぼくは、このうちの住人としてたまたま居合わせて、ただ言われるがまま水や経口補水液を持ってきたり、救急隊や警察に状況を伝えたりしただけだ。どう考えても買いかぶり過ぎである。

 なので、

「全然、光ってないです、ぼくは」

 と早めに遠慮しておいた。「それに、もし、ぼくがいのちの恩人だとしても、お互い様ですよ。ぼくだって、オルガさんに、キマイラから守ってもらったんですから」

「あれは、わたし目当てに襲ってきたものを、わたしが生きるために倒したまでだ。……まあ、こうして二人で謙遜し合っていても仕方ないな。寝よう、寝よう!」

「そうですね、そうしましょう」ぼくは寝具を抱えたまま、もう一度会釈した。「それでは」

「うん。また明日」

 睡魔に負けそうだとはとても思えない、さわやか笑顔のオルガさんに見送られて寝室をあとにしたぼくは、居間のソファの上に持ってきた夏布団を広げたあと、洗面所へ入ってスーツからなにから脱ぎ捨てて、浴室で軽くシャワーを浴びた。そして、すっきりしたからだを拭いて、パジャマの下を履いたあたりで、やっと、「オルガさんお風呂に入れない問題」に気がついた。

 なんだかいろいろあり過ぎて気にするどころじゃなかったけれど、端的に言って、彼女は全身薄汚れているし、すごく臭うのだ。さぞかし、劣悪な環境で一週間を過ごしてきたのだろう。なんと言ってもつわものだから、当人はこれくらいでもないのかもしれないけれど、こちらとしてはどうせなら身ぎれいにしてもらいたいし、彼女自身も、きっとそれを望むはずだと思った。

 オルガさんは寝室から出られないので、お湯を運び込んで、それでからだを拭いてもらうことになる。でも、掃除用の小さなバケツくらいしか、うちの中にはお湯を運べる道具がないのだ。一緒に鎧も洗って欲しいけれど、たぶん、バケツひとつだけではあっという間にお湯が汚れちゃって、交換のために何度も行き来しなくちゃならない。彼女が裸になる場面もあるだろうから、なるべく途中で寝室に入りたくないし、なにより、手間がかかって仕方ない。

 どうしようかな……、と思いながら歯磨きして、洗面所を出て居間に戻ると、ぼくの全身パジャマ姿を見た西谷さんが、ワーキングチェアから立ち上がった。

「そろそろ、お休みになりますか?」

「そうですね」部屋の掛け時計を見ると、もう十二時を回っていた。「良い時間なので……」

「でしたら、私は廊下の方に移動しますので、ここでゆっくり休んでください。この椅子、持っていっても構いませんか?」

「え? ああ、全然良いですよ」

「ありがとうございます」

 一礼すると、西谷さんは背もたれを掴んでワーキングチェアを押しながら、居間のドアの前まで来て、「お疲れ様でした」とまた会釈した。

 ぼくも会釈し返したそのとき、突如として、オルガさんのもとへ充分なお湯を届けるアイデアが、ぼくの頭の中に降ってきた。

 アイデアというか、全然脳みそを使っていない、とても馬鹿げた思いつきなのだけれど、これを実現するには、お巡りさんたちの力を借りなければならない。そこで、ドアを開けて居間を出ていこうとする西谷さんを、ぼくはあわてて引き止めた。

「あっ、あのっ、」

「はい」

 振り返った彼女に向かって、ぼくは手を合わせて声をひそめて、こう切り出した。

「お願いが、ひとつだけあるんですが……」

「なんでしょうか?」

「明日で良いんですけど、オルガさんにからだを拭かせてあげたいんです。それで……」

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