二、

 それは、五月のゴールデンウィーク明け、月曜日のことだった。

 のどかなお休み気分からいきなり現実に引き戻され、なすすべなく仕事の濁流にのまれて窒息しそうな一日をなんとか乗り切ったぼくは、心底くたびれていた。

 スマートフォンから最近流行りの曲を飛ばしてワイヤレスイヤホンで聴き、家路のところどころで、街灯に照らされた桜が小さな花びらをはらはら散らしているのに少しだけ癒やされつつ、九時半ごろマンションに帰ってきた。

 ほとんど無意識に玄関ドアのテンキーへ暗証番号を打ち込んで鍵を開け、中に入って灯りを点けて、玄関マットの上へ荷物を置いた途端、思わず、ぷひー、と間の抜けたため息が出た。革靴を脱いで上がり、ネクタイを外しながら、着替えようといつもの流れで、すぐ左手にある寝室のドアを開けた。

 真っ暗闇に廊下の灯りが差し込んで、

 あるはずのない、大きなを映しだした。

 なにが起きたのか頭で理解する前に、

 に潜んだ二つの目が、ぎらりと光ってぼくを射抜いた。

 ぼくはとっさにドアを閉めた。

 逃げるようにからだひとつでうちを出て、表札の部屋番号を確かめる。

 一〇一。

 間違いない。

 ひとり暮らしのぼくのうちだ。

 なのに、、いる。

 警察を呼ぼうかと思ったけれど、スマホを手に取ったところで、なんだか自分が話を大げさにしているような気がしてきて、ためらってしまった。本当に、間違いなく、だれかを見たのか? なにかの間違いじゃないのか? というこころの声が引っかかって、ほんの一瞬飛び込んできただけの脳裏の映像に、どんどん自信がなくなってきたのだ。

 とにかく、まずは確かめようと、ぼくは目の前の玄関ドアに、ぎりぎりまで耳を近づけた。

 中はしんと静まりかえっていて、なにも聞こえない。

 一度マンションの外へ出て、問題の寝室と裏手にある居間、さらに、手すりを乗り越えて、ベランダのガラス戸まで、窓を全部調べた。どれも鍵がかかっていて、割られたり壊されたりした形跡はない。つまり、さっき玄関ドアの鍵を開けるまで、ぼくのうちにはだれも入れなかったことになる。

 いよいよ「ぼくの幻覚でした説」が現実味を帯びてきたので、ぼくはいくらか安心して、うちの前まで戻ってきた。玄関のオートロックをもう一度解除すると、わずかにドアを引いて、隙間からそっと廊下をのぞき込んだ。

 灯りが点いたまま自分の荷物が転がっているだけで、だれもいない。気配もない。

 よし、と小さく頷いて、改めてうちへ入った。緊張してはいたけれど、どうせぼくには起きない、ただの気弱なおのれの杞憂きゆうだ、とこころのどこかで信じていた。

 その確信にまかせて、今度は思いきり、寝室のドアを押し開けた。

 そこには、

 あるはずのない、大きなが、なにも変わらずにあった。

 寝室の真ん中で、傷だらけの金属の殻に身を包み、うずくまっていた。

 かすかな息づかい。

 それに合わせて、ゆっくり揺れ動くから、かろうじて持ち上がった頭。

 赤く短い髪に、整った目鼻立ち。

 けれど、血色は悪く、頬はこけ、口は軽く開いたまま。

 明らかに、弱っている。

 なのに、

 その両の目は、

 鮮烈に光を照り返し、ぼくを捉えて離さなかった。

 だれも寄せつけないような、強い殺気をまともに浴びたぼくは、一瞬、完全に身がすくんで、ドアを開けた体勢のまま、動けなくなった。

 本能的に、、と思った。

 すうっとからだの血の気が引いて、

 そのあと、ようやく、

 手足の動かし方を思い出す。

 そして夢中で、つかんだドアノブを力をこめて引き寄せ、一歩後ずさりしたそのとき、

「待ってくれ」

 の方から、声がした。

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