五、①
「まあ、お薬だと思って、飲んでもらえれば……」
「そうだな。それが良いな」
救急隊にならって、少しずつ飲んでください、といちおう
「なんだか、からだが少し軽くなって、頭も
と言うと、脚つきマットレスから立ち上がり、二、三回軽くジャンプした。「うん、間違いない。かなり効いている!」
「え?」救急隊のきもちが、いまになって分かった。とにかく効くのが早過ぎる。「もう?」
「この飲み物、やるな!」目を
一方のぼくは、頭の中に、「プラシーボ効果」ということばが浮かんできて、喉まで出かかったものの、なんとか押しとどめて、無事胸の奥へとしまいこんだ。
その代わり、「もう一杯、飲みますか?」とオルガさんに聞いて、「是非そうしたい」との返事をもらったので、寝室と居間を行き来して、再び、あたためた経口補水液を持ってきた。今度は立ったままで、速攻それをあおった彼女は、すこぶる
「うぉっと、」その勢いが強過ぎて、あやうくトレイを落としかける。
「味に慣れた! 薬よりうまい!」
ぎりぎりの褒めことばを元気良くぼくに述べたあと、オルガさんは窓側の壁際に移動して、足を前後させて屈み、両手をまっすぐ伸ばして床に指をつけた。
「足慣らししてみよう」
どこかで見たことある姿勢だな、あ、短距離走のクラウチングスタートだ、と思い出したちょうどそのとき、そこから彼女が一気に飛び出して、ぼくの目の前を横切り、次の瞬間には、がしゃんがしゃんがしゃん、という鎧のかち合う音とともに壁を駆けあがって、そのまま、当たり前のように天井を踏んづけ、逆さまで突っ走っていった。
「え」
ぼくは、ショックでひと声お漏らししたきり、ことばが出なくなった。ただ、「良い感じだあ!」などと喜ぶオルガさんの声が駆け抜けるのを聞きながら、軽々と物理法則をはみ出した彼女の姿を、ぼんやりと目で追うことしかできなかった。
窓際の壁を駆け降りて、寝室を垂直に一周したオルガさんは、急停止して、慣性でざざざと床を滑りながら、まったく息の乱れもなく、ぼくに向けて興奮気味に言った。
「逆さま走りが、できた!」
「……できましたね……」
「からだの調子は八割方、取り戻した! 明日には完全回復できるぞ!」
「……すごいですね……」
「ん?」
ぼくの反応に、オルガさんは不思議そうな顔で、「どうしたノノ。なんだか、上の空だな」
「え? ああ、ちょっと、びっくりしただけです」
彼女がほんもの、つまり、別の世界から来た
「まあ、驚くのも無理はない。わたしがいた世界でも、魔法を使わずに逆さまで動ける人間には、数えるほどしか会ったことはないからな」
「そうなんですね……」
じゃあこのひと、別の世界の中でも桁外れの身体能力なんだな、と理解したところで、いきなり脳裏に、いまさらながらの疑問が湧いて出た。せいおうへいかの盾。罪人。一週間の投獄。よんまどうしにここへ捨て去られた。封印もされた。そういう
「あの、」
ぼくは軽く手を挙げて、向こうの顔色をうかがいながらたずねた。「オルガさんは、元いた世界で、いったいなにをして、こんなことになったんですか?」
彼女はにこりとしたまま、けれど少し間を置いて、静かにこう答えた。
「魔王を、倒した」
「魔王を」思わず、オウム返しするぼく。「倒した」
「うん。そうだ」
「ええと……、」考えながら、ぼくはさらにたずねた。「魔王というのは、その、さっきのキマイラみたいな魔物の親玉、みたいな感じの、すごい悪いやつ、ってことで良いですか?」
「そのとおりだ。この世界には、魔王はいるのか?」
「ぼくの知る限り、魔王はいません。魔物もいないと思います」
「そうか」彼女は小さく頷くと、少しだけ感傷をこめて微笑んだ。「それは良かった」
「話は戻りますけど……、魔王を倒したっていうことは、つまり、すごく良いことをしたわけじゃないですか。それなのに、どうして、オルガさんが牢屋に入れられて、あげくの果てに、この世界に飛ばされなきゃならなかったんですか?」
彼女は、若干
「それは、分からない」
「分からない?」
聞き返すぼく。「なんの前触れも、説明もなくて、こんな仕打ちをされたんですか?」
「ああ」目を伏せて、彼女は言った。「だから、正直に言うと、いま、とても戸惑っている」
「そう、でしたか……」
多少は覚悟していたけれど、寝室の雰囲気が、一気に重苦しくなった。
オルガさんはちょっとしゅんとして喋らなくなったし、こっちも彼女になんと声をかければ良いのか、なかなか思いつかなくて、立って向かい合ったまま、お互い黙ってしまった。一秒一秒がもどかしく、じっとしているのに堪えきれなくなったぼくは、たまらず、
「――まあ、今日は、もう遅いので、寝ましょうか」
とつとめて明るく切り出した。すると、彼女も調子を合わせて、
「うん。そうしよう」
と言ってくれた。それとなくこちらのきもちが伝わったみたいで、ほっとする。
「もっと正直に言うと、いま、とんでもなく、眠いんだ」
そう言えばこのひと、はじめに水を飲んだあと、完全に気絶してたんだった。二本目の水を飲んだあたりから、ほぼずっとアクセル全開な感じだったので、睡魔のことはすっかり忘れていた。ひょっとすると、彼女自身も忘れていたのかもしれない。
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